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黒いドロドロしたもの/最悪を最善に変えるマッピング

3月に写真展「分裂と融合」を開催した。終わってホッとしたその一瞬を見逃さないのだ、黒いドロドロしたものは。私の中の黒いドロドロしたものは子どもの頃からあった。なくなることはない。ようは、その存在を忘れる、あるいは気にしなくなればよいのだ。実際、たまに気づかされるとはいえ、次の日にはどうでもよくなっていた。

「分裂と融合」に話をもどそう。私は小学校3年生の頃に書いた日記を展示した。何十年も前の日記自体が物珍しいと思う。事前に家でダンボールから出してきて、読み返してみた。あまりにも滑稽で笑ってしまうほど面白い内容もあり、嬉しい再発見だった。その一方で蓋をしていた古い記憶が蘇り、気持ちが落ち着かなることもあった。

ちなみに日記のいくつかを以下に紹介する。ざっくりいうと、①滑稽なもの(読み返すとそうでもないけど)、②滑稽だが必死な感じのもの(写真中、右下の5月8日のもの)、③矯正されている感じのもの になる。

①滑稽なもの

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②滑稽だが必死な感じのもの(写真中、右下の5月8日のもの)

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③矯正されている感じのもの

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滑稽なものは小学三年生に書いている。滑稽で必死な感じのものは、本人的には相当必死だけど、笑える。すごい妄想家ぶりだ。日記の中に書かれている作っているものが独創的で、このあたりが本来の私だと思っている。また、振り回されている感もドラマや小説であれば面白い設定であり、問題はない。

問題は矯正されている感じのものだ。このくらいの年齢の子どもにとって親は絶対的だ。親に認められたい、怒られまいとして必死だったのだろうとは思うのだが、母親の発言を書くのに「ほめてくださいました」が小学一年生から出るとは思えない。日記を書きなさい、字は丁寧に書きなさい、書いたら見せなさいという強制かつ矯正に応えていた記憶がうっすら思い出された。

日記は小学三年生の終わりにやめてしまった。母から書きなさいと言われ続けていたのも多少は覚えている。それに対する私の反応が日記帳に残されていた。私は全く覚えていなかったのだが。それは、日記に書いた内容と真逆なことを赤ペンで上書く(先生の添削のように)ことだった(画像を添付していないのはずるいだろうか…)。期せずして、忘れていた黒いドロドロしたものと対面して気が動転した。子どもの頃はずっと母が怖かったのだと思う。怖ろしいものを遠ざけたかったのだ。誤解のないように書いておくが、身体的な虐待があったわけではない。

そのような怖い存在でも、私が成長するにつれ、幼少期に相当辛い目にあった事実や、人の世話を優先するタイプ、自分のやりたいことを見つけられないタイプだということに気づくようになった。母は母でありながら子どもなのだと理解するようになった。そして、母がこうなのは辛いことがあったからと飲み込むようになる一方で、母のようにはなりたくない、と思うようになった。実際には100%理想通りではないものの、まあまあその通りにはなったのだとは思う。だから黒いドロドロしたものを忘れていた。

今現在、母の要求は私が小学生の頃のようだ。年老いて、認知機能も衰え、できないことが増えてきている。それをサポートするのは仕方がないものの、要求が自分中心だ。ちょっと押したら倒れて死んでしまうのではないかと思える老人なのに、私には時々モンスターに見える。

ということを一度文章にしてみたかった。昨日、Facebookの投稿で、こういうことを書いて自分の棚卸をしたら前のような日々を取り戻せるようなことを書いた。が、元には戻らないことを本当は気づいているはずだ。

今朝読んだ友人のブログには、状況は異なるものの元には戻らないことについて述べられていた。そういえば、私が今参加している後藤繁雄SUPERSCHOOL online A&Eでも、後藤さんは元には戻れないとよく言う。そして、もう一言、『最悪を最善に変える』も。

私にとって今を最善を変えるにはどうするか?

上に引用した日記を眺めてみると、数パターンに分類されることに気づいた。自分の棚卸がてらマトリクスにしてみた。マトリクスの軸は、その事柄がポジティブ〜ネガティブかどうか、独創的〜同調的かどうかにした。

マトリクス00

上の日記を分類すると以下の通りになった。①の滑稽で妄想家な日記は独創的でポジティブ。②の滑稽かつ必死な日記は独創的でネガティブ。③の矯正されてる日記は同調的でポジティブ(内容による。自分にとってよいことであればポジティブ)。

マトリクス01-002

私にとってもっとも嬉しいのは、独創的でポジティブであること。そして多少ネガティブでも独創的であれば許容できる。であれば、許容雨範囲は以下のようになる。

マトリクス01-003

私と母とのあれこれが発生したら、まず、この許容範囲内にあるかどうかを確認する。やってみていないので何とも言えないが、許容範囲内でなければ、緊急性がなければ後回しにするなど考えればいい。当面これでやってみる。

我ながら、馬鹿だと思う。が、状況は変わらない。視点を変えなければならない。本当はもっとグダグダしたことを書きたかった。が、それも私の許容範囲内ではない。そんな風に、母との関係性以外にもマトリクスは使えそうだ。

先日、グダグダした話を月一で通っているカウンセラーに伝えたところ、「水に流すことはできませんよね」と言われた。元には戻らないのだから、水に流さなくていいのだ。そのままでいいのだ。

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