気はいいよもう

 私は気を遣ってくれる人に対していつも申し訳なさを感じます。本当に気を遣える人は、自分がしてあげた事なんか自分から言ったりしないので、私自身がしてもらった事に気づいていない事があるのではないかと不安になります。私がどちらなのかどうか自分では分かりません。

 一方で、気を遣える人同士ではあの人は気を遣えない人だというトークがされる場合があります。溢れてくる気を遣えないエピソードはどれも小さな事ばかりで、気を遣える人は相当神経をすり減らして尽くしてくれているんだと、さらに申し訳ない気持ちになります。嬉しいし、凄いねとか敬う気持ちは起こるのですが、その気の遣い方でそれほど感謝するには至らないからです。気を遣われていることに気づいてしまうと冷めることもしばしばです。

 だとしたら、一切相手に気づかせない事が良いのかもしれません。気づかれる前に遣る(やる)。と考え始めたら気づかれない事の需要にハッとさせられました。見つからないというコンテンツはかなりさまざまなジャンルで取り扱われます。一切気づかれずにバーベキューを準備から片付けまで終わらせるゲームとかあったら欲しいくらいです。

 でも、気づいて欲しいのが念頭にある事が、気づかれない事の面白さを引き立たせるのかもしれないので、遣る(やる)か遣られる(やられる)かに尽きますね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

書くために本を読みます! 本の経済が潤いますように!