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言葉くづし 17―おおの大橋

真夏の炎天が茶屋街の瓦屋根をじりじりと焼いていた。美咲に買ってもらった日焼け止めクリームは滝のような汗で流れ落ちて、ポロシャツの襟元に粘っこく溜まっている。どれだけの距離を歩いただろう、浅野川に架かる橋が点々と陽炎のなかで揺らめいては消える。水鳥が羽ばたき、また川面へと吸い込まれていく。

私の時間は、あの日からずっと止まってしまったみたいだった。

「冬花、具合はどう? うちらのことは気にせんとゆっくり休んでね」

穂乃香。相変わらずの心配性。夏炉に渡しそびれたイヤリング共々、私の荷物をわが家に送り届けてくれた。

「慣れない環境で疲れたのかも……。きっと、誰のせいでもないと思います」

明里。こんなときでも冷静さを失わない彼女が好き。クールにスマートに、そして優しさを忘れないところとか。

「俯いてないでシャキッとしなさい! 文化祭は絶対きてよね、約束よ!」

美咲。実行委員の仕事で忙しいはずなのに頻繁に見舞いにきてくれる。クラスのダンスに出場できなくなった私を彼女なりに励まそうとしてくれる。ちょっぴりうるさいけれど彼女のストレートな物言いに今は救われている。

記憶の断片が脳裏に浮かんでは消える。晩夏の風が浅野川の水面を事もなげに撫でていく。
思い出す言葉たちは頭の中で弾けては途切れ、流れて、結ばれ、とけて。
やがては私のもとに還ってくる。

夏炉の家で倒れてしまったあの日。

とんでもない迷惑をかけてしまった罪悪感と、どうしてああなったのかという不可解とがい交ぜになり、胸の奥をしつこく掻き回す。

川の流れを遡行するようにひたすら歩く。まるで歩くために生きてるみたいに、足を前に動かすことだけに意識を集中させる。太ももがパンパンになって石塀の傍に座り込む。汗の匂い、夏の雲だけが世界のすべてのようにさえ思える。

味気のない炭酸水を、胃を満たすためだけに飲み干してまた歩き出す。とりわけ目的も意思もあるわけでもなく、お義母さんと同じ空気を吸いたくなくて必死に遠く遠くの地を目指していた。  

小橋、中の橋、浅野川大橋、そして梅ノ橋。

海にむかって突風が吹き、思わず手で目を覆う。
やがて顔を上げたとき、私は前方に立つ人影にハッとした。

「夏炉!」

あの白いワンピース、小柄なシルエットを間違えるはずがない。反射的に彼女を追いかけようとした刹那、私は強い力で後ろから袖を掴まれた。

「あんたっ、どこ行く気なん?」

「お義母さん!?」

腕を振り払い、お義母さんと対峙する。追いかけたかった人影は私たちに気づいて遠く離れていく。

「夏炉……」

「夏炉って……。あんた、まだあの子と付き合うつもりなの?」

穢れたものを口にするような彼女の言葉に、歯を食いしばって睨み返した。

「どうして執拗に私たちを引き離そうとするの? スマホのやり取りすら監視してさあ! お義母さんこそ家に帰ってよ!」

お義母さんは怒るかと思ったが、そんなことはしなかった。反対に恐ろしい怪物を見る目つきで見下ろした。

風向きが変わり、暗雲がたちこめる。

「さぞ私が鬼に見えるでしょうね。だってこのままじゃお父さんが嫌がるもの、仕方ないじゃない。まさか冬花があの母娘と関わってるなんて知らなかった、そう言って悲しそうな顔するの」

「なんでよ……」

奥歯から絞り出すように、彼女は答えた。

「言わせないで……! あの母娘が私たちの傍にいるかぎり、お父さんは過去から自由になれない。あなたを生んだ、前の女のことを忘れられない! 私は一生、お父さんの女になれないっ……!」

雷鳴があたり一帯に轟き、たちまち針のような雨が私たちの身体を突き刺していく。

「それ、どういうことよ……」

お義母さんの言葉が理解できない私は、ただただ痛い雨を浴び続けるほかなかった。やがて雨がお義母さんの狂気を洗い流したかのごとく、無言で歩き出した彼女の背中は弱々しく萎んでいた。水気を含んだ乱れ髪が長く垂れ落ちて、時折こちらに振り向きつつも、義理の娘なんてどうでも良いという風に私から離れていった。

このまま諦めて帰宅しようかとも考えたが、このまま帰っても良いことがあるとは思えなかった。だから私は踵の向きを変えて、また川の流れに逆らいつつ歩き続けた。

分からない、分からない、分からない。

なんであの日に気絶したのかも、なんでお義母さんが執拗に私を虐めるのかも、霧島家の二人が私たち徳田家にどう関係しているのかも。ときおりやってくる強風が、私の体温を急速に奪っていく。

もういっそ、考えるのを辞めよう。

すべての思考を停め、何なんにも感じず、何にも煩わされず、ひたすら歩みを進めることに意識を集中させる。

願わくば、このまま悟りの境地に至れますように。

すべての煩悩から、解放されますように。

もし叶うのなら、このまま現実の世界から永遠に離れられますように。

いつぞやも念じた言葉を反芻して、ふっと瞳を開いたとき。

私は、天神橋に辿り着いた。

「夏炉、聡子さん。私は、あなたたちに……」

水滴の滴る橋の欄干に手をかけた。すると、明らかな違和感を肌に感じた。

見れば欄干に長いビニール紐が括り付けられている。紐は川底まで伸びて強風に煽られていた。紐を掴むと何かが繋がっているような重量を感じた。身を屈めて必死にそれを手繰り寄せていくと、やがてガラスの小瓶が水面から顔を出した。

ずぶ濡れになって身体が冷えているのも厭わず、私は小瓶の蓋を開けた。

そこには一通の手紙が折り畳まれて入っていた。雨宿りできそうな公園の東屋に駆け込み、それが魔法の小箱であるかのようにゆっくりと開く。

差出人は聡子さんだった。そしてこの小瓶は夏炉が吊り下げたものだった。流麗で細やかな文字が長々と認められていた。私は息つくことも忘れて、その中身を読み通した。

(つづく)

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