見出し画像

【Vol.2】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

海軍軍人を意識した動機

〇昭和8年夏

今の掘方水谷さんの向かいに田中昇治宅がある。

昭和8年、ここに2軒長屋があって、東側の家に宗田さん(仲間町の宗田助エ門の本家)方に、海軍に入って満期除隊した方が居り、その人の海軍軍服姿が気に入り2、3回遊びに行った際、宗田さんから海軍のよもやま話を聞き、すっかりセーラー服にあこがれてしまい、よし、オレも海軍に行こうと思っていた。

私が今保存している、大正15年1月徴兵になった当時の加賀町在住の方の新兵記念アルバムは宗田さんより昭和8年に貰ったものと思う。

○昭和13年12月

私が山辺里織物KK(絹製品)に店員として入社して1年6ヶ月した頃、同職場の一年先輩である久保多町出身の伊藤清(現加藤組社長)が私を呼んで、

“成田くん、この会社には上司として多くの社員が居る。このままでは何時までも下働きだよ、いずれ兵隊検査になれば二人共甲種合格だ。それまで働くのでは面白くない、ひとつ海軍に志願して職業軍人になりたいが、成田くんも賛成するなら会社には内緒で試験を受けないか”

と誘われ、私も同感であった。

早速、翌日父に相談したら、そうだな…家には7人も男の子がいるのにまだ一人も兵隊に行った者はいない。幸い志願のことをよく知っている伊藤さんもいることなら父も大いに賛成だ、と喜んでいた。

2人は志願の手続きを両町役場に提出して12月中頃試験を受けたら、合格者約50%の中に2人共入っていた。

年が明けて2月、待望の採用通知が来たのを確認、さあ、いよいよ会社に退職を申し入れる時が来た。

伊藤さんも同じ機関兵で採用通知が来たのを確認、国家に奉公するんだから勇気を出して話をすることにして、まず庶務係の小田朔平さんに事情を言ったら、それは大変だ、となった。
結局人事のことは、常務取締役の小田銀太郎の妻であるトクイ(当時おかちやま)に申し入れた。
しかし…

”それはダメだ、お前達は当社に入社する時は兵隊検査まで務めることになっているのだ、ここで二人も退職すると会社は大変に困る”

と承諾してくれないので、父に経過を話したら、国のために奉公するのだから親が一方的に引き取ると言って、手拭を10本用意して翌日の夕方、父といっしょにおかちやまに一応話をしたが、会社側はあくまでも聞き入れてくれない。
そこで父は、この際、親の責任で誠治郎を引き取りますと言って退社した。

私の荷物は布団を残し家に運んでおいた。入団までは3ヶ月位あるので、父から体を鍛えるようにと、運送店に事情を話して雇ってもらった。

最初は杉丸太をトラックに積込の仕事で、4月初めから新潟の支店に荷物の運搬。
新潟の支店というが、堀川にある店先に荷物を置くだけの簡単な建物で、その家のおばあさんは社長の2号さん。昼食は決まってカツ丼であった。

又、トラックは新しい日産のキャブオーバー式で、最初荷台のシートの中に入って行ったが、5~6回目位から助手席に乗った。

ある時、新潟からの帰り道、佐々木付近でトラックのエンジン故障になり、近くの農家で電話のあるところをようやく探して玄関に入ると、なんと珍しいことに奥さんは新町に住む知人の妹の八重子さんであった。
それで運よく電話を借りて修理方に連絡した。割合早く故障も治った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?