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エロスの画家・高橋秀の物語(3)【アートのさんぽ】#10

1960年代からイタリアに渡って国際的に活躍した「エロスの画家」高橋秀(1930年生)。広島から上京して、一時的に武蔵野美術学校に席を置いたのち、緑川広太郎と出会い、その画家魂に魅せられ、本格的に画家を目指す。独立展で入選するとともに、アンドレ・ミノーなどの影響を受けながらも独自の画風を探る。いよいよ賞を受けて、新たな境地を探す。


カラスの作品で受賞


 

高橋秀《ひかたびたもの等》1957年


 どの画家にも最初のメルクマールとなる作品があるが、高橋秀にとってのそれは1957年の《ひからびたもの等》(ふくやま美術館)であった。
第25回独立展に出品し、奨励賞を初めて受賞した作品である。この受賞は、美術界において少し認められたことと、世間的にも画家として一歩を踏み出せたことを意味していた。
27歳の高橋秀は、出版社や挿絵のアルバイトをしながら絵画を描き続け、個展も開催できるようになり、確かな手応えを感じていた。
この《ひからびたもの等》は、正方形に並ぶタイルを背景に、吊るし棚、テーブル、寸胴鍋、枯れた蓮の花、吊るされた烏とラッパ、仮面などが描かれている。
台所とはおよそ無関係なもの、つまり枯れた植物や死んだ烏、死者を象徴する仮面と鎮魂のラッパが並び、死を連想させている。
 高橋はこの時期、《カラスと瓶》(広島県立美術館)や《赤い部屋》など食卓の上の死んだ烏をさかんに描いている。オランダの伝統的な静物画には、食卓や台所に鴨や家鴨など食材となる鳥が吊るされる光景が描かれるが、不吉な鳥である烏が吊るされる姿はあまり見られない。高橋は、そのようなショッキングな取り合わせをあえてした。
それは色彩にも現れている。ここに使われるのは基本として白と黒、そして赤である。黒は死を、赤は血を意味し、生と死、エロスとタナトスを象徴させている。
ここに見られるように死と連動させるタイルの使い方というと、河原温の「浴室」シリーズ(1953年)の例が思い出される。タイル貼りの浴室という閉鎖的な空間に戯画化された妊婦が立ち、周囲に上半身や頭部、腕といった人間のパーツが不気味に乾いて置かれる。タイルのグリッドが不思議な透視図法を強調し、上下の感覚を失わせ、凄惨なイメージを打ち消すというものである。
高橋のタイルの使い方も、閉鎖的な空間性や潔癖さ、乾いた感じを与えるに充分である。そこにおいてこそ死が冷静に受け入れられ、生きとし生けるものは全て死に向かうことが理解できる。 
さらにこの作品には、神経質な輪郭線の使い方に大きな特徴がある。それは奥行きのない閉塞的な空間を一層寂しくさせる線である。その線は社会に何かを訴えかけ、警告するようでもあり、人間の孤独感や寂寥を表してもいる。
この作品は、高橋の作品のなかでも社会性を帯びた作品のひとつと考えられる。高橋は美術の世界においてメインストリームを歩んできた画家でも、多くの有力な先輩画家と交流するタイプでもなかったので社会のなかで孤高に歩む人たちに対してシンパシーを感じていた。また、楽しそうで美しいものではなく、どこか寂しそうな風景や静物を描く性向があった。
それは社会に対する優しい眼差しの裏返しであろう。日本は朝鮮戦争の特需を経て経済的な成長に向かっていたが、貧しい人もまだまだ多かった。そうした人々への共感が寂寥感をもつ静物画につながっていたのである。
 

ベルナール・ビュッフェへの共感


 
さらに、フランスの具象画家、ベルナール・ビュッフェ(1928-1999)への共感もあった。
 ビュッフェは1928年生まれで、高橋とほぼ同年代の画家である。1948年、パリで最も権威があるとされた新人賞の第1回批評家賞を弱冠20歳で獲得し、当時のシンデレラ・ボーイとして画壇に彗星のごとく登場した。以後、パリの有力画廊ドルーアン・ダヴィッドで毎年テーマを決めて大きな個展を開催し、毎回世界の注目を集めた。1952年の「キリストの受難」シリーズを皮切りとして、1955年の「戦争の恐怖」シリーズや、1956年の「サーカス」シリーズが特に有名で、ヴェネツィア・ビエンナーレのフランス代表にまで登りつめていた。
 その神経質な線と暗い色彩を使ってより悲惨な人間像を描き、実存主義の流行のもあり人々の共感を呼んだ。風景画においては人間を描かず、孤独で悲愁にみちた風景が凍りついたように表現された。神経質な線と緊張感のあるマチエールにより、単純だが力強い迫力を感じさせるものであった。
たとえば『みづゑ』1958年3月号で、布の上の魚を描いた《おこぜ》(1957年)が掲載され、話題となった。作品はペインティング・ナイフで絵の具を立てるように鋭く描かれ、布には重みも質感もないが動きを出すために意識的に粗く塗られた。
色彩的には、最初に彩度の高い色を塗って、その上から暗く重い色彩を塗り重ねて複雑さを出しているのが特徴である。サインも大きく存在感を示すように描かれ、もうひとつの特徴となっている。
魚をデフォルメさせてグロテスクな面白さを演出し、ヒレを平面的に描いて強調し、そこに焦点をあて、さらに魚に強い造形的骨格をもたせ、いままでにないヴォリュームを表現したのである。
ここに見られる輪郭線の特徴や、形態のデフォルメの仕方、平面的であるが強い骨格のヴォリューム感などに高橋は強い影響を受けたのであろう。

ベルナール・ビュッフェ《おこぜ》1957年

 

サインの書き方


 
また、サインの書き方に注目したい。それまで「Hide 1951」「Hide.T 1951」「Hide.Takahashi 1953」「Hi.Takahashi」と何げなく書いていたが、この作品では「秀Taka 57」とデザインした形で書いている。作品の構成要素の一部として装飾的なサインを書いたのである。
これは明らかに、画中の輪郭線とも呼応するように神経質に書いたビュッフェのサイン「Bernard Buffet 57」に追随したものと思われる。画家としての雅号を本名の高橋秀夫から高橋秀に変更し、「秀Takahashi 58」という装飾的なサインとしている。こういう点にプロの画家を目指す高橋の気概が現れている(ちなみに、サインを画面上に書くのは1960年までで、その後は作品の裏に書くようになる)。
また、1957年の《自画像》では、別の形でプロの画家としての気概を色濃く表していた。
細身のスーツにネクタイを締めてパレットと筆を右手に持ち、左手を広げて挨拶する形の自画像で、2人の裸婦モデルを背景にこちらを見据える。裸婦は体も顔もデフォルメされ、日本人とも、外国人とも区別がつかない。
高橋の顔もアフロヘアのような髪型で鋭角的な鼻に締まった唇、まっすぐな黒い瞳で、全体にビュッフェ風のヴォリューム感のある鋭い筆致でブルー系の絵具が使われて描かれる。出版社のバイトや挿絵を描きながも絵で食べていく目途が立って母親を東京に呼び寄せ、何とか親子2人で暮らしていた状況がその背後にあったのであろう。
パレットをもつ自画像は、ベラスケスやゴヤ、ゴッホ、ゴーギャン、デ・キリコなどの西洋の巨匠たちにより、画家としての自信を誇示するかのように描かれてきた。
高橋も27歳にしてその心境に達したのであろう。人物像を描くことが少なかった高橋にとってこの自画像は唯一のものである。これは画家として生きるという表明だったのであろう。
 

高橋秀《自画像》1957年


木下夕爾の批評


 
高橋は、1958年、郷里福山の天満屋美術画廊で2回目の個展を開催し、《ひからびたもの等》も含めて28点を展示した。これを見た、詩人の木下夕爾(1914-1965)が次のような感想を新聞紙上で述べた。
 
 「気持ちよくかつ見ごたえのする個展である。ひと通り観賞し終って、もう少しみたいなという感じが残る。そうしたこころよいフン囲気が私には大変印象的だった。
 何年か前の、当地での第1回展をみた時から、私はこの作家が好きになった。明確な具象でもって、はげしく「物」を追求した画面の裏に漂っているリリシズム(ほのかなペーソスとメランコリー)に心ひかれたのである。それが「形」を深く感銘させる美しい「影」をなしているように思われた。
 門外漢の私は、どちらかというと、文学的、思想的に語りかけてくれる絵画のほうが好きである。詩や俳句を作る場合の「事物」も、まず最初に「物」で、その「物」を浸透しての「事」が日ごろの私の念願である。その点でも、これらの作品が私に教えてくれるところは大きかった。
 白眉とする作品は、昨年の独立展で奨励賞をうけた「ひからびたもの等」であろう。この「ひからびたもの」たちの、何と若々しくいきいきとした感性にささえられていることよ。(中略)
 高橋氏は若いに似ず、古風な建物や燭台や船ダンスのごとき、私たちにとってはすでにアルカイックなものに材をえらびながら、そこから新しさを抽出しようとこころみ、そして成功している。
 しぶい白を基調とした作品が多く、それが落ちついた、ふんわりした階調をあたえながら、背後に現代の憂鬱や苦悩がかくされている。そこには、逃避的なリリシズムや趣味性から脱却して、現代を次代へつたえるはっきりした証明があるのではないだろうか。
 全体としては、いかにも豊かでみずみずしく、しかもしっかりしているということである。郷土出身の、このようなタレントの存在をよろこびたい。その大きな未来にも心から期待したい。」
 
 木下夕爾は、さすがに詩人だけあって、高橋という新人画家を見る目が鋭い。とくに高橋の神経質な鋭い線や孤独感だけではなく、その裏側に潜む抒情性にも注目しているのが印象的である。《ひからびたもの等》のなかに「若々しくいきいきとした感性」を発見し、「豊かでみずみずし」い才能を見いだしているのは、詩人ならではの視点であろう。そこに、木下自身も若いころにもっていた共通するある種の感性を見たのであろう。
木下夕爾は、当時48歳で、詩人としてはもちろんのこと、俳人としても久保田万太郎の激賞を受けて評価され、盛んに作品を発表していたころであった。木下は1914年、高橋の生地に近い福山市御幸町に生まれ、高橋と同じ広島県立府中中学を経て、第一早稲田高等学院(仏文)に進んで堀口大学の影響を受けるが、その後家業の都合もあり名古屋薬学専門学校(現在の名古屋市立大学)で薬学を学んだ。卒業後は帰郷して薬局を営む傍ら、詩作を続け、1939年に処女詩集『田舎の食卓』を刊行し、翌年に第6回文芸汎論詩集賞を受賞したという経歴の持ち主であった。
木下の詩に「帰来」というのがある。そのなかに次のような1節がある。
 
「僕はそこにもゐる/小鳥が巣を編む樹の梢に/屋根の上に/謀略の眼を光らせて
僕はそこにもゐる/しその葉のいろのたそがれのなかに/とほくから草笛のきこえる道ばたに/人なつかしくネルの着物きて
ああ僕はそこにもゐる/井戸ばたのほのぐらいユスラウメの木の下に/人を憎んで/ナイフなんど砥いだりしながら」
 
木下は、抒情的な自然賛歌と思われるようなこの詩情の中に、萩原朔太郎の影響を受けながら「謀略」とか「ナイフ」という殺気立つような言葉を紛れ込ませている。そんな複雑な情感の持主にとって、高橋の作品に潜む心情を読み取ることは容易なことだったに違いない。木下は、このようにして高橋の中にビュッフェ的な憂鬱だけではなく、次に芽生えてくる抒情的表現の萌芽を予言したのであった。
 

藤田桜との出会い


 
 このような時期(1958年)、高橋秀は藤田桜と結婚した。藤田は、高橋よりも5歳年上の布貼り絵作家で、出会った当時は中原淳一のひまわり社で仕事をしていた。
藤田は、東京に生まれ、1945年に大妻女子専門学校(現在の大妻女子大学)を卒業する。在学中は、雑誌『少女の友』につぶらな瞳の可憐な少女を描き絶大な人気を博していた中原淳一に心酔していて、その洋飾雑貨と洋裁の店「ヒマワリ」の常連客になっていた。卒業後、雑誌『婦人公論』に就職が内定していたが、中原に誘われて少女向け月刊誌『ひまわり』の創刊準備の編集部員として働きはじめることになる。
この頃、いわさきちひろと知り合い、一緒に丸木位里・丸木俊夫妻の主宰するデッサン会に通い、さらに猪熊弦一郎の田園調布純粋美術研究室に通い、デッサンを学ぶ。当時、藤田はパウル・クレーに惹かれていて画集を買ったことがある。
「わたしがひまわり社に勤めていた時、…指輪なんか買いたい年ごろに、給料がいくらだったか忘れたが、五百円くらいのパウル・クレーの画集を、アートに飢えていたので買った。とてもうれしかったという思い出がある」と藤田は述懐している。こうした感性やデッサンの勉強は、後の布貼り絵のなかで開花することになる。
1947年には、『ひまわり』の創刊に携わるとともに、その手芸コーナーを担当し、人形作りなどを提案する。『それいゆ』などの雑誌でも、端切れ布を巧みに利用した手芸作品を次々に発表する。
作家としての自信も少しずつみられるようになり、武井武雄、初山滋らの関わる日本童画会にも加わるようになる。1950年、ひまわり社を離れてフリーとなり、婦人雑誌や手芸雑誌、幼児絵本などで創作人形、手芸、童画などを発表していく。1952年には学習研究社の『よいこのくに』の創刊にあたり、表紙絵の担当画家のコンクールに応募し、見事に専属契約を勝ち取る。藤田の表紙絵は、楽しそうな子どもたちの姿を布の特質を生かした独自の布貼り手法で描きだしたもので、以後1989年まで37年間にわたって続くことになる。
そのほか、1953年には『やさしい人形の作り方』(林俊郎と共著、ポプラ社)を出版したり、1955年、NHKラジオの手芸講座を受け持ったり、布貼り絵を『ひかりのくに』や『チャイルドブック』に発表するなど多方面で活動をしていた。
藤田は、時に文章も担当することがあり、まさに絵本作家、人形作家として第一線で活躍してきたわけである。藤田の特徴は、服地の図柄を用いて部分的に切り取って布貼り絵を構成する作画スタイルで、どの国でも通用するユニバーサルなかわいい人物の顔の表情や仕草を巧みにつくる独自の手法を確立したのであった。
 そんななか、高橋も中原淳一の世話になっていて、雑誌『ひまわり』や『それいゆ』に挿絵やカットを描いて収入を得ていた。ひまわり社に出入りすることも多くて、藤田と知り合うことになり、やがて結婚ということになったわけである。
結婚後、世田谷区弦巻にアトリエ兼住居をつくるが、この時は、郷里の知人らの協力も仰いでいる。
支援者のひとり平克己は、「ある日、新市町内に住む、近藤さんと言う人がやって来て、「実は新市町出身の画家で、将来を嘱望されている、高橋秀さんと言う人が、東京でアトリエを作りたいと言っているので協力して欲しい」と言われた。そこで、少しばかり協力した。その御礼にと言って頂いたのが、2号の「赤い煙突」である。これが縁で、その後何枚かの絵を手に入れたが、最初の「赤い煙突」は今でも私の最も思い出深く、大切にしている作品である」と述べている。
このようにして結婚生活をスタートさせたが、しばらくして、高橋は藤田の前に正座して、「絵画制作に専念するので、食べさせて欲しい」と頼み込んだ。挿絵などを描いていると、絵画の方向性がおかしくなってしまうと考えたのだ。
幸い藤田は手芸や人形作り、絵本制作など出版関係の仕事を手広くしていたので、それが高橋の画家への道を支えるようになったわけである。
 
参考文献:谷藤史彦『祭りばやしのなかで -評伝 高橋秀』水声社

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