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「教えること」の落とし穴

(勉強ができるはずの)親など日ごろ勉強を教えてない人が子供に教えるとなぜうまくいかないかといえば、必要な知識を有限化できていないから。どうしても(良かれと思って/または単なる知識自慢で)余計なことを教えてしまう。教えるのが上手な人は、何を教えるかよりも、何を教えないかが分かっている。(2021年12月)

授業も勉強もずっと集中していることより強弱をつけることが大事。勉強が上手な子は(授業中にずっと集中しておくなんて無理なので)集中したり弛緩したりを繰り返しながら、全体として上手いバランスと流れでこなしている。これは教える側も同じ。(2023年6月)

小学生の採点の理不尽さを叩いたり嘆いたり笑ったりする文脈で、採点が厳しすぎる!というものがあるが、厳密さをナメたら勉強はできないことを大人が教えないとすれば不幸な世の中だ。いまの教える人たちはなし崩しに単なる「甘い」人になりがちだがそれは端的に自分に甘いだけだ。子供を教える立場の人は、言葉や概念に対する厳密さを子供に教えるという側面がないとダメだと思う。(2022年3月)

子供たちを教えるときには自分を教師だと「見立てる」ことで権力を発揮しているわけだが、それに気づいているかどうかで権力の中身が変わってくる。(2022年12月)

子供は(本来)大人から教えてもらいたい
→でも大人が教え方を誤る
→子供は教えてもらいたくなくなる
→大人は子供の「個性」「自主性」を大切にするという名目で子供を教えなくなる
→結局子供は何も学べない
という悪循環があるので、大人は「教えてもらいたい子供」を再発見してもう一度付き合う必要がある。いま、大人の教える力がYouTubeなどの動画に負けていると囁かれているのは、動画はそれ自体としては「子供は教えてもらいたくなくなる」というヘマをやらかさないから。(2023年9月)

受験勉強を表層的なものと捉えて非難する風潮があるけど、その多くが実態を踏まえないそれこそ「表層的」なもの。実力のある先生たちは大学以降の研究に繋がる「陸続き」感を生徒たちに自ずと伝えていて、それが受験生たちの「実のある力」に繋がっている。(2021年8月)

今年からインクルージョンが中学公民に登場してるけど、社会的包摂を教えるときは、「包摂することで相手を理解したつもりにならないこと」を常に注釈に加えた方がいい。お前はまだ何ひとつ理解してないからな。
それにしても、社会科を子供たちに教えるというのは、新語が教科書に載るころには資本主義的欲望に絡めとられて形骸化しダメになってる現象とどう向き合うか考えるということ。SDGsもダイバーシティもインクルージョンも何の留保もなしに「大事なこと」として子供たちに教えるのは憚られすぎる。(2022年7月)

現状をただ追認するだけでは何も変わらない。学校はあれだけたくさんの子供が集まっているんだから、多様性、共生社会という言葉を教えるだけでなく、実験・実践の場であるべき。理想論じゃなく、そういう現実を作るべきだし世の中は少しずつそちらに動いていると信じたいところ。いまという現実を私が変えることから。(2020年7月)

毎日、子供たちを教える立場として20年もやり続けていると、教える際として否応なしに身につけた大人としての虚勢みたいなものが自分のクソみを覆い隠してしまっていて、自分でそれがつまらないなと思うことがある。(2022年6月)

日ごろの「教える立場」を意識しすぎると、立場との整合性を保つために自分の中の「こうあるべき」が増えていく。そうするとベキベキでガチガチな面白くない人間が完成する。そうならないためには自分の「隙」を周りといっしょに面白がって一貫性のない矛盾の中に人間らしさを見出し味わうこと。(2021年6月)

学校の教師(特に高校教師)や予備校・塾の講師の中には勉強ができない子を躊躇なく見下している人は大勢いるし、そういう人たちは例えば「頭が悪い」「レベルが低い学校」という言い方を平気でするし、「勉強ができない」という意味で「バカ」という言葉を使う。すっかりできあがってんなと思う。(2022年5月)

教える人たちがSNSを通して生徒たちに授業で見せる姿からの逸脱を見せられるようになったのはうまく活用すれば武器になる。(こんなネタバレをしていいのだろうか)(2022年3月)

研究授業などを通して「教え方」を磨く教師は多いが、「教え方」を磨くことが子供たちとの関係性を構築することから目を逸らす口実になっていることが多々ある。教えることの成果は、「教え方」よりも、その「され方」のほうにかかっているのに。
自主性という言葉があるけど、自主性はやはり「教え方」というよりその「され方」のほうにかかっている。子供たちがゼロから生み出すのが自主性のわけがない。学習環境を通して「され方」がうまくいくと子供たちの欲望に火がつく。それが自主性。(2022年8月)

授業が本当に面白い人は偶然を拾うのが上手で、しかもそれが授業の肝としかいいようがなく、そのスキルは研究授業では見えてこない。授業の肝を「教え方」だと思っている人は、「わかりやすい先生」にはなれるけど、その先がない。(2021年2月)

正確に、誠実に、伝えようとする人の話は、情報が多すぎてポイントが絞れず分かりにくい。しかもそういう人は自分の誠実さを楯に、受け手の非を責めがち。つまり、「自分のために」教えているわけだ。分かりやすい先生は教え方が適度に雑です。(2019年2月)

教え方がうまい明晰な先生よりも、不器用であってもこの先生の存在の襞が私にはわかる、私にだけはわかる、という先生のほうが圧倒的に深い学びを得られるというのは、十代の頃には全く知り得なかったことだ。(2022年11月)



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