見出し画像

ブルーノ・ムナーリの《役に立たない機械》【アートのさんぽ】#13


ブルーノ・ムナーリ(1907-1998)は、イタリアの元祖マルチ・クリエーターであった。
その分野は、絵画、彫刻などファイン・アートからグラフィック・デザイン、工業デザイン、絵本、出版、教育などと幅広かった。今回はムナーリの出世作である《役に立たない機械》を見ていきたい。

ブルーノ・ムナーリ《役に立たない機械》1934年

ムナーリは、未来派の中心地であったミラノを本拠地とし、後期の未来派に加わり、そのキャリアをスタートさせた。(*未来派は、スピードやダイナミズムを称え、機械文明や都市文明を賛美した20世紀初頭の芸術運動)
そのなかでムナーリは、当時の最先端技術であった飛行機をモチーフにした「航空絵画」を描いたり、カンパリ・ソーダで有名なカンパリ社のためのキャラクターデザインを作ったりした。
ムナーリの特徴は、シリアスに制作するというよりも、ユーモラスで楽観的、どこか冗談好きともいえる創造性をもっていたことにある。典型的な作品として、折りたためてどこにでも運べるという紙製の《旅行用の彫刻》のアイデアを見てもわかるだろう。

ブルーノ・ムナーリ《旅行用の彫刻》1958年


その中でも有名だったのが《役に立たない機械》である。
まずそのタイトルが面白い。これはいわゆるモビール作品の初期のものであるが、何の役にも立たないという言い方もいいし、機械という言い方もいい。つまり《役に立たない機械》とは、アート作品そのものだろうが、正面から見るのではなく視点をずらして問題提起をするネーミングのセンスが面白い。
さらに詳しく見てみよう。


ムナーリと未来派


 
 ムナーリの《役に立たない機械》の成立を考えるには、1930年代のいくつかの潮流を見ることが必要だろう。
そのひとつが未来派であり、もうひとつがシュルレアリスム、そして抽象派の影響も考えられる。
 まずは未来派との関わりから始まった。少し時代を追ってみよう。
ムナーリは、1927年にミラノの未来派の作家たちとの交流を始め、ミラノのペーザロ画廊における「未来派画家34人展」に参加、1929年、同画廊の「未来派33人」展、パリの23画廊での「イタリア未来派の画家たち」展にも参加した。続く1930年に第17回ヴェネツィア・ビエンナーレでの未来派展、およびペーザロ画廊での「建築家サンテーリアと未来派画家23人展」にも参加した。
1931年、ペーザロ画廊での「航空絵画(41人の航空画家の)および舞台美術未来派展」に参加し、翌年、パリのルネサンス画廊の「エンリコ・プランポリーニとイタリア未来派航空絵画」展に参加するなど、未来派の主要メンバーとしても活躍した。
未来派の作家のなかで、ムナーリに大きな影響を与えたのは、ローマのエンリコ・プランポリーニであった。
ムナーリは、プランポリーニとともに署名した「未来派航空絵画宣言」で次のように述べた。
「われわれ未来派は、空中におけるパースペクティヴの基本原理、すなわち航空絵画の基本原理〔増減する形態や増殖する色彩が空間上で集散する原理〕…それが新しい形態と色彩の漸進的な増殖を引き起こすことを明らかにする」と。
ムナーリは、その宣言を実践するように航空絵画《灰色の物質の中の飛行》(1934年)を描いた。そこには、確かに空中に浮いたような極端なパースペクティヴ、および矩形の連鎖あるいは増殖が見られる。その自由な空間の使い方に、プランポリーニらの影響を見ることができた。

ブルーノ・ムナーリ《灰色の物質の中の飛行》1934年

ムナーリとシュルレアリスム

また、ムナーリは、シュルレアリスムにも関心を示した。
1932年、マン・レイやモホリ・ナギの実験に刺激を受けて最初のフォトグラム(*印画紙の上に直接物を置いて感光させて制作する写真)を制作するとともに、翌年には、パリを訪れ、ルイ・アラゴンやアンドレ・ブルトンにも会っている。シュルレアリスムの影響は、表面的には現われることは少なかったが、フォトモンタージュの作品《「ポーポロ・ディターリア」年鑑のためのフォトモンタージュ》(1934‐35年)にはその例を見ることができる。シンプルな構成の中にも、躍動感や軽快さ、現代的なデザイン感覚があふれた作品である。

ブルーノ・ムナーリ《「ポーポロ・ディターリア」年鑑のためのフォトモンタージュ》1934‐35年

ムナーリと抽象派

もうひとつムナーリにとって大きかったのは、抽象派との接触であった。
1930年代の抽象派の本拠地は、ミラノのミリオーネ画廊(ムナーリも1933年に個展を開催)であった。この画廊は、自らも画家であったジーノ・ギリンゲッリがディレクターをつとめていて、1934年には「イタリアの抽象主義者展」を開催し、ギリンゲッリは、オレステ・ボリアルディ、マウロ・レッジャーニとともに抽象派宣言というべき「出品者の表明」を発表した。
ミリオーネ画廊は、ルチオ・フォンタナやファースト・メロッティ、アタナーシオ・ソルダーティ、オスヴァルト・リチーニといった重要な抽象作家たちの展覧会を開いている。
ソルダーティやリチーニたちは、バウハウスなどの影響を受け、幾何学的な抽象画を描いていたが、ムラーノも、《青い点》のような、有機的な形態と軽快な色彩構成による抽象画を描き、独自の世界を展開していた。
 このように、未来派、シュルレアリスム、抽象派と渡り歩いた末に《役に立たない機械》シリーズにたどり着いた。

ブルーノ・ムナーリ《青い点》1937年

《役に立たない機械》について

ムナーリは、過剰なものや装飾的なものを捨てて、構造を単純化し、抽象的な構成と自由な支持体の試作に没頭していた。そして1934年、透明の糸でつるされて、空中に吊り下がる形の《役に立たない機械》を完成させた。(その後ムナーリはさまざまなバージョンを制作した)
 ムナーリは、この作品について次のように述べた。
「当時、大真面目な巨匠たちの「イタリアのノヴェチェント」が支配的で、多くの美術雑誌は、その他[ノヴェチェント以外]の不屈の芸術的な表明や、独特のユーモアである「役に立たない機械」の私について言及することはなかった」と。
「ノヴェチェント」とは、ムッソリーニ政権のもとで文化政策に大きな力のあった評論家マルゲリータ・サルファッティが主導した伝統回帰的な傾向の美術運動であった。1930年代はファシズムの流れに表だって対抗しにくい状況にあった。
ムナーリが理解されやすい時代状況ではなかったが、彼は独自の造形法を探り、《役に立たない機械》を制作した。これこそが未来派でも、シュルレアリスム、抽象派でもない方向性であり、吊り下げ方式の自由に回転する不思議なオブジェで、キネティック・アート(*動く美術作品または動くように見える美術作品のこと)の元祖でもあった。
それは、ミリオーネ画廊の抽象派とも違っていた
「1933年にイタリアでは初めて抽象絵画が描かれたが、[私以外の]他のものは、いわゆる自然の外形と関係のない幾何学的形態や彩色された空間ではなかった。多くの抽象絵画は、写実的手法で描かれた幾何学的な形態の静物から生じていた」とムナーリは、モランディの例を言及した。
初期の抽象画は、具象的な景色や静物をもとにして抽象的な形態を形成していくのが一般的であったが、ムナーリの作品は、全く別物であった。
ムナーリは、その制作法を明らかにした。
「このオブジェは、平坦に染料で塗られた薄手のカートン紙の刳形(くりかた)と、時に吹きガラスの球体によって構成された。すべては、もろい木の細い棒と絹の糸とともに保たれている。全体として、むだと思えるほど捻じれる絹の糸で風に回るように軽くなければならなかった。役に立たない機械を構成するすべての要素は、それらが調和的につながる状態であった」と。
吹きガラスの球体を試したと述べているので、現在残っていないさまざまなバージョンが試されたのであろう。そして、繰り返しになるが、次のようにも述べる。
「こうした形に切り抜き、それらが調和するように企て、それぞれの距離を計算し、空中で回り、様々な組み合わせを示す(今までの絵画で見たことのないような)別の表情を様々な手法で描いた。大きな回転が生まれるように、極めて軽い絹の糸を使ったのである」と。
こうした、形を刳り抜き、それを絹の糸で垂直に繋げていき、風などにより自由に回転させていくという発想は、ムナーリのその後の作品でも一貫して踏襲されていくことになる。
 

《役に立たない機械》における造形法

 
《役に立たない機械》には5つの正方形のモデュール(基準寸法、この場合は枠組み)が縦に並び、そこに様々なフォルムが入っている。このモデュールを使ったヴァリエーションというのが、ムナーリの基本的な造形法となっているのが分かる。
ムナーリの著書『ファンタジア』においても、「構造分野における組み合わせ可能なモデュール」としてこの方法について詳細に述べている。
「ここで想像力を刺激する練習をもう一つ。ここでは方眼紙を使う。まず方眼紙にモデュール、つまり方眼紙の網目構造によって周囲を閉じられたいくつかのフォルムを描く。…作り手の個性のよって、さまざまなフォルムをもつモデュールができる。…大規模な国際博覧会のパビリオンでは、よくこのシステムを用いて目を引くような建物を建てている」と。
方眼紙を使って、さまざまなフォルムをもつモデュールをつくる方法は、大型建築にも応用できる造形方法だと述べる。この造形法が、《役に立たない機械》で使われ、後の作品にも応用されている。
ムナーリは次のようにも述べる。
「必要なのは、モデュール化された空間の可能性をただ探ること、四角形でモデュール化されたものから、どんな種類のフォルムが生まれ、どのような関係を生むかをただ知ることなのです。考えるな、というのは、理性を排除し、本能を活用し、フォルムをその場その場で配置することから始めることです」と。
ムナーリのいう「理性を排除」するというは、ある一定のところまでは計算できるが、それ以上は予想がつかないので、偶然や本能に委ねるという意味である。
《役に立たない機械》の面白さというのは、ムナーリの作った基本的な枠組み(モデュール)のなかに押し込められた彼のユーモラスで楽観的、どこか冗談好きともいえる創造性だったのであろう。
 
参考文献:『キネティック・アート Arte cinetica e programmata in Italia 1958-1968』アートプランニングレイ

#ブルーノ・ムナーリ #キネティック・アート #ミラノ #シュルレアリスム #ルチオ・フォンタナ  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?