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町なかでコーヒーを奢るコミュニケーション論。

5月末に『がんを抱えて、自分らしく生きたい』という本を上梓した。

当初、この本に載せようと思っていたのだが、脱稿する直前でバッサリと省いた原稿がある。
だから、編集者の見目さんも知らない原稿だ。
どこに発表するわけでもないので、少し改編してブログに載せてみようと思う。
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最近、勤務先近くのコーヒー専門店で、来てくれた方来てくれた方にコーヒーを奢り続けるということをしている。これだけ聞けば、意味が分からないと思うが、要は私が店内にいる日時をツイッターなどで公開し、それを見て来てくれた見ず知らずの方にコーヒーを奢っているということ。

「なぜ、そんなことをしているんですか?」

と尋ねられるが、これはリレーショナルアートという分野のパフォーマンスである。人が利害関係のない他人から「奢られる」という体験をしたときに、その心理がどう動いて、どう行動するのか、ということを含めての表現である。

「つまりこれは演劇をしているということですね」

という指摘をしてくれた方もいた。確かに私の側には台本がある。その台本を元に、お店に来てくれた方と即興劇を繰り返していると言えば、少しは理解されるかもしれない。

 これまで、多くの方がコーヒーを奢られに来てくれた。最初に、「今日は何の話をしましょうか?」という私のセリフから始まるのだが、自分の悩みを滔々と語る方もいれば、私から話を引き出そうとする方、そして一切何も会話せずにコーヒーだけを飲んで帰った方もいた。人の行動というのは本当に興味深い。

 暮らしの保健室の活動もそうだが、見ず知らずの人と町なかで会話をするような企画をたくさんしているので、それを見ている方からは、

「西先生は、人と話すことが好きなんですね。コミュニケーション能力高いですよね。」

と言われることがあるが、それは私の一面に過ぎない。本来の私は、読書やゲームが好きなインドア派であり、なるべく人と接することなく毎日を過ごしたいという自分である。医師というプロフェッショナルとして人と接する場合にスイッチを切り替えて、コミュニケーションスキルを駆使しながら対話をしているというのが正しい。
コーヒー奢り企画の時は、そのスキルを少し緩めて利用しているだけ。患者さんや家族と話をするときは全身全霊をかけてスキルを使っているので、かなり疲労している。病状説明や生死に関する話をする場合など、体力的に1日2件くらいが限界で、3件目になると使っている言葉のコントロールがきかなくなってくることがわかる。だから私は本質的にはコミュニケーションが得意な方とは言えない。

 しかしそんな私でも、コミュニケーション能力は以前と比較すれば高くなったとは感じる。日常的な実践と勉強、また冒頭に述べたような初対面の方と対話を続ける訓練などをしてきた結果である。コミュニケーション能力は、天性の才能で決まるような印象を持っている方が多いような気がするが、実際にはスポーツなどと同様に、学びと練習で上手になる。ただ、医学部でも医師になってからも、コミュニケーションはスキルであるということを教えてくれる人がいないので、医師は独学でコミュニケーションを学ばなければならない。結果として、医師のコミュニケーションスキルに大きなばらつきがでる。暮らしの保健室に持ち込まれる相談でも、「主治医とのコミュニケーションがうまくいかない」、というものはかなり多い。医師側のコミュニケーションスキルが低い場合が多いが、患者さん側のスキルに問題がある場合もある。

 私はコミュニケーションスキルについて語るとき、いつも「囲碁」を例にしている。囲碁は、碁盤の上で石を打ちあって陣地を広げていくゲーム。その打ち方には「定石」があり、本などでも学ぶことができる。しかし、定石だけで囲碁を打つことはできない。対戦相手がいるから当然だ。対戦相手の打ち方に合わせて、その定石を頭に入れつつ、変化に対応していかなければならない。そしてまた定石や、名人の打ち方から学び、実践を繰り返していくことで上手になっていく。
私がなぜ、囲碁を例にして将棋やチェスをコミュニケーションに例えないのかというと、囲碁は相手に勝つことだけが目的ではないと思うからだ。囲碁では、名人同士の対戦においてその盤上に、お互いの思考の成果が積み重なっていく中で、ひとつの作品ともいえる美しい世界が広がる。思考が乱れれば、手も乱れ、盤面は荒れる。対戦する相手同士が、ある程度の棋力を持っていなければ、美しい盤面が現れることもない。コミュニケーションも同じだ。コミュニケーションの目的は、相手を打ち負かすことではない。相手が言葉を打ってきた箇所を受けて、こちらも言葉で応える。その言葉の重なり合いが、場を作っていく。一部の局面だけにこだわると、他の局面がおろそかになっていることに気づかず、コミュニケーションエラーに陥って場は荒れていく。場は常に変化し、思いも寄らないところから局面が転換することもある。どこにこの場の急所があるかを見極め、その点を押さえられるかどうかが、対話の質を左右する。医療者ならこういった訓練は必須で、患者さんが仮にコミュニケーションが上手ではない場合でも、それに合わせた打ち方ができなければならない。逆に言えば、患者さんの側もこういった観点からコミュニケーションスキルを身に着けていけば、医療者との対話の質も上がっていく。

 訓練を積んだ医療者と、初学者とのコミュニケーションスタイルの大きな違いは「不確実性に耐えられるかどうか」にある。患者さんや家族に何らかの課題が生じたとき、初学者はそれに対する具体的な答えを求めがちだ。例えば、患者さんが「元気なうちに旅行に行きたい」と言えば「じゃあ、具体的な予定を立てましょう」と言いたくなるし、「もう死にたい」と言えば「そんな悲しいこと言わないで」と言いたくなる。訓練を積んだ医療者であれば、医学的知識やこれまでの経験から、患者さんがどういう経過を辿っていくかについて予想ができるので、例えば「旅行に行きたい」と患者さんが言った時に、それが本当に可能かどうか、不可能であればどのような代替手段があり得るのか、といったところまで考察することができる。その結果として、この課題はいま解決すべき問題なのか、それともいまは答えを出さずにしかるべき時を待つべきなのか、といった判断ができる。簡単に言えば「未来が見えている」ので、その見通しの中で自信をもって「答えを出さずに待てる」のである。
「答えがない問い」を問われたときに、沈黙こそが在り方なんだと自信をもって佇むことができるかどうか。しかも、冷たい沈黙ではなく、温かい沈黙というか心のこもった沈黙。それもまた、盤面の前で向き合う二人の間で織り成す空気からなるのだ。

コミュニケーションの方法を言葉で伝えるのは難しい。
在り方を考える、そして謙虚であることが大切。
「これが正しいコミュニケーションだ」と言った瞬間にウソになる。私たちは患者さんの言葉ひとつひとつに真摯に謙虚に向き合うしかないのだと思う。
そこに正しい答えはなく、ただ無垢な盤面が広がっているだけなのだから。


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2005年北海道大学医学部卒。 2012年から川崎にて、腫瘍内科-緩和ケア-在宅ケアをトータルで診療するシステムを創る。2017年に暮らしの保健室を設立し病気になっても安心して暮らせるまちづくりへ取り組む。リレーショナルアーティスト。
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