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医者と患者の間には溝がある~それでも鎮静を求めてほしい

「耐え難い苦痛、というのがわからない」
から、その日のカンファレンスは始まった。
ある患者さんが、
「私は耐え難い苦痛がある」
「だから鎮静をしてほしい」
と訴えたというものだ。

緩和ケアは、患者の苦痛を緩和するための技術だ。痛みがあればモルヒネなどの薬を使って緩和し、精神的な苦痛を対話でやわらげ、孤独や経済的な問題にも社会資源を駆使して応える。
しかし、それら様々なケアを行ったとしても「耐え難い苦痛」が患者にあり、残されている時間も短い場合には「鎮静」といって、眠る薬を用いて苦痛を感じずに済むようにしましょうという手法だ。
最近では患者の側がこの「鎮静」の存在を知っていて、医療者に求めてくることも増えてきた。
しかしその時に、医療者と患者の意向が対立することが起きてきている。
「まだ『耐え難い苦痛』とは言えないのではないか」
と。
その視線が、患者と医療者の間に大きな溝をつくってしまう。
「どうせ、当事者ではないお前らにはわからないだろ」
と、患者を孤立させる。

「耐え難い苦痛」は、あると信じる

思えば、「耐え難い苦痛」というのは曖昧な概念だ。
患者が「私には耐え難い苦痛がある」とさえ言えば、どんな苦痛だって「耐え難い苦痛」になる。ベッドの上でのたうち回って、誰が見ても苦しそうでも「大丈夫です」という患者もいるし、普通にご飯も食べてスタスタ歩けていても「耐え難い苦痛がある」とおっしゃる方もいる。人によって苦痛の捉え方は千差万別だ。
でも、それをもって医療者が「みんなそれくらいの苦痛には耐えていますよ」というのはおかしい。
みんなって誰だよ、「耐えがたきを耐え・・・」とはならないんだよ、となるのが普通だろう。その人に「耐え難い苦痛がある」というとき、苦痛はそこに「ある」と信じなければ、医療者と患者の溝は深まるばかりだ。

ただもちろん、「耐え難い苦痛」があるというだけでは鎮静の適応にはならない。鎮静は安楽死とは違う。生命予後が十分に残っている状態で眠らせてしまえば、それは本来生きられるはずだった寿命を短縮する行為になるので、倫理的・法的に問題がある。
だから、患者が「耐え難い苦痛」を訴え、鎮静を求めてきたからといって、その希望をそのまま叶えてあげることが医療者として正しいこととは思わない。
「今眠ってしまうよりも、もっとできることがある」
「もう少し、できることをやらせてはもらえないか」
と私たちは説得するだろう。今できることに何があり、残されている時間がどれくらいあり、医学的適応としての鎮静とはどういうものかというのを丁寧に話し合い、理解できないまでも患者の世界における苦痛に粘り強く向き合っていく必要がある。
またそれは、患者の「今日よりも良い明日が来る」という期待を預かることだ。私たちは、患者が明日も苦痛に過ごすかもしれない時間を負う。その重さを、医療者は自覚しなければならない。

コンセントが2つある壁

「患者が求めるがままに、眠らせてしまってもいいのか」
という意見も出る。
鎮静は医療行為であり、医者が判断する前に患者がそれを行うかどうかについて口出しすることに違和感があるのかもしれない。それに、患者が言うに任せてすべての医療行為を行うのだとしたら、医者なんて職業は存在しなくたっていいということになる。
ただ、医療者が「ナワバリを侵される」ように思っているのだとしたら、それは違う。
そもそも、患者が易々と入ってこれる「医療者のナワバリ」なんてものが見つけられたら、患者はどんどん侵したらいい、と私は思う。
だって、医療のプロでもない患者がそんなに簡単に入ってこれるんだったら、それはもうプロの領域ではないということ。「公共の場」になったということ。本当のプロというのは、入っていきたいと思っても入っていけない領域をもっているものだと思う。

例えば、我が家にはコンセントが不自然に2つ並んでいる壁がある。明らかに施工ミスなんだけど、こんなの誰が見てもおかしいと思うだろう。注文していないし。
でも、内部の構造になると素人には全くわからないわけだ。注文をつけられるところでもない。そこはプロの領域ということ。
鎮静はもう「壁の中の見えない構造」ではなくなってきているのだと思う。10年くらい前の、誰も鎮静なんて知らなかったころと、今はもう違う。「この壁にはコンセントが2つ必要です」ということを施主と建築家で話すように、「私には鎮静が必要です」ということも患者と医療者で話し合う公共にきたということなんだと捉えている。

患者が「医療者のナワバリ」に入り込んでいくことは、医療の発展にもつながる。おかしいことはおかしい、と主張してもらうことは医療行為の見直しにもなるし、そこが公共となったなら、私たちはさらに深いプロの領域を深めていくこともできる。ナワバリに閉じこもっている技術は成長しない。
本来、医療者と患者の間に上下関係はないのだ。
患者は「耐え難い苦痛がある」と主張する。医療者は医学的専門見地から意見を述べる。その対話とケアの先に、お互いが納得できる本人の生き方があるのだと思う。


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