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2024ベルリン観劇記録(3) The Silence

2月7日ベルリン3本目。
ファルク・リヒター構成演出のThe Silence。

劇場 Schaubühne シャウビューネ
脚本 Falk Richter
出演 Dimitrij Schaad
映像出演 Doris Waltraud Richter, Falk Richter
演出 Falk Richter
美術/衣装 Katrin Hoffmann
音楽 Daniel Freitag
ドラマトゥルギー Nils Haarmann, Jens Hillje
照明 Carsten Sander

 上演時間105分。一人芝居。シャウビューネ内のグローブ座形式の劇場にて。ディミトリはカザフスタン出身で移民の背景を持つ。父親はロシア系と話していた。観たことがあるなあと思ったら、もともとゴーリキーテアター所属でヤエル・ロネン作品に出演しており、Netflixの東独潜入捜査ドラマKleoで西独の刑事を演じていた。わたしはKleoを面白く観たので、おすすめしたい。コメディタッチだよ。
 最近、イギリスやドイツの作品で女性三世代を描くものは多く見かけた(例えば第十六回小田島雄志翻訳戯曲賞を受賞した拙訳の一つ『未婚の女』と關智子訳『アナトミー・オブ・ア・スーサイド』がそうである)が、男性が祖父-父-自分の父息子関係を振り返る新作演劇は珍しいのではないか。

演出家・振付家であるファルク・リヒターは、自伝的作品『The Silence』で自身の家族史を振り返る。リヒターの父親は、息子と和解するための話し合いをしないまま亡くなった。父親の死後、リヒターは母親との対話を通じて、何年にも渡り語られてこなかった真実、抑圧してきた秘密、現在に至るまで彼を苦しませ続けてきた未解決のトラウマに目を向ける。母親が経験した西プロイセンからの追放と逃亡のトラウマと同様、戦時中に父親が経験した恐怖は、いかにして家族史に、そして夫婦生活に刻まれたのか? 何年にも渡り家族の間で沈黙してきたことは何か? リヒターと彼の姉妹は戦後の西ドイツでどのように育ち、どのように家族が形作られたのか? ティーンエイジャーの頃に芽生え始めた同性愛者としてのアイデンティティは、どのように家族から抑圧され、またどのようにその抑圧と闘ってきたのか? ホモフォビア(同性愛嫌悪)による敵意を経験した際、どのように反応したのか? トラウマの数々、沈黙してきたこと、暴力的抑圧が継続して与えている影響とは? 母と息子の話し合いは、戦後から現在に至るまでの西ドイツの市民社会の深層への旅となる。しかし、自分の記憶はどれほど信用できるのだろうか? 母親が語る人生はどれほど信頼できるものなのだろうか? そしてもし、何もかも変えられるとしたら? 自伝的要素とフィクション要素が混ざり合い、記憶の数々が矛盾し合い、別の現実の可能性が見えてくる。自伝とフィクションの間で揺れ動き、自分自身の歴史が矛盾していくうちに、「男性性の新しい手本」と「新しい形の父親像-両親像の可能性」、という希望の芽が生まれる。家父長制的な抑圧と暴力を越えた先に、どのような形の人間関係があるのだろうか? 全く違う人生があるとしたら、どんなものになるのだろうか?

https://www.schaubuehne.de/de/produktionen/the-silence.html


ホリゾント幕に当たる部分がスクリーン


 リヒターの作品は何度も観ているが、今までのようなドキュメンタリー演劇×タンツテアターではなく、振り付けや歌ばかりでなくマイクも排したシンプルな作り。冒頭で俳優が自分のことと作品のコンセプトを語り、「リヒターを演じます」と宣言して本編が始まる。セルフドキュメンタリーの言葉、母親と対話した際の記録映像、俳優本人の言葉が差し挟まれる。美術は枯山水を思い起こさせる箱庭。途中で枯葉のように舞い込んでくる大量の紙(彼が書いてきたテキストの象徴と思われる)と、封印していた思い出箱から投げ出されるエイズ等の偏見を流布した雑誌・新聞、テントなどで、舞台面にものが増えてゆく。最後のカオスはぐちゃぐちゃであるが寂しくはなく、緊張も緩んでいる。音と美術のセンスが抜群に良い。
 わたしはリヒターの装飾的でない言葉がとても好きだ。彼はドキュメンタリー的手法で俳優達の語る言葉を構成し表現してきたのだが、素直な言葉が生まれるのは、彼が父親に期待しながら叶えられることのなかった、「黙って相手の話を真摯に聞く」zuhören を実践してきたからなのだと想像する。彼が構成する言葉は胸に迫るが、悪戯にエモーションを掻き立てることはなく、適切な距離が置かれているため不快ではない。
 観客席には芸術鑑賞会の高校生や家族連れもいた。誰もが真剣に話に耳を傾けzuhörenしていた。リヒターが切望していた「自分の言葉を真剣に聞いてもらう」という行為が、劇場というセーフティスペースで実現し、少しでも救われているならば幸いだ。わたしも、劇場はいつでも安全に物事を考え、感じられる場であってほしいと考えている。
 終演後、父親と息子と思われる二人がスタンディングオベーションをしていた。こういう作品を一緒に観に来るのだから二人の関係は比較的良好なのだろうが、それが続くように、葛藤が生まれた時は対話できるようにと願う。
 沈黙とは、辛いことを黙って隠しておくことであり、その沈黙を破って語る人の言葉を沈黙して真剣に聞き受け止めることであろう。

記憶の蓋が開けられた結果、色々な物が散乱する最後

ドイツで観られるお芝居の本数が増えたり、資料を購入し易くなったり、作業をしに行くカフェでコーヒーをお代わりできたりします!