僕と「姉」の13年間の話。

こんにちは、都知事です。
私には2人の姉が居ると以前お話しましたが、今回は若くして亡くなってしまった長女のお話をします。


私は三人姉弟の末っ子として生まれ、姉2人に、特に長女にはちやほやしてもらっていた記憶があります。


私の幼少期の記憶は古家→マンション→一軒家と引っ越す事に記憶がある程度整理されているのですが、姉との記憶は古家からぼんやりと始まり、マンションに住んでいる頃にとても明確なものになります。


古家にいた頃、私はまだ3~4歳くらいで、母が出稼ぎに行った後、3人で留守番をする事がよくありました。

元姉もこの頃は暴力もせず、姉弟3人、ゲーム機の取り合いはしながらも、割かし仲良くしていました。

「姉弟とはこんなものなんだな」というイメージが深層に焼き付いたのはこの頃の経験が前提にあったと思います。

その後、ハッキリとは覚えていませんが、地元の友達や近所を探検したりして遊んでいる日々の中、急に事件が起こりました。


両親の離婚です。
父は足に障害があるにも関わらず、酒を飲んでは当たり散らすという事を続けていたそうです。
(仕事は寿司職人で、それ自体は真面目にしていたそうですが)

父の酒乱が進み、酔った状態で長女に手をかけようとした為、母は離婚を決意したそうです。
子供3人の親権を得る為に相当戦い、現在の父にもその時相当助けて貰ったそうです。


当時、寝ぼけ眼で見ていた私には何が起きているのかよく分かりませんでした。


ぼんやりとする視界の中で、大人が叫びながら取っ組みあっている。

でも、不思議と怖くは感じませんでした。母の声が聞こえていたからでしょうか?

その後、自分はどういう行動を取ったのかは覚えていませんが、「お父さん、やめて!」「警察呼んで!」という母の叫び声を今でも覚えています。


しばらくすると家を引き払うことになり、人生初の引越しにワクワクしたりしていましたが、そこに父の姿はありませんでした。

元々、父は仕事で朝早くから夜遅くまで働いており、会う機会もなく、何かしてもらったという記憶がなかったので、違和感を感じなかったのだろうと思います。


マンションへ引っ越した後、封鎖されて誰かのものになっていくであろうかつての我が家を見て、ちょっと切なくなったりする幼少期でした。

引っ越した後は遊び部屋と寝室兼勉強部屋に分けられ、生活していました。


当時、我が家の躾は凄まじく、テストの点が悪かったり、、素行が悪いと、すぐに母のビンタや物の暴力が襲いかかってきました。


姉が実際に殴られたりしていたかはあまり覚えていませんが、私が掃除機の棒やコロコロでハンマーのように殴られた後、姉が包帯を巻いてくれたりしていたのをよく覚えています。

痛みを感じる事はなく、ただ痺れているなーみたいな感覚で殴られていました。(ラッキーですね)


母は厳しく、当時離婚したばかりで母子家庭だったので父の優しさも知らなかった私に優しさを与えてくれたのは姉だけでした。

(母なりの優しさもあったのだとは思いますが、当時の私には気づくことが出来ず、恐れていました)


姉と私は漫画もゲームも好きで、「気の合う友達」みたいな関係でした。また、姉も弟がそういう態度で接してくる事も許してくれていました。

休みの日は朝から晩まで一緒に漫画を読んでいました。

「魔法陣グルグル」「こどものおもちゃ」を姉の読んだ後に空いた巻を読み、姉の後を追っていました。

ゲームは1人用のゲームを姉の横に座り、サクサク攻略していくのを見ているのが好きでした。

「こみゅにてぃぽむ」「魔導物語 はなまる大幼稚園児」などをよく覚えています。

また、これを絡めた創作漫画を当時は書いてみたり、指遊びをしたりすると、飽きることなく最後まで付き合ってくれる、本当に優しい姉でした。

引っ越してからしばらく、姉と元姉はよく喧嘩するようになりました。

理由はわかりませんが、ものを投げたりして大きな音がなっている事に怯え、ドアと壁の隙間に隠れて震えていました。


それまで暴力を奮ったりしなかった元姉が、なぜ喧嘩をするのか、よく分かりませんでした。
(自分の知らないところで喧嘩はしていたのかもしれませんが)


突然ですが、現在私は29歳、妹は21歳です。
妹は姉の没後にすぐ産まれたので、姉が亡くなったのは私が小学3年の頃と推定できます。

当時中学に入ったばかりの姉は、学校の帰り道に突然倒れ、一緒に帰っていた友達が知らせてくれたそうです。


母と一緒に病院へお見舞いに行きましたが、そもそも姉が倒れた事を理解出来ていなかったので、ずっとゲームボーイで遊んでいた記憶があります。

病室でベッドに眠る姉を見たのかもしれませんが、全く記憶が無いので、ベッドを下から見上げていただけだったのかもしれません。

姉を蝕んでいた病は生まれつき脳の神経が出来上がっていないというものらしく、回避しようのない病でした。
(成長期の女の子にはごく稀に現れる病だそうです)

そんなことはつゆ知らず、日々「姉が居なくて退屈だなぁ」程度にしか思っていなかった私に、別れが迫っている事は知る由もありませんでした。


【ここからは母から聞いた話です】

母は、最愛の娘を何とか救おうと、あらゆる病院へ電話し、医師に泣いてお願いして回っていたそうです。
「お願いします先生、娘を助けてください、まだ13年しか生きてないんです」
「お母さん、お気持ちは分かりますが…」

毎日娘を不憫に思い、命の灯火が尽きようとする娘をなんとか助けたい、その一心で出来ることは何でもする、と昼間はあらゆる所へ駆け回り、夜は姉の手を握りながらろくに眠れず泣き続けていたそうです。

「お願いします神様…娘を助けて下さい…私の命なら喜んで差し上げます」

その一心から、母は創価学会へ入信しました。

知り合いから「聖教新聞を100部売ったらめぐちゃん(長女)は助かるよ」と言われ、即座に近所を回り、数日で達成しました。しかし、容態は変わりませんでした。


更に知り合いから「御本尊を毎日拝めばめぐちゃんはよくなるよ」と言われ、大きな仏壇も買いました。
今でも実家にあり、自動でドアが開くなど、当時の仏壇としてはとてつもなくハイテクで最先端の「創価学会専用」のお仏壇でした。

何をやっても報われず、絶望した母に、また新たな宗教の話が舞い込みます。
藁をもすがる思いで病室を離れると、病室に待機していた父から「容態が急変した」と大声で引き止められ、入信することなく病室へ戻ったそうです。

「めぐが止めてくれたのかもしれない」と後に母は語ります。


その後しばらくしても容態は良くならず、日々眠ったままの長女。

医師から判断を迫られます。

母は「人工呼吸器のスイッチを、切って下さい。もう、娘を親のエゴで引き止めて苦しめたくない」


長女の延命装置は切られ、姉の生涯はそこで終わりました。

13歳という若さ、娘を守れなかった不甲斐なさに、母は病室で泣き崩れ、しばらく立てなかったと言います。


その後、姉の葬儀が足早に執り行われることとなり、地元で懇意にしていた葬儀屋さんに依頼しました。

葬儀屋さんはとても親身にして下さりましたが、やってきたのは創価学会の連中。

ずかずかと集会所に集まり、式の段取りは全て決められてしまったそうです。

お通夜でお経を唱えるのがお坊さんではなくスーツを着ただけの男性、しかも紙袋を持ったまま椅子に座って…など、「思い描いていた普通の葬儀」で娘を見送れなかったことを悔やんでいました。

【母の回想ここまで】


そして私はと言うと、なんだか堅苦しい出来事(お通夜)が終わり、ようやく姉に会えたと思ったら、なんだか、狭い箱の中で寝ている。

「退屈だなぁ」そう思いながら、隣に寝転がってゲームで遊んでいました。

でも、横にいるのに声をかけてくれないことが何だか寂しくて、いつも通りじゃなくて、何度も棺の小窓から姉の顔を覗いていました。

今でも鮮明に覚えています。姉はとても美しく、これからお嫁にでも行くのかというくらい、溜め息の出るほど美しかった。それだけは覚えています。

「早く起きないかな」私は隣でずっとゲームして夜を過ごしました。


翌日、本葬の日。

【母の回想】

本葬の日、喪主として忙しく過ごす中、出棺前のお別れの時間にようやく長女の手を握ることが出来たそうです。

余りの冷たさに絶句し、その場で泣き崩れてしまいました。病室で握っていた手の温もりは、強欲な神様が持って行ってしまった、そう感じたそうです。

その後、遺族で集合写真を撮る際に母は言いました。
「めぐはまだ死んでない、しんみりするとめぐは悲しむから、みんなで笑顔で写ろう」

遺族の集合写真は、みんなで右手で「👍🏼」の形を作って撮りました。みんな笑顔で。


【母の回想ここまで】

私はと言えば、相変わらず「早く起きないかな」と姉の目覚めを待つばかり。

ただ、記憶にはありませんが、火葬炉に姉が入る際、急に泣き出したそうです。それまでは「姉が死んでもゲームばかりしている薄情者」と周りの親族からは思われていたみたいです…


その後、小学校の先生から母に「息子さんが暴れて手が付けられない」と連絡があり、迎えに来ると、「なんで姉ちゃん死んだんや」と繰り返し泣き叫びながら廊下にある空のロッカーをものすごい力で殴り続けていたそうです。
その時になって、ようやく理解出来たのでしょうか。
(この出来事自体は全く覚えていません)

こうして私と姉の13年間は幕を閉じました。
この後、元姉による束縛が始まり、辛い思いも沢山しますが、そのおかげで乗り越えられた苦労もあります。

今は有難いことに姉の倍以上も生かされていて、多くの人に恵まれ、幸せに暮らせています。

「生きるとはなにか」「死ぬとはなにか」「自分の人生をどう使うのか」と考えるのは、姉の死があったからかも知れません。

いつか天寿を全うしてあの世への引越しを行う時、大先輩となった姉にゴマをすって、ちょっと良い扱いをしてもらいたい。
だから、今を善く生きたい。

そう考える都知事でした。

共に善く生きましょう。

ではまた。

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