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パブロ・ピカソと鳩をめぐる話【アートのさんぽ】#05 パブロ・ピカソ 


平和の象徴とは何か問われた時、私たちは反射的に「鳩」と答えるだろう。
それはなぜだろうか。
パブロ・ピカソ(1881-1973)が1949年にフランス共産党主催の第1回「平和のパルチザン世界会議」のポスターのために鳩の姿を描き、それが世界中に広まったためということがよく言われる。
ただピカソがなぜ鳩を取り上げたのか、その思いについては意外と知られていない。
ここでは、ピカソと鳩をめぐる話をしてみたい。


《ゲルニカ》を描いた理由

ピカソは、フランスで活躍したスペイン人画家で、南西部のマラガで生まれ、少年時代をバルセロナで過ごした。1901年にパリに移るも、バルセロナとの間を行き来し、1904年からパリに定住するようになっていた。その後、キュビスムの確立など芸術活動に邁進した。それゆえ政治に関心を持つことはあまりなかった。
1931年のスペイン革命で国王が追放され、共和制へと移ると、政情は不安定となった。1936年にフランシス・フランコ将軍のクーデターが失敗に終わって、スペイン内戦が勃発すると、ピカソも政治に関心を持たざるを得なくなった。
ピカソは、1937年1月に内戦状態にあったスペイン共和国政府からパリ万国博覧会スペイン館のために、壁画の制作を依頼された。その直後、4月にドイツ軍によるゲルニカ村への爆撃が起こった。ピカソは、当初予定していたテーマを急遽変更し、《ゲルニカ》を一気に描き上げて出品させることとした。自分の育った自由な国スペインを守るため、共和国政府を擁護し、フランコらファシズムに対する反抗と怒りを露わにしたのである。
しかし、スペインは1939年4月にフランコ独裁政権となり、それが1975年まで続くことになる。ピカソは、亡命者とされてスペイン国籍を失い、1934年の帰国を最後に、その後二度と祖国の地を踏むことはなかった。
1939年9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻して第二次大戦を勃発させ、1940年6月にパリにも侵攻、フランスを占領した。ピカソは、フランス西洋岸のロワイヤンに居たがドイツ軍が侵入してきたため、8月にパリに戻った。アメリカなどへの亡命という選択肢もあったが、パリに留まることを決めた。占領中にゲシュタポ(ドイツ秘密警察)がアパートを捜索に来たこともあったが、ピカソは毅然として対応したという。
ピカソは《ゲルニカ》を描いた抵抗の芸術家ということで、作品の公開を禁じられたが、制作そのものは許され続けた。この時期、いくつか静物画を描いているが、そこには戦争や窮乏など不吉な暗い影が落とされていた。ソーセージやニラといった粗末な食べ物、動物の頭蓋骨や蝋燭、壊れたランプなど不穏なモチーフをさかんに描いた。
1944年6月にノルマンディー上陸作戦が行われるとフランスのレジスタンス運動は活発となり、8月に市街戦が行なわれた後、パリは解放され、ピカソはアトリエにそのまま留まった。この年、ピカソは友人のマックス・ジャコブやロベール・デスノスがゲシュタポに捕えられ収容所で亡くなったことに心を痛めることになる。
ピカソは、第二次大戦やスペイン内戦におけるファシズムに抵抗した共産党に共感し、その上でフランス共産党への入党を決断した。そして1949年、最初に述べた鳩のポスターにつながるわけである。

鳩の画家、父ホセ・ルイス

ではピカソはなぜ平和の象徴として鳩の描いたのだろうか。
ピカソにとって鳩は1913に亡くなった父親の思い出そのものであった。
父はホセ・ルイス・ブラスコ(1838 - 1913)といい、母はマリア・ピカソ・ロペス(1855–1938)といった。「パブロ」という名は、マラガ大聖堂の聖職者で、ピカソが生まれる前に亡くなった伯父(父の兄)に因んでつけられた。
ピカソが生まれたルイス家は、スペインの中流に属していて、祖父ディエゴ・ルイス・イ・デ・アルモゲラは、芸術的な趣味のある手袋職人として成功し、マラガ市立劇場オーケストラのコントラバス奏者でもあった。ディエゴは、マリア・デ・ラ・パス・ブラスコ・イ・エチェバリアと結婚し、4人の息子、7人の娘という11人の子供をもうけた。
3番目の息子がホセ・ルイスで、画家をめざしていたが芽が出ないまま、鳩の絵を描き続けていた。経済的に自立できず、兄パブロが支える実家に未婚の姉妹2人とともに住んで、40歳を越えても独身のままでいた。家族の勧めもあってマリア・ピカソ・ロペスと出会って結婚を決心するが、兄のパブロが47歳という若さで亡くなったため、延期し、1880年に結婚した。
42歳になったホセ・ルイスは、家族を支えるため定職を求め、マラガ市立美術館の学芸員・修復官の職を得、メルセー広場に面したアパートに住むことになる。ピカソは、このアパートの3階で1881年に生まれた。
さらに大きな地震のあった1884年には妹ローラも生まれる。12月のある晩、ホセ・ルイスが薬剤師の店で友人たちと雑談していた時、突然瓶が棚から落ちてきた。あわてて自宅に走り出し、階段をのぼり、身重の妻と外套、息子パブロをつかみ取って広場に走った。パブロは、外套の包まれながら顔を出し、母は頭をスカーフで覆い、いままで見たことのない光景を見たのであった。彼らは、町の東端のヴィクトリア通りを急ぎ、堅固な岩に建つ画家ムニョス・デグライン家に向かった。デグラインはその時ローマに行って不在であったが、彼らはそこに落ち着き、妹ローラはここで生まれたという。
母マリアには未婚の姉妹2人がいたが、彼女らの経営するブドウ農園がアブラムシの大きな被害を受けて経営が成り立たなくなり、ルイス一家のもとに同居するようになる。ホセ・ルイスの肩に家族の生活がのしかかったが、市立美術館の給料はわずかだったので、絵を少し売ったり、美術愛好であった家主に家賃代わりに絵を譲ったり、絵の個人教授をしたりして糊口をしのいでいた。
つまり、ピカソの父は、40歳過ぎまで兄の世話になっていた経済力のない男であり、大成することのなかった画家であった。しかし父ホセ・ルイスは、貧しいながらも、母マリアとともに息子に限りない愛情を注ぎ、妹や2人の叔母たちを養う温かな家庭をつくった。ピカソは、好きな絵を目いっぱい描きながら育てられたのである。父は息子の才能が非凡であることを見抜き、できるだけの教育を施し、自分がなしえなかった夢を託した。

ピカソに尽くした父ホセ・ルイス

ピカソにとって父ホセ・ルイスは、絵画の技術や知識をもった良き師であり、息子の将来のためにすべてを尽くした父親であった。ホセ・ルイスには、ピカソにこれ以上教えることがないと悟ったとき、絵筆をすべて息子に渡してしまい、二度と絵を描くことはなかったという逸話があるほどである。(*ただこの逸話は、ピカソの秘書サバルテスや伝記作家ペンローズによって広められたが、ジョン・リチャードソンによれば、ホセ・ルイスは20世紀に入っても、バルセロナの愛鳩協会の選ぶ年間優秀鳩の姿を描いていたとして、そのエピソードは神話だったとした。また、バルセロナ美術学校の同僚マヌエル・パリャーレスもホセ・ルイスは息子のために絵を描くのを辞めたことはなかったと主張していたという。)
ホセ・ルイスは、1895年のバルセロナ県立美術学校に転職してバルセロナに移ると、息子のためにカンヴァスを張り、15歳の時に独立したアトリエを与え、19歳でパリに出かけるまではポケットの小銭以外のお金をすべて息子のために使ったというほどの献身ぶりであった。

父が鳩を描く理由


ホセ・ルイス・ブラスコ《鳩》1878年


パブロ・ピカソ《鳩》1890年(9歳)

ところが、1913年に父親が亡くなった時、ピカソはスペイン国境近くのフランスのセレに滞在していたのにも関わらず、バルセロナでの葬儀に駆けつけることはなかったのである。
それはどうしてなのだろうか。
 ホセ・ルイスは、背が高く、あご髭をたくわえ、若づくりで、青い目をもつイギリス人(彼は友人からそう呼ばれていた)のようだった。これに対して母マリアは、小柄な身体で、黒々とした髪に真っ黒な瞳をたたえ、庶民的で人情あふれる女性だった。困難なときでも笑顔を絶やさない楽天的な性格で、ピカソはどちらかというと母親似であった。
これを逆手にとって、自画像を描く場合は身体とは不釣り合いに大きな顔や目鼻の造作を描き、巨大さを想起させるような描写法を編み出していくことになる。父親の肖像を描く時は、そのほとんどを人生に疲れた暗鬱な姿にするが、母親の肖像の時は、愛情あふれる温かい姿(もっとも母親は家事で忙しかったので描かれた肖像画も少ない)に描いている。
 ピカソは、算数や読み書きの勉強があまりできず、机にじっと座ることが苦手で、教科書やノートに絵ばかり描いていている少年であった。幼い時に最初に発した言葉が「ピス、ピス(piz、piz)」、つまり鉛筆(lápiz)であったというほどに絵が好きだった。
ピカソは、ほとんど一日中鉛筆を握りしめ、絵を描いていた。従妹のマリアが驢馬をねだれば、即座に背中から描きはじめ、同じくコンチャがもう一枚ねだれば、今度は耳から描き始めるほどであった。
ホセ・ルイスは、息子の性癖を理解し、無理に勉強をさせることなく、素描や油彩など絵の手ほどきをしていった。
ホセ・ルイスは、鳩の絵を描くときに、紙に描いた鳩を切り抜いて、カンヴァス上で動かしながら構図を考えていたが、ピカソの幼年時代の切り抜いた鳩の絵やデッサンも残っている。
ホセ・ルイスがいつも鳩の絵ばかりを描いていたのは、鳩は文句も言わずモデルになり、気軽に飼える鳥だったともいわれる。
1872年、マラガのリセーオ展覧会に《私の鳩》、1877年の同展にも《雌鶏と鳩》を出品、1878年に《鳩》)を制作するものの、そのモチーフは発展することはなく、画家として評価されることはなかったのである。ただ、「パロメーロ(養鳩家)」という渾名で呼ばれるほどに父の鳩好きは町でも有名であった。
仕事場である市立美術館では、修復の仕事とともに、コレクションの模写もしている。模写についてはホセ・ルイス自身も好んでやっていたようで、少なくともエミリオ・オコン《マラガ港の夕暮れ》やレオンシオ・タラベラ《魚売り》などの模写の制作が確認されている。そのうち、オコンの作品については、前述のようにホセ・ルイスの模写をもとに、8歳のピカソも模写《マラガ港》を描いているのである。
 

エミリオ・オコン《マラガ港の夕暮れ》1878年


ホセ・ルイス・ブラスコ《マラガ港の夕暮れ》1889年頃


パブロ・ピカソ《マラガ港の夕暮れ》1889頃(8歳頃)

ピカソと父との微妙な関係

 
 父と息子の関係が微妙になってくるのは、バルセロナ時代からであろう。ホセ・ルイスは、ピカソに自分と同じ教師になる道を歩むよう期待していて、パリに行くのではなく、スペインで大成してほしいと願っていた。
実際にパリに行かせるほどの経済的な余裕はルイス家になかったため、スペインに留まってほしいと考えていた。しかしピカソは、バルセロナの状況に辟易するようになっていた。
もうひとつ、ホセ・ルイスの陰鬱がひどくなってきていて、視力も衰えてふさぎ込み、自分の殻に閉じこもるようになっていた。ピカソとの仲も疎遠となり、厄介な存在になっていったのである。
 この微妙な関係を端的に表しているのは、ピカソの名前から父の名前「ルイス」を落としていったという事実であろう。スペインでは、父親と母親の名前を両方引き継ぐが、短く言うときは父親の名前を使うというのが一般的であるが(例外としてベラスケスやムリーリョがいる)、ピカソはその初期に、P.ルイス、P.ルイス・ピカソ、P.R.P.とサインをしていたが、ある時期からピカソとだけサインをするようになる。
この使い方はバルセロナ時代の後期(1900-1901頃)から始まるが、フランスではRuizの発音が難しいので、カタルーニュの友人たちが名前の変更を促しというのである。これは母の家系のピカソを取り、父の家系を捨てたとも受け取れるようなことであったかもしれない(実際のところ叔父のサルバドールも、一族の自尊心をいたく傷つけるばかりか有力な親戚に恵まれたルイス家を蔑ろにするものだと不満を抱いていたようだ)。
しかし、実際はそう単純なことではなかったようだ。
ピカソが1930年代に写真家ブラッサイに語ったところによれば、髭を生やした父親像は彼のタイプであり、敬意の対象で「僕が男を描くときは、いつも自然に父のことを考える…僕の関係する限りの[描く]男はドン・ホセであり、それは僕が生きている限り続くだろう…多かれ少なかれ僕は父の特徴を描きながらすべての男たちを見ている」と述べているのである。
少年期のピカソにとって父ホセ・ルイスとの関係はあまりにも濃密であり、繰り返し肖像を描き、深く内面化されていたために、後年になって男を描くとき、それは自然に父の姿と重なってしまっていたのである。
鳩の絵も同様に、父の姿に重なっていたのだろう。無意識に父を追うピカソの姿がそこにあったのである。

(参考文献)『ピカソ展 誰でもわかる天才の名画』ふくやま美術館、2015年

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