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【Vol.10】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

巡洋艦筑摩乗組中のホームラン

〇昭和15年10月20日頃

我々下士官兵の身分では衣食住は全部官給、毎日の食事は烹炊所で一切を作り、新兵が食卓番になり、三度三度の食事の世話をする。

1テーブル8人前後で、位の上位から上座につく。
飯はほとんど問題なく分配されるが、お終いとなっていしもちの煮付になると、大きい釜で煮るため身はバラバラになる。
大しゃもじですくってみると、ほとんど身の頭と骨だけのようになって、一匹そのままになっていることはない。
仕方がないから頭は一つくらいにして、細い身を煮汁と一緒に皿につけるより仕方がない。

配食中に、古参兵隊が皿の身を指さし、なんだこれは、身のカスで食べられるか、もう一回これを持っていって取り替えてもらってこいと言われ、食卓番は仕方なく配食した魚を元に戻し、烹炊所へ行って話をするが、もう残っていないよと言われる。

それでも頼むと大ベラで頭をゴツンと打たれ、少しばかり釜の下に残っていたものをもらって、急いでパートに帰って、また同じ状景になる。
仕方なしに食べる人もいたが、食べない人は玉ネギを刻んで醤油をかけて食べ切った人もいる。

この「イシモチ」魚料理では、必ず夜に制裁がある。
また、玉ネギの手料理も醤油が少ないため、たまにしか作れない。

貴重な醤油タンク発見

ある時の日曜日、私が電機倉庫にいたら、烹炊所の下士官が、倉庫にある油面計のようなものを見てすぐ帰って行った。

私がその後にその油面計をよく見ると、醤油タンクの油面計と分かった。
そして最下部には点検用コックがついているが、錆びているのか簡単には開かない。
ぬるま湯をかけて動かす方法をやったら、ついに動くようになった。

少量だが醤油一升位は確保した。筑摩で一升確保するのは大変な量。
この秘密は当分自分だけのものにしておいた。そのおかげで古参兵に良く見られた。

それから玉ネギの確保である。
月に1~2回食料搭載のチャンスがある。
その時には2~3人で狙って玉ネギを一箱ギンバイする。

この仕事も容易ではない。各所に見張がついている。
一人が指定された倉庫の方向に行って、倉庫手前に曲がり角があると、これは別の倉庫だと言われたように元に戻って、付近の発電機室の入口扉内に隠す。

またすぐ下の甲板に下ろし、機械の陰に入れて夜を待って仕事する。

これで当分の間玉ネギ料理はOK。

艦内の便所

筑摩級になるとトイレは6ヶ所程ある。
1ヶ所に和式5ヶ、洋式5ヶで、最大の設備としては上甲板小雷調整室にあって、荒天時の排便は誠に困る。

艦が”ガブる”上に暑さがあると、ペンキと便の臭いで吐き気と便意とが同時に”モヨオシ”てきて、先に使った者がヘドを吐いて、苦し紛れにそのままにして出ていった後にでも入ると、下が止まって上から出そうになる。

これを我慢して、まずズボンのバンドをゆるめ、頭に巻き付けてやる。
次に”そーっ“と尻を下ろし左右に曲げるとやがて下の方からのお出ましとなり、”ヤレヤレ”ということになる。

また、新兵はヘドを吐くとくせになり栄養不足となって勤まらない。

海軍式の玉ネギの切り方

新兵当時の17歳前後では調理経験が少ないので、苦労したり手を切ったりするが、まず見たり聞いたりして馴れてくる。

私は母がリウマチで、手足が不自由であったから、小学校5、6年生の頃から炊事をやったので、経験はあった。それでよく料理番をした。

玉ネギを切るとよく目にしみて困るが、これを防ぐ方法としては、玉ネギを切る前にまな板に上げ、これを制裁をもらった上官と思い、いやという程ハタキつける。
そして、分かったかと言って海水につけてから切ると大丈夫。

料理した皮等は夜まで発電機室の床下におき、人影のない薄暗いところで海に捨てる。


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