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大都会東京からJターン。人口2500人の栃木市寺尾地区で地域おこし協力隊になったワケ



地域おこし協力隊になって早2年半。今更かと思うかもしれませんが、note始めました。「今までやってきたことや考えてきたことを残したいな~」と、そんな思いで今更やっています。「まず、こういうのは自己紹介だ!」、今回は地域おこし協力隊になった理由を書いていきたいと思います。

ド田舎から大都会東京へ


まず、私は栃木県の茂木町の出身。茂木町は栃木県の東の方に位置し、「モビリティリゾートもてぎ(旧ツインリンクもてぎ)」や道の駅もてぎがある、人口13000人ほどの小さい町。山に囲まれていて、見渡す限り、「緑、緑!」そんなところでした。自分は小さいころサッカーばっかりやっていて、小学校~高校までの思い出はほとんどサッカー。小さいころの思い出を思い出そうとするけど、まったく思い浮かばない、、、たぶんサッカーしかやってこなかったんだと思います。

大学進学を機に上京。地元がめちゃくちゃな田舎だったので、「地元盛りあげてやんよ」ぐらいの思いで、高校生のころから「地域活性化」には興味があり、そういうのを学べるところに行きたいな~と、大学では経済学部で地域と福祉を専攻していました。ところが、大学1年生の時は「学校→バイト→家」そんな毎日で「くそつまらない」生活をしていました。

「地域づくりインターン」をきっかけに地域にのめりこんだ学生時代



そんなある日のこと、当時はFacebookがまあまあ流行っていて、中学の時の友人があげていたfacebookの投稿にビビビっと感じるものがありました。その投稿は夏休みの間、過疎化が進む地域に2週間ほど滞在して、地域のお祭りや農業のお手伝いなどをする「地域づくりインターンの会」という学生団体でのプログラムに参加をしたというものでした。「あ、まさに自分がやりたいことじゃん」と思い、自分もそのプログラムに参加したいと思いました。 

そして、翌年大学2年生になった國府谷青年は地域づくりインターンの会に参加。そして、熊本県の小国町に派遣されることになりました。小国町は林業の町なので林業のお手伝いをしたり、お祭りや行事に参加するなどして3週間ほど滞在しました。田舎生まれではあるので、なんとなく田舎の生活を理解していたつもりではありましたが、改めて田舎の良さを感じた3週間でした。

小国の人たちはとてつもなく優しく、温かい印象で最終日には「また帰ってきてね」と言ってもらえ、帰れる場所ができた感覚ですごく感動したのを覚えています。その当時までは、まちづくりや地域活性化というと行政がやるものと個人的に解釈していたのですが、実際に現場に行ってみると個人や民間が頑張っているのを目の当たりにしました。例えば、フリーのデザイナーとしてデザインを仕事にしながら、町でバーを経営する人がいて、自分の好きな暮らしをして、自分の好きなことをやって生きている大人がカッコよくうつりました。このとき、すごく自分の価値観が広がった気がして、自分もこういうカッコいい大人になりたいなと思いました。

それから、「地域」というものにハマり、学生期間中にいろんなところに行きました。福島県川俣町、群馬県高山村、新潟県長岡市、山梨県小菅村、愛媛県宇和島市、愛媛県内子町、宮崎県高千穂町、佐賀県唐津市、熊本県小国町など、全国のたくさんの地域を訪れいろんな人に会いました。「地域にはこんな面白い人たちがいるんだ」と気づき、いつのまにか「地域」というものにのめりこんでいきました。

悩みに悩んだ就活と揉まれに揉まれた社会人生活



そして、いつの間にかやってくる「就活」。当時、たくさんの地域を訪れ、たくさんの人に出会い、「地域」の魅力を知ってしまった自分は地域づくりや地域活性化に関わるような仕事をしたいなと思っていました。しかし、同時に自分への自身のなさも感じていました。このまま地域に飛び出して何ができるのだろうかと考えるようになりました。「この不安を思ったまま地域へ飛び出すよりは一旦社会に揉まれよう」という結論に至り、民間会社に就職をすることにしました。

転職サイトや人材紹介を行う総合人材会社のエン・ジャパン株式会社に入社、怒涛の会社員時代の幕開けです。入社当時の私はとにかくコミュニーケーションをとるのが苦手。ところが、エン・ジャパンには営業職として入社。元サッカー少年、心は体育会系なのでがむしゃらに頑張りますが、営業成績も伸びずに疲弊する毎日でした。どうにか、成長したいとの思いで数と量をこなしていくと少しずつ、成績も伸びていきました。2年目・3年目は営業成績はまずまずといったところで、自分の強みもわかってきました。そんな中で来た新型コロナウイルスの感染流行。仕事はリモートワークに。家に引きこもる生活が本当に向いていなく、「ああ、この生活やめたい、、、」と思うようになります。それから、なんとか会社員を続けますが「やりたいことをやりたい」という思いが徐々に強くなりました。 

コロナ禍をきっかけに再び「地域」へ。栃木市地域おこし協力隊になったワケ



「自分のやりたいことってなんだっけ?」と改めて考えてみるとでてくるのはやっぱり「地域」というワード。「地域」に関わることを仕事にしたいと思い東京からの脱出、いや移住を決意します。なんとなく、地元に近いところでという思いもあり、栃木県内への移住を考えて、東京の有楽町にあるふるさと回帰支援センターという移住相談ができる施設に栃木への移住と仕事についてを相談しました。すると、何人か栃木のまちづくりに関わる人を紹介をしてもらい、自分が栃木市へ移住するキッカケとなった遠藤百合子さんと出会います。

遠藤さんに栃木県内への移住を希望していることやいずれは起業を考えていることなど、ざっくばらんに相談をしました。ちょうど、その時栃木市でも地域おこし協力隊を募集していて、「よかったらどう?」という感じで地域おこし協力隊の紹介されました。

その当時、地域でこれがやりたいというのは特になく、漠然と地域で起業し面白いことをやりたいという思いだけはありました。栃木市の地域おこし協力隊の募集はフリーミッションで寺尾地区というエリアだけが限定をされたものでした。自分の好きなことやできることを地域で表現していって、それが結果的に地域のためになることを目指すのは「今の自分に合っているかもしれない」と思いました。そして、栃木市は都心部へのアクセスが良いのもポイントが高かったです。これも何かの縁かもということで応募し、無事に栃木市の地域おこし協力隊に着任をすることになります。

「地域」で暮らし、目の前の好きなことやできることに向き合う



ここまでが私が栃木市の地域おこし協力隊になったワケ。学生時代の経験から「地域」というワードがずっとあり、特にこれといってやりたいことはなかったですが、地域で暮らし、フリーミッションという中で自分を表現していくことが自分のスタイルなのではないかなと思っています。

具体的に地域おこし協力隊として活動している内容に関しては、また改めて書いていきたいと思います。



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