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エロスの画家・高橋秀の物語(2)【アートのさんぽ】#09

1960年代からイタリアに渡って国際的に活躍した「エロスの画家」高橋秀(1930年生)。
祭り好きの少年が広島県府中市の中学を卒業して悶々としていた終戦後に、二科会の画家、北川實に衝撃的な出会いをする。初めて見る美術の世界に惹きつけられていく。高橋を美術の世界に誘い込んだ北川とはどのような画家なのか、画家を目指して上京した高橋を待ち受けていたものとは何か?


北川實という画家

 
 広島県府中市出身の北川實(1908-1957)は、3歳の時に福岡市在住の叔父の養子となった。14歳で日本製鉄所八幡工場に製図工として入社し、かたわらで油彩画を描き始める。画家を目指して17歳で上京、本郷区春木町にあった本郷絵画研究所で松本弘二に油彩を習い始める。
松本は二科会の画家であったが、もともと黒田清輝に師事していて、その指導法は黒田清輝、岡田三郎助の系譜をひくアカデミックなものであった。
北川は、1926年に弱冠18歳で、第3回白日展において入選し、翌年、一九三〇年協会にも入選する。その後、野間仁根に師事して、二科会に移り、1936年の二科展で入選する。入選作の《河口》は小船が停泊する桟橋から対岸を眺めた構図で、表現主義的な柔らかい作風で描かれていた。8歳年長の野間仁根の影響で作風が変わったのだろう。野間は童心あふれる素朴なフォーヴ風の作品を描き、脂が乗っていた時期であった。

 北川實《河口》1936年


 

この時期、北川は多くの画家仲間たちと交流している。1934年には、東京・谷中で芸術家が集う「茶房リリオム」を譲り受け、「茶房りゝおむ」として開店させて、小さな展覧会を企画した。この茶房では、棟方志功、畦地梅太郎、恩地孝四郎、梅原龍三郎、中川一政、長谷川利行などの小品展、翌1935年には鶴岡政男作品展、佐藤竣介(松本竣介)・北川實洋画小品展、佐藤俊介油彩小品展などを開催した。また、鶴岡政男らの率いるNOVA美術協会の第5回展(1935)、第6回展(1936)、第7回展(1937)にも出品している。1930年代後半から1940年代にかけては次々と二科展に出品し、1943年には会友に推挙された。
北川は、山村風景など田舎の景色を多く描いた。樹木の枝や葉を様式化させ、温もりのある色彩と変化に富んだ色感を使い装飾的でバロック的な空間をつくった。しかし、1945年に37歳にして海軍に招集され、そこで終戦を迎えた。終戦後は故郷の府中市に帰り、同じく疎開していた彫刻家今城國忠や政森敏雄、中山一郎、大島祥丘らとともに「府中造形美術協会」を発足させ、展覧会活動を再開させた。福山の美術家グループ「ぶらんだるじゃん」(1948年に「福山美術協会」として再発足)の会員にも加わり、1947年と48年には福山の天満屋で個展を開催している。
 戦後の作品は、風景画や裸婦像、静物画を描いているが、総じてコロリストといえるほどに色彩が豊かになり、表現主義的な筆致になっていることがわかる。
1950年の冬に描かれた《二月の道後山》という作品がある。これは高橋秀も上京前に同行したであろう広島県北東部の道後山への写生旅行の時、ある山の頂から俯瞰した雪山の風景画である。
銀世界の山麓から奥深く連なる山々を豊かな色感で軽快に描いている。画家仲間で後に福山市長となった徳永豊は「画面に流動する豊富なる色感を漂わせながら気品を堅持している画風は、氏の独自のものである」と述べている。
 

北川實《二月の道後山》1950年

混乱の武蔵野美術学校


 
 高橋秀は、全面的に北川實の世話になりながら、1950年に武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)へ入学した。もともと家族も反対していて、東京に何の縁故もなかったので、受験のいろいろな手続きや人の紹介など、すべてにわたって北川が面倒をみてくれたのだ。希望に燃えてやっとの思いでたどりついた入学であったが、当時の武蔵野美術学校は大変な混乱の中にあった。
 武蔵野美術学校は、もともと1929年に日本画科、西洋画科、工芸図案科を擁する帝国美術学校として開校した。名取堯と金原省吾の2人が東京美術学校へ対抗として発案し、資金的なメドを立てて設立した学校である。創立時の教員は次の通りであった。日本画科に平福百穂、西洋画科に森田恒友、足立源一郎、中川紀元、清水多嘉示、工芸図案科に杉浦非水、藤井達吉という豪華な布陣であった。
戦後は、混乱のなかで始まり、1946年に武蔵野美術研究室として学生を募集し、すぐに極東造形学園と改称し、さらに造形学園とした。1947年にはドイツのバウハウスをモデルとして造形美術学園という名称に変更し、学園長に建築家の山脇巌が就き、純粋美術科、実用美術科の2科で学生を募集した。
いわく「これから造形芸術の各分野には其総合性が益々必要であり、特にこれから其等を世界に見せる日本の立場として其の深さと大きさが大切である。絵画、彫刻、工芸が今まで各々の小さい技術を護る事のみに満足して小さく絵画の為の絵画、工芸のための工芸になり、お互の融通性が段々失われている。これを防ぎ新しい力強い造形芸術の立直しを考える時には、今までのアカデミー的の教育にばかり美術教育を任せて置かれない。茲に思い切った新しい学校組織と教育方針が考えられなければならない」とした。
 しかし、1948年には学校経営の逼迫が表面化した。その窮状を打開するため、同じ校内にドレスメーカー学院を設立して学生募集したばかりか、東味食品工業株式会社のうどん工場まで設置してしまったのである。これに対して学生側は反対運動を起こし、帝国美術学校交友会も造形美術学園の運営に干渉しだしたのである。
 こういうなかで、造形美術学園長山脇巌が辞任し、教授陣も退職に追い込まれるなど、学園運営が事実上崩壊していった。
帝国美術学校交友会は、帝国美術学校を引き継ぐ形で武蔵野美術学校という名称に変えて再建を図ることを決め、翌1949年に武蔵野美術学校として学生を募集した。
募集人員は日本画科5名、西洋画科30名、彫刻科5名、図案工芸科20名であった。校長には名取堯、教員には、日本画科に服部有恒、川崎小虎、奥村土牛、小林巣居、塩出英雄、西洋画科に高畠達四郎、岡田謙三、清水多嘉示、野口弥太郎、宮坂勝、三雲祥之介、吉岡憲、大久保実雄、彫刻科に清水多嘉示、図案工芸科に井上秀雄、原弘、田中良、遠山静雄の名が連なっていた。
入学試験は3月25日、26日の2日間で、入学試験科目は実技、論文、口述試問で学科試験はなかった。日本画科の実技は植物写生(毛筆画または鉛筆淡彩画)、西洋画科と彫刻科は石膏写生(木炭画)、図案工芸科では植物写生と図案(毛筆画または鉛筆淡彩画)であった。入学生は79名であった。1951年における学費の年額は5000円だった。
 1950年に入学した高橋の当時の記憶は鮮明であった。
それによると、校舎は「大変ぼろっちく」、空いた教室には製麺所があり、廊下を走ると穴に足を突っ込むような状態だった。高橋は、1年生の教室ではなく上級生のヌードデッサンの教室に潜り込んで、モデルの前に席を取り、足を開いたポーズを見て上気しながら鉛筆を走らせたという。しかし、彼の求めるものがこの美術学校の中にも、その授業の中にもないことを直感していた。
この時の西洋画科のカリキュラムの内容は明らかでないが、1951年の夏期講習会を参考にすると、実習では、人体研究、デッサン、油絵を行い、別に石膏室を設け、随時自由研究ができるようになっていた。
ということは、通常の授業においても、デッサンが重視されていたことがわかる。つまり、高橋が北川との交流で想像を膨らませた自由で輝くような美術の世界がそこには開けていなかったのである。

緑川広太郎との出会い



上京して美術学校に入学したものの、仕送りもなかった高橋はたちまち生活費に困るようになり、学校を退学し、小さな出版社で使い走りのアルバイトをするようになる。それは、雑誌の挿絵を受け取りに多くの画家のもとを訪れる仕事であった。
あるとき、挿絵の依頼のために独立美術協会の画家、緑川広太郎(1904-1983)のもとを訪ねた。
緑川は横浜に生まれ、1920年に本郷洋画研究所に通い、後に児島善三郎に師事したという画家である。設立間もない独立展に1935年から出品し、1940年に独立賞を受賞、同年「紀元二千六百年奉祝展」に《閑庭》が入選。その後、台湾へ取材旅行をし、数年にわたって主に原住民の風俗を克明に記録した。帰国後に東京世田谷区瀬田に住んだ。1942年に独立美術協会の会友となり、1943年、第3回新文展に、朝靄の中で川船を漕ぎ出して物売りに出かける南国の風景《朝》を出品、抒情的な俯瞰の描写が評価を受け、特選を受賞した。翌年、新文展の戦時特別展に《漁夫》を無鑑査出品する。
戦後は、1946年に独立美術協会で準会員、1949年に会員になっている。その表現は、具象的なものから抽象的なものへと変貌をとげながら独立展を中心に活躍、1966年には《祈り》で独立児島賞を受賞している。
一方で、志賀直哉の小説『暗夜行路』や『小僧の神様』に挿絵を提供するなど挿絵画家としても活躍した。
高橋と出会った当時の緑川は、独立美術協会の会員であったものの、終戦直後で、経済的には厳しい状況にあった。世田谷区瀬田に掘っ建て小屋のようなアトリエを自分で建てて、ここで質素な暮らしをしながら、絵に打ち込んでいた。
高橋は、緑川のその絵描き魂に心を打たれた。
「実は僕も絵描きになりたい」というと、緑川は「そんなアルバイトをやっているようじゃ絵は描けないよ」と返した。そして「ここで寝起きして、飯はうちで食えばいいから、とにかく絵を描くことを真剣に考えろ」と言ってくれ、隣に細長く屋根を降ろして鰻の寝床のような場所をつくってくれた。
これが画家としての本格的なスタートとなった。迷いあぐねていた高橋の背中を緑川は思いっきり押してくれたのである。
そこで描いたのが《築地風景》であった。
1951年の第19回独立展に初めて出品して、入選を果たした記念すべきデビュー作品である。高橋秀は、21歳になっていた。
この《築地風景》は、東京の築地付近といっても勝鬨あたりだろうか、倉庫やクレーン、運河、小船などが輪郭線とともに豊かなマチエールの褐色系絵の具でもって描かれている。人気はなく、築地特有の活気はひとつも見られず、海沿いの倉庫街のうら寂れた様子が写されている。終戦からまだ間もない時期でいまだに戦後復興が本格化せず、暗雲が垂れ込めていた世相を反映させている。
 この暗鬱な風景画には、画家を志したころに出会ったさまざまな影響があらわれている。郷里で絵の手ほどきをしてくれた北川實や、当時の美術雑誌で盛んに特集が組まれた戦後リアリズムの画家アンドレ・ミノーなどの影響などであった。
 

高橋秀《築地風景》1951年

フランスの潮流


 
 1950年代初頭、フランスの若い画家たちの具象絵画の展覧会が東京で開かれようになり、日本の若い画家たちに大きな影響を及ぼしていた。
1951年2月に日本橋高島屋で「現代フランス美術展」(サロン・ド・メイ東京展)が開催され、大変な反響を呼んだのがその端緒であった。1940年以降のナチス支配下のパリでレジスタンスをしながら耐えてきたフランスの進歩的な若い画家たちのグループ展であった。非具象的形態やキュビスム的造形、暗示的なものなどフランス的な知性とともに抑制の効いた表現であった。
このなかで特にアンドレ・ミノー(1923-1986)は美術雑誌に大きく採りあげられていた。『美術手帖』の1951年4月号で写真1点、9月号で土方定一とコンラッド・メイリの記事と写真8点、1953年8月号で関口俊吾と大下正男の記事と写真8点が掲載され、また『みづゑ』など他の雑誌でもかなり大きく扱われていた。
 ミノーという画家は、1923年のパリ生まれで、父親は装飾家で日曜画家、母は婦人帽子の裁縫職人であった。1941年に国立装飾美術学校に入学し、デッサンに熱中する。同校教授のモーリス・ブリアンションは、ミノーの才能を見いだし、激励を惜しまなかったという。1945年に卒業となるが、その前年からサロン・ドートンヌに出品し、47年には会員となる。1949年より、アンデパンダン展に出品するとともに、サロン・ド・メイにも招かれるようになる。
土方定一によれば、ミノーは「オム・テモワン」(L'Homme Témoin、目撃者)というパリのクロード画廊で発表をするグループの一員であった。これは1948年に美術評論家のジャン・ブーレのすすめでベルナール・ロルジュを中心となって、ミノーの他、ベルナール・ビュッフェ、ポール・ルベイロル、ミシェル・ド・ガラール、イヴォンヌ・モット、ジャン・クーティ、ロベール・シャラザックが集まったグループであった。土方は「あるプリミティフな素朴な絵画的意志によって技術と形態が抑制されて形づくられ、色彩が沈められてゆきながら、本質的な表現が求められていく」姿が感じられ、感動したという。
 彼らはリアリズムを標榜するが、それはアカデミックな古典絵画でも19世紀の自然主義絵画でもなく、第2次大戦後に解放されたパリで自己の真実を見ながら、20世紀の抽象的な芸術の流れに毅然と立ち向かおうとするものであった。現代社会に生きる人間や事物の姿を人間的な愛情を込めてリアリスティックに描くことにより、自己の経験と思想を語ろうとするものであった。
 ミノーが描くのは、簡素な食卓の上の食材や食器、椅子、そして貧しい農民や労働者、近くの簡素な教会など身の回りの現実そのものである。その色調は地味で素朴であるが、マチエールは豊かに表現がされていた。
例えば、1951年の『みづゑ』7月号に掲載された《作品》と題された教会のある風景画を見ると、空と原っぱ、小さな1本の樹木があるだけのシンプルな構図の作品である。人気はなく、建物の輪郭線だけが厚く塗られ、重厚なマチエールをもった油彩画であった。

アンドレ・ミノー《作品》1955年


 ここで改めて高橋の《築地風景》と比較して見ると、その風景に当時の個人的な心情や社会的な雰囲気が反映されているように思われる。重苦しい雲、寂しい街、無表情な建物、潤いのない運河などにそれが如実に表われている。単なる風景画とはいえ、その社会状況をも描きだす手法は、ミノーの影響とともに、苦しい中でも絵に立ち向かおうとした緑川の姿勢への共感により生み出されたものだった。
このようにして高橋は、油彩画における表現の方向性やマチエールに神経を使いながら、生活者としてリアリティーのあるモチーフの選び方を確実に掴んでいくことになる。
 

参考文献:谷藤史彦『祭りばやしのなかで -評伝 高橋秀』水声社

#高橋秀 #北川實 #松本 竣介 #アンドレ・ミノー  


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