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【Vol.20】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。
なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

〇昭和14年1月中旬

海軍志願兵の潜航試験を受けて合格
110人で60人位合格

〇昭和14年2月中旬

海軍志願兵の採用通知受理
採用者30人

〇昭和14年5月30日

村上駅から私と伊藤清、石田三男が出発
長岡で集合、夜行で鎌倉へ。

〇昭和14年6月1日

横須賀海兵団入団
機関科の第55分隊10教班 15名
教班長一機曹 丹野英夫

1ヶ月に一回、市内見学。
安針塚、三笠艦、衣笠公園、走水、久里浜(ペリー上陸記念碑)、神武寺、鎌倉。

新兵教育の総仕上げとして辻堂から鎌倉において紅白に分かれ白兵戦訓練(一泊)。

〇昭和14年11月10日

新兵卒業
海軍三等機関兵となり、転勤先は日本海軍で最新型 日本最大(13.300t)の筑摩乗組 12分隊(電機)となる。
当時舞鶴軍港に姉妹艦の利根と並んで停泊していたので乗組した。

〇昭和14年11月15日

筑摩の艦長海軍大佐 橋本信太郎 着任

〇昭和14年12月1日

舞鶴鎮守府

〇昭和14年12月10日~昭和15年3月20日

航海訓練のため、日本海、瀬戸内海で行動。
その間において、休養のため別府、佐伯、宿毛に入港。

〇昭和15年3月24日~昭和15年4月2日

南支方面(戦地戦務)
この間、沖縄本島の与那原沖(中城湾)に入港、上陸。
砂糖キビ運搬団の貨車に乗って那覇市内を見学、台湾神社参拝。
接待用として乾パンとモンキーバナナが所々にあった。

〇昭和15年3月27日

中城湾出港
南支の厦門湾に入港、仮泊。

〇昭和15年4月2日

洋上訓練を経て台湾の基隆に入港
私は日帰りで二等兵以上は外泊。

〇昭和15年4月10日

任務を終え呉入港、ドック入り

〇昭和15年9月17日

呉出港
南支方面作戦行動

〇昭和15年9月21日

海南島の三亜港外停泊
半舷上陸(1/2)、精糖工場見学。

〇昭和15年9月22日

三亜港出港
佛印(現ベトナム)進駐を援護、かすかに陸の椰子林が見える場所で仮泊。
※仮泊とは、錨は下ろすが緊急の場合はすぐ錨を巻き上げ出港できる体制

〇昭和15年10月6日

横須賀入港
集会所でしるこ、うどんをたらふく食す。

〇昭和15年10月10日

紀元2,600年を記念して横浜沖で特別観艦式に参加。
11日舞鶴に向け出港。

〇昭和15年10月14日

舞鶴に入港
ドック入り
休暇で帰郷、8日ドック出。

〇昭和15年11月1日

艦長交代
小暮軍治大佐着任、海軍二等機関兵

〇昭和15年12月25日

舞鶴出港
内海西部方面行動、艦隊猛訓練、この訓練中、海軍検定褒章(タテ)受賞。

〇昭和16年2月4日

有明港入港
13日出港

〇昭和16年2月15日

佐世保軍港に入港
工機学校入港のため退艦。15日10時、佐世保駅より5~6人で横須賀まで急行列車利用。
16日着、海軍工機学校72期普通科電機術練習生入校。同班に西村、徳永等を覚えている。

ある日曜日に外出した帰路、学校入口の反対側に4階建の病院があり、ふと2階の窓を見たら、仲間町の成田キヨさんと会ってちょっと話をした。

〇昭和16年6月11日

工機学校卒業
成績は中程。
転勤先に舞鶴海兵団補充分隊、横須賀より団体で貨物船辰鳳丸に便乗し、大阪港、呉、門司、舞鶴港着。
補充分隊にいた時、潜水学校を卒業したもので桜に潜水艦を浮き彫りにした徽章を付けた下士官長がいて、私はそれにあこがれ潜水学校に入港志願した。

〇昭和16年9月30日

海軍潜水学校43期普通科潜航術電機練習生として入校、学校は呉市河原石。

〇昭和16年10月1日

海軍一等機関兵


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