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知行と情けとは、車の両輪、鳥の翅のごとくにて候

戦国大名 蒲生氏郷

●会津九十一万石の大名になった氏郷が美濃の伊藤半五郎に教えた
「人使いのコツ」の一節だが、
「部下に対しては、知行(すなわち俸禄)を与えるとともに、情けをかけなければならない。つまり物と心の両面で、部下に接することが大切で、それはあたかも車の両輪・鳥の二枚の羽のようなもので、どちらが欠けてもうまくはいかぬ」

●と教え、この後は、
「その身の不便をば苦労になされまじく候。家中の摺切れをいたわり給え」
とつづいている。

●意訳をすれば、部下には物心両面で働きやすくなるように心を配ってやるのが統率者の役目だが、だからといって自身の不便、不足を気にかけてはならない。家中の困っている者のことを思い、彼らをいたわることこそ、統率者が心がけなければならないことだ、とする。

●もっとも会津・蒲生九十一万石も、氏郷が満三十九歳で亡くなると、その子秀行のときに一度は宇都宮十八万石に移封され、関ヶ原の役で徳川方についた功で再び会津六十万石に復帰できたが、次第に蒲生家の存在は煙たがられるようになる。

●秀行の子忠郷には嗣子がなく弟忠知が継いだが、彼の死とともに寛永十一年には蒲生家は断絶している。

●戦国の時代がおさまって、幕藩体制が整うようになると、藩主個人の儒教的ストイックな身の処し方、教養よりも、官僚体制をいかにすみやかに整備するかが大事になってくるわけだ。蒲生家はそれに立遅れをとったともいえる。

●ちなみに『武家諸法度』(宝永令)には、
「継嗣は男の子孫相承すべきこと、論ずるに及ばず。子なからんものは、同姓の中其の後たるべき者を選ぶべし。(中略)或いは子なくして其の後たるべき者を選ぶのごときには、親族家人等議定の上を以って、上裁を仰ぐべし(以下略)」

●となかなかきびしい法制で後継者選びは幕府の統制下にあり、幕府の思いどおりになり、禁を犯せば名家も断絶されたわけである。

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