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夢を語る人を止めるなら、風呂を焚いてほしい。

 あるカフェで、20歳くらいの若者が、
「おれ、ミュージシャン目指しているんだ」
 と夢を語っているのを聞いた。
 すると、近くにいた友人たちが
「え、やめなよ。音楽学校出身でもないのに。普通に就職しなよ」
 と言ったり、
「君なんかには無理だよ。ミュージシャンで食っていけるなんて一握りなんだぜ」
 と言って、しばし口論となった。
 僕は隣の席で、ぬるくなったコーヒーを啜りながら、耳に入ってくる青春を懐かしんでいた。

 人が夢を語る時、必ずといっていいほど夢を止める人というのが現れる。

 これに対する「回答」って既にたくさん出ていて、
「その道で成功していない人からのアドバイスは聞く必要ない」
「『音大卒じゃないから』、のような適当なレッテル張りに惑わされるな」
「アドバイスする人が、僕の人生に責任をとってくれるわけではない」
「他人のアドバイスで道を決めたら、最終的に絶対に後悔する」
 などなど。

 僕は、基本的にはその回答たちに賛成する。その人の人生だもの、やってみたい、と思うならチャレンジしてみたらいいと思う。
 ただ、「人生にアドバイスをする人の心理ってこうなんじゃない?」っていう考察については、「そうかなあ」と思うことがよくある。例えば、

「夢を追っている人に対する妬み(自分は夢を追えないから)」
「常識の枠外に出そうなことを叩きたくなる同調圧力」
「人の行動にとにかくひとこと言いたくて仕方ない評論家」

 といった、「結局は自分のことしか考えてないよね」とか「自分のことは棚に上げている」などという評価だ。他人の人生に対してアドバイスをするのは、「余計なお世話」「悪いものである」という風潮があるように、僕は最近感じている。
 でもね、もちろん「自分が言いたくて言っているだけ」という人もいるかもしれないけど、本当にその人のことが大好きで、親族や友人として心から心配をしてアドバイスをしている人もいると思うんだ。
 個人の意志がそれとして尊重される世界を目指すことには賛同する。でもその反動で、「あいつがどうなろうと、自分で決めたこと。自己責任だよね」っていう、乾いたコミュニケーションの世界に向かっていないだろうか、という点を僕は危惧している。

 先に言っておくけど、「心から心配してアドバイス」をしているからと言って、それは正しいとか、聞き入れるべきだという話をするつもりはないよ。善意で固めた言葉は、むしろ残酷に人の心を縛る力をもっているから。
 ただ、「アドバイスする側の心理」を曲解されて、友人・親子関係が破綻したりだとか、そういった衝突を恐れるがゆえに「心から心配して」アドバイスする人が減らないでほしいなと思って、これを書いている。

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人生へのアドバイスは天気予報に似る

 では、「夢をあきらめたほうがいい」と言ってくる親せきや友人たちって、どうしてそんなことを言ってくるのだろう。
 それは「自分だけの未来が見えているから」だと、僕は思う。その人たちの経験・常識・データなどなどから、彼らの心の中で作られた未来。その未来が悲劇的であると予測しているからこそ、大切なあなたに「傷ついてほしくない」と先回りして止めようとするのだろう。それに対して、あなたが見ている未来は違う。成功する未来を見ているはずだ。
 それぞれが見ている世界が違う。それなのに、お互いが同じ世界で生きているかのように錯覚しているから、そこに衝突が生まれるのだと思う。衝突したまま突き進めば、人間関係が破綻する。衝突を避けようとすれば、「世界が違うんだから知ったことではない」「自己責任でしょ」という、ドライな個人主義の世界に向かっていく。それはどちらも、あまり温度のある世界とは言えなくて寂しい。

 では、アドバイスってどうとらえれば、お互いに楽になるんだろう。

 僕は「天気予報のようなものだな」って、とらえればいいんじゃないかなって思っている。
 未来はこうなる、将来はこうなる、雨が降る、晴れになる・・・。同じようなものじゃない?

 天気予報が秀逸なのは、そこに「降水確率30%」という数値が入ることと、気象予報士という信頼性の2つの要素が加味されることだ。

 よく考えてみてほしい。天気予報って誰でもできる。あなたにもできる。「猫が顔を洗ったら雨」という迷信にもとづく予報から、「夕日がきれいなら次の日は晴れ」といったみんなの経験則に基づくもの、また「この風の匂いは・・・嵐が来るぞ!」という人間離れした超感覚で天気を予測する方まで。
 その素人予報が当たることもある。
 でも、気象予報士がデータに基づいて出した予報にかなうことはない。僕らは、膨大なデータと経験・知識に裏打ちされた気象予報士を信頼して、天気予報をみている。
 そして天気予報のもう一つの要素が「降水確率」だ。その「数値」があるから、僕らは傘をもっていくかどうか、自分で選ぶことができる。

 他人からの人生へのアドバイスも、これと同じようなものだ。みんな「未来を予測して」何かを言っている。猫が顔を洗うと同じくらいのノリでアドバイスを繰り出す人もいれば、その人が歩んできたこれまでの経験やデータから本気で忠告してくる人もいる。音楽のことなら、音楽で成功した人が見る未来はより正確になるだろう。でも重要なことは、例え気象予報士でも、100%天気を当てることはできないということだ。100%の未来なんてない。
 そしてもうひとつ重要なことは、人生に対するアドバイスではみんな「降水確率」を告げないということ。告げればいいのにね。
「僕は、君がミュージシャンになれる確率は20%くらいだと思う。だから勧めない」
とかね。
 まさか、自分の未来への予測は100%当たるとかみんな思ってないよね?

 だから、他人からのアドバイスって、「アドバイスした人の信頼性×アドバイスの降水確率」で考えてみたらいい。
 素人の友人が「音楽やめたほうがいい」というのが「(音楽に関する)信頼性20%×降水確率80%」なら、その当たる確率は15%くらいと見積もるし、音楽プロデューサーの「やめたほうがいいよ」は「信頼性80%×降水確率70%」なら、その未来が当たる確率は60%くらいだ。
 あとはアドバイスを受けた側が、それを聞いたうえで「傘を持つかどうか」を決めればいいと思うの。降水確率60%でも傘を持たない人はいると思うし、それで実際に雨に降られない人もいるのだから。

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雨に濡れると思うなら、風呂を焚いておけばいいよ

 そして、これまでたくさんのアドバイスをしてきた皆さん。
 そこのお母さんも、そこのサラリーマンも、そしてそこのあなたも。

 未来を予測するのが難しいからといって、心から心配する友人や親せきにアドバイスをするのはこれからも止めないでほしい。
 善意の押し付けは迷惑以外の何物でもないけど、「いつでも話を聞くよ」「心配しているよ」というちょっとしたおせっかいがない世界って、ドライすぎて味気ないと僕は思う。
 ただ、あなたの予報する降水確率ってどれくらい?ってことは踏まえたうえで、今までよりは控えめに「傘持っていったら?」とか「専門家の天気予報も聞いてみたら」くらいのトーンで関わってみるといいんじゃないのかな。

 そして、本当に皆さんが、ミュージシャンを目指す彼を心から心配しているなら、雨が降ると予測しているんだったら、きちんと「帰ってきて温かい場所」を作っておいてほしいなと思う。降水確率80%でも傘を持たずに意気揚々と出ていった子供が、雨に濡れて帰ってきたときのために、お風呂を焚いておくように。もしそこで、「だから雨が降るって言ったじゃん」って嘲ったり、「私の言うこと聞かないから」って、子どもを濡れたまま放っておくのだったら、やっぱり皆さんは「自分が言いたくて言っているだけ」の人なんだろうなと思う。

「雨が降りそうな空ね」
「そうかい」
「傘持っていきな」
「僕はいいよ」
「テレビでも午後から雨って」
「うるさいな」
って言い合える社会であってほしいなと思っている。それはちょっと煩わしいかもしれないけど、コミュニケーションが乾いていく社会よりはずっといい。
 傘を押しつけないように。そして、子供が雨に濡れて帰ってきたら
「お風呂焚けてるよ」
って言って、ドアをあけてほしいなと思う。

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