共に「死」について考える ~あなたは何をもって死に至ったと 考えますか~
この昨日、一昨日、私は、自分の遭遇した突然の予期せぬ
救急外来、初療という場における「死」について
大切な私の核となる所の一部、思い切って記しました。
読んだ方によっては戸惑った方もいたかもしれません
そもそも死とは何か?臨床を長く続けても、わからない。。
わからないけれど、わかろうとして、それでやはりわからない
この輪の中で巡っている感触です。その中でも比較的、明確と
なっているところについて私の理解を、共有します
1医師が確認する際の三徴候説
実は、死の定義は、唯一これだというものはないと私は理解しています
医師は以下の基準3点の生命徴候をもって死亡確認とまずしていると理解
しております:三徴候説を基準とさせていただき、医師、歯科医師の元
死を確認てしています。
2脳死=人の死なのか
ここで医学の進歩に伴って上記の三徴候における確認でなく
『脳死』という概念が出現してきます。各国で脳死=人の死なのかその
議論がなされ、法、ガイドラインが作られてきたと理解しています。
日本においては、以下について定義されています。
この定義となるまでに様々な議論がなされ、様々な歴史がありました。
そちらについては非常に大切なところですが別の機会としたいです。
3『傷病者が明らかに死亡している場合の一般的な判断基準』
そしてもう一つ救急で働くものとして、述べなければならない
死があります。それは、『社会死』という言葉です。
救急車によって救急隊が到着、搬送する方を観察した際、この場合は
『傷病者が明らかに死亡している場合の一般的な判断基準』です。
つまり救急車で到着したけど
対象の方を病院に運ばない。死んでいると判断した
「不搬送」その基準が、以下です。
救急隊の皆様は、要請され現場に到着した際、
傷病者(その救急車に乗る、病気、けがの方)がどのような状態か、
瞬時に観察し、重症度を判定し、病院搬送します。
ですが、明らかにその方が、命が終わっているつまり死んでいると
判断する際、慎重に判断する基準として6つの条件があげられていると
いうことです。
6つの条件があてはまっていたとしても、その現場の状況
(気温、傷病者のいた環境など)をよくよく考えたり、
「家族が搬送を強く希望する場合や周囲の状況から搬送すべきであると
救急隊が判断した場合搬送してよい」と述べている地区もあります。
つまり、その人が
死んでいるか、死んでいないかを判断するということは
慎重に多側面から判断され、不搬送を救急隊の方も決断していると
いうことです。
私の救急に携わる看護師として、死とは何か今すぐ直結する判断材料は何かと問われた際、上記となります。
それも、一人の人間としてでなく、
あくまで救急に携わる看護師として、客観的材料として限定される中で
すでにもう、上記3つが、あがるのです。
つまり、何をもって死とするのか、さまざまな視点でとらえることが
できるということです。
そして、命の終わりをどのような視点でとらえるかは、
その人その人様々で、それは尊重されるべきだと思います。
私がいいたかったのは
様々な国の、様々な立場の人が、
何をもって死とするか、悩み、葛藤し
それが議論され、命をどう扱っていくか、
そしてどのように死を見据えて、生きること死ぬことを
とらえていくか結論がでないけど、
葛藤を抱えつつ、
結論を出しているという事実です。
それだけ、人の命は大事なもので、
したがって人の死も、言葉の表し方が適切かわかりませんが
神聖なものだと私は、考えております。
ここまで読んでいただいた方に私は
問わせて、頂きたいです。
あなたは、自分自身の死を何をもって、
私は死に至ったと考えますか?
そう問われて断言できる人はなかなかいません。
でもわからないことを認識して
わからなくとも、ふと、考える、
そこに、意味が、あるのだと、思いました。
死について考えることは、
暗いことでも、怖いことでもなく、よく生きることにつながると思います。
~本日は長くなりました。ですが一昨日、昨日の内容を経て
こちらも、表現させていただきました。
読んでいただいた皆様
ありがとうございます。~
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