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「断片的な言葉」の無意味さとかけがえのなさについて

「慌てない、焦らない、ありがとう、愛してる」
大切なものは全部「あ」から始まる。

むかし好きだった人がこう言っていたことを、ふとした時に思い出す。

もうあれから随分経つけれど、焦っても仕方ないよなあ、というのは歳を重ねるごとに身にしみてきたし、「ありがとう」は家でも外でも人一倍言ってる気がする。


「もうダメだと思ったところから、あと一歩、頑張ろう」

この言葉は、小学校の体育の授業で長距離走のときに先生がいっていたもの。

疲れた、しんどい、もう限界。

部活でも仕事でもそう思うことは数え切れない程あったけれど、そんな時、私は小さい頃に一度だけ聞いたこの言葉に支えられていたのかもしれない。


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"You are what you eat"というように体は食べた物でできていると思うし、同じように、"You are what you say"とも言えるはず。

つまり、私たちは今まで見聞きした言葉や、ふだん自分が話す言葉/書く言葉によってできている、ということ。

他人とコミュニケーションをする時はもちろん、自分の中でしっかり考える時も、ぼんやり妄想する時も、物語の道筋や輪郭を形作るのはいつだって言葉なのだから。


私には幼稚園ぐらいのときに奇妙な癖があった。路上に転がっている無数の小石のうち、どれでもいいから適当にひとつ拾い上げて、何十分かうっとりとそれを眺めていたのだ。広い地球で、「この」瞬間に「この」場所で「この」私によって拾われた「この」石。そのかけがえのなさと無意味さに、いつまでも震えるほど感動していた。

——これは、岸政彦さんの著書『断片的なものの社会学』の中に出てくる一節だ。

道端に落ちている小石みたいに、街には無数の言葉が溢れていて、なんの因果か私たちはそれらとばったり出くわす。

カフェで本を読んでいるとき耳に入る隣のカップルの一言ふたこと。電車のなかで盛り上がる高校生たちの会話。駅でパッと目にとまる新商品の広告のコピー。

それらの一つひとつは元々私にとって意味のないものだけれど、どこかにかけがえのなさを感じて、忘れられなくなることがある。

秋晴れの風が心地よいある日、小学校の横を歩いていた時に校庭から聞こえてきたのは、こんな言葉。

先生:「運動会の合言葉は?」
子どもたち:「明るく、楽しく、元気よく」

子どもたちのかわいい声は気持ちよく響きわたり、思わずスキップしたくなる気持ちを抑えて私はひとり微笑んだ。

これはすごくすごく気に入っていて、今日も仕事中にポケットから取り出して、おまじないのように唱えてみた。

明るく、楽しく、元気よく。


今は意味や繋がりがわからないことでも、後で気づいたら線になっていることがある、というけれど。

尊いのは、線になったものや線になるであろうものだけじゃなくて。

未来に直接繋がることのない(一般的に意味のない)ものも、私にとってなくてはならないものなのだ。

冬の夜空を彩るオリオン座も綺麗だし、大自然の中で見上げる満点の星空は何座かなんてわからなくてもただただ美しいじゃない。

そもそも、断片的なものや言葉が、その後いつどこで何のきっかけになるかなんて誰にもわからないでしょう。

だったら、ちいさな言葉の欠片を大切に抱えて、心のなかで透明な星座を自由気ままに描きたいなあ、と思うクリスマスイブの夜。『La La Land』のEpilogueを弾きました。2017年も色々ありましたが、メリークリスマス。


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