「同じ熱量で怒ってない」人たちとの向き合い

「自分はさよこと同じ熱量では怒れないよ」

と、言われたことがありました。

この言葉を投げかけられたのは、わたしが怒ったり悲しくなったりすることが多い女性差別の問題について、パートナーと話していた時でした。
わたしがどういうことに怒っているのか、日常のどんなことが女性差別に紐づいているのか。そして、こうした社会を変えていくために、わたしが行動していきたいと思っていることなどを話していました。

それを静かに聞いていた彼からの反応は主にふたつです。
「君が問題に思っているものは理解したし、変化のために行動していく君を応援する」
そして
「でも、自分はさよこと同じ熱量でその問題に対して怒ることはできないと思う」

感情的な期待と理性的な納得

茶化さず応援すると言われて満たされた気持ちと、でも同じ熱量は持てないと言われた寂しさがわたしの最初の反応です。
ただ、勝ったのは寂しさのほうでした。

1番近いと思っている人にも、やっぱりこの怒りはわかってもらえないのか。
わたしのコアにある怒りには共感してもらえないのか。

という思考が巡っている自分に気づき、感情的には共感してくれることを期待していたんだと気づきました。
同じように怒ってくれて、「君が怒っていることはもっともだ、変えないといけない!」と同じように奮起してくれることを期待していました。

でも、理性では違います。
女性差別の問題についてわたしと同じ感覚でいてもらう必要はないのではないか?
わたしが怒っているものを理解し、応援してくれるだけで十分なのではないか?

なんとなくこの会話が自分の中にひっかかったまましばらくした時に、むしろ彼のような人の方が世間には多いかもしれないと思いました。
彼とこれからどんな話をし、彼がどんな反応をするかは、そのまま「理解はするが同じようには怒っていない」という、消極的に差別構造を温存している人たちと、どう向き合っていくかの具体例になるのではないか?と思えたのです。

「同じ熱量で怒ってない」人たちとどう向き合っていくか

彼の反応をみるに、同じ熱量で怒っていない人たちに、どうして怒ってくれないのと言っても、わかってもらえるわけではなさそうです。
そして、同じように怒ってもらうことが欲しいものなのかというと、そうじゃない気がします。
全員が同じものに怒っている必要は、詰まるところないように思います。

じゃあ怒りについて共有する意味がないのかと言えば、それもまた違うと思います。
お互いが何を考えているのか。何に傷つき、何に怒り、どう感じているのかをシェアすることには、相手に想像するきっかけや新しい視点で世界をみる観点を提供することになりそうです。
お互いがそのアジェンダについてどう思うのかを表現しあい、ただ受け取るということがまずはできるかもしれません。

とはいっても、相手の言葉をとてもオフェンシブに感じることもあるでしょう。
相手は対話する余地のある人なのか?
自分に今フラットに受け取れるだけのケイパビリティがあるのか?
相手の方には受け取りあうケイパビリティがあるのか?
などいろんな条件が整わないと、ただ受け取り合うということは難しそうです。
それでも、世界をどうみているか、という観点をシェアする価値はあるように思います。

なぜなら、そのどちらもがおそらく真実だからです。
同じように怒っていないで生きていける社会であることも、怒らないと生きていけない社会であることも、それぞれにとって真実なのだと思います。
こうした「世界の見え方」の差分を受け取りあってからじゃないと、実際の社会を変えていくことはできないのかな、と考えたりしています。

だから、まずはお互いの感じていることを、素直に伝え合う、受け取りあうことが、私にできる最初の一歩という気がします。


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