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8. 雷撃王の恐怖

「本校が建っているハレーという地域は、五百年前まで城塞として利用されてきた。北側には当時から商業の中心地であったウノ市街を見下ろせ、隣国と国境を接する他の三方は天然の断崖によって守られている。しかし、孤立した自然環境は文明の発達を遅らせ、前時代的な卜占や精霊信仰によって村落が運営されていたという。当時ハレーの大半を占めていた民族こそ、君達のよく知っているユーリア人である」

ピーコック先生による帝国史の講義は不人気だ。五十人規模の教室で居眠りする者が何人もいる。起きていても大抵は興味がない生徒ばかりだ……ただ一人、図書館長の孫娘、エレナ・ローゼンハイムを除いては。

「古記によれば、『ユーリア人』という呼称も始めは無かったそうだ。語彙や文法は必要最小限しかもたない。その代わりに発達したのが、図像や紋章を用いた記号伝達マーク・トランスミッションである。ユーリア人の研究が進んだ現在でも解読不能な記号が山積しており、私の大きな研究テーマのひとつになっている」

エレナは羽ペンの先にインクをしみ込ませ、羊皮紙に直線と曲線を引いていく。たちどころに《ヘデラ・ヘリックス》の紋章が出来上がった。

「ユーリア人が歴史の表舞台に登場するのは、12世紀前期の史書からとされている。彼らの民族名の基となった悪帝、雷撃王ユーリの存在が大きい」

「悪帝だって、ばっかみたい」

片隅で呟かれた古ユーリア語の悪口を、ピーコック先生は聞き逃さなかった。研究者なだけあって、彼も古ユーリア語を理解できた。

「ローゼンハイム。何か不満でも?」

エレナは羊皮紙が吹き飛ぶほどの溜息を吐くと、両手で机を思い切り叩いて立ち上がった。

「先生。雷撃王ユーリにまつわる定説は、後世の伝説のみに依拠しています。一体何を根拠に、ユーリを悪帝と決めつけていらっしゃるのですか?」

周囲の生徒は「また始まった」と言わんばかりに苦笑する。ピーコック先生とエレナの弁論対決は今に始まったことではない。カペラは今さら無駄だと悟っているのか、諦めた視線を親友に投げた。

「根拠ですか。ありますとも」

帝国教育委員会からマスターの称号を得ている歴史教師は、金縁の鼻眼鏡をずり上げて言った。

「第一に、ユーリの父・フォーマルハウトは暴君として有名です。ユーリア人が慎み深く暮らす世界に武力で分け入り、おのれの野望のために国を作りあげてしまった。ザクセン朝の誕生です。……よく、子どもは父親の背中をみて育つといいますでしょう。その息子であるユーリも、そうした野蛮な精神をもっていたと考えて間違いありません」

彼は胸に提げた十字架を慈しむように撫でた。

「それを裏付けるのが、ユーリが即位後に推進した《ザクセン神秘教》の国教化です。ユーリア人の得意とする卜占と記号伝達マーク・トランスミッションを利用して、自らを唯一神とするカルト宗教を生み出した。神秘教徒のみを優遇し、他の精霊信仰を排撃したのは数々の史料から明らかです」

ピーコック先生は拳を硬く握りしめて力説する。

「悪帝ユーリが、我らが慈悲深き父祖・ガリシア帝によって征伐されるのは時間の問題でした……。我らが父祖・ガリシア帝は正しき天命にしたがい、ザクセン朝の城塞を見事に攻略なされた。ミレトス学院が立地するハレーの地も、ユーリの魔の手から解放された城塞都市のひとつです」

「あーっと、ガリシア帝が偉いのは分かるんですけど」

唇をこれでもかと尖らせるエレナ。

「じゃあなんで、ガリシア帝がユーリを捕らえ、むごたらしく処刑したあとで、あんな悲劇が起きたのでしょうか? もしガリシア帝が天命に従っていたのなら、最悪の結末なんて迎えなかったはずですが」

ピーコック先生の呼吸が止まった。五十を過ぎた皺の深い顔が複雑に歪んでいくのを見て、生徒たちはクスクス笑いを漏らした。

「帝国史上、あれは最も忌むべき出来事です……。ガリシア人にとっても、ユーリア人にとっても、忘れなければなりません。悪帝ユーリは処刑されて当然の所業をしたというのに、彼はそれを不服としたのです。彼の心臓が鋼鉄の槍に貫かれたまさにその瞬間、突如として雷が落ち、刑場に居合わせた人間をことごとく焼き殺した。ああ、考えただけでおぞましい。唯一生き残ったガリシア帝は、恐怖のあまりご乱心となられた……」

ピーコック先生はよほどこの話題に触れたくないのだろう。教本を閉じると、残り時間は補習だと言い残して教室を去った。たちまち生徒たちから称賛の声が上がった。

「エレナありがと~。お陰で助かったよ」

「この学校でピーコック先生と渡り合えるのはエレナだけだぜ! まじで役に立つなあ」

「別に。私はただ、知りたいだけで……もう帰る」

荷物をまとめて教室を出るエレナを、カペラは慌てて追いかけた。

「いいの? まだ午後に授業残ってるよ?」

「いいよ、どうせつまんないし」

カペラは一昨日からずっと鈍く痛む脇腹を抑えて怒った。

「あんたの良いとこ沢山知ってるけどさ! その興味あるものしか興味を示さない性格、直したほうがいいよ!」

エレナは小さく振り向くと、何も応えることなく図書館に向かって歩き出した。

「はあ。優等生には敵わないなあ」

ケープを胸元で握りしめた彼女に、秋の陽だまりは当たらない。彼女の煮えたぎるような探求心を完全燃焼させられるだけの対象が、いまの学院にはないのだ。

だからこそ彼女は《天狼の間》に入り浸った。自分の知らない世界、わくわくが止まらない魅力的な世界を求めて。自分のルーツであるユーリア人、ひいては彼らが祖と仰ぐ雷撃王ユーリの正体を求めて。

「お、やけに早い帰宅だな。さぼりか?」

「馴れ馴れしく喋るなって言ってるでしょ。暴漢」

自分ひとりしか居なかった《天狼の間》に、一昨日からもう一人、別の男の姿があった。あの日カペラを襲った暴漢……エルクルド・エーフォイだった。
エレナは逸る気持ちを抑えて、本棚の梯子によじ登っている彼に聞いた。

「紋章について、何かわかったの? 知ってること全部話さないと、許さないからね?」

エルが自信たっぷりに親指を立てたとたん、彼はバランスを崩して盛大に梯子から転がり落ちた。

(つづく)

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