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ローリング・ストーン誌 vs ザ・ローリング・ストーンズ & 悪魔を憐れむ歌、オルタモントの悲劇

Rolling Stone Magazine vs The Rolling Stones

「転がる石に苔生えず A rolling stone gathers no
moss」とは若者気質そのものだ。マディ・ウォーターズ Muddy watersも聖書に登場するこの一節を楽曲のタイトル(Rollin' Stone)
にしている。同名の人気ロックバンド(The Rolling Stones)もいれば、現代の吟遊詩人(Bob Dylan)が作った同名のヒット曲(Like a rolling stone)もある。
1967年の夏、作家のラルフ・グリーソンは煙を吐き出しながらヤン・ウェナーに言った。「お前の雑誌の名前、Rolling Stoneはどうだい?」

ローリング・ストーン 創刊 

1967年、ヤン・ウェナー入魂のロックマガジン「ROLLING STONE」創刊。ビートルズ、とりわけジョン・レノンを崇拝していたウェナーが勝ち取った表紙を飾ったのは、映画「僕の戦争 How I Won The War」撮影中のジョン・レノン。

Rolling Stone 創刊号

ビートルズは「ローリング・ストーン」をアメリカでの宣伝に役立てていたのは明白だった。ウェナーの書くビートルズの記事は畏敬の念に満ちていた。一方、ストーンズの新アルバム「サタニック・マジェスティーズ」の評価は散々だった。ジョン・ランドー(後年、スプリングスティーンのプロデューサーになる)が書いた記事は「サージェント・ペパーの不出来な二番煎じ。サウンドの仕上がりやジャガーの歌詞は聞くに堪えない」と言い切った。創刊から9ヶ月(既に14号まで刊行)ローリング・ストーンズを表紙にしたことはなかった。そしてビートルズは既に3度も表紙を飾っていた。

Satanic Majesties

Sympathy for the Devil

ミック・ジャガーは「ローリング・ストーン」を初めて見たとき、その雑誌の厚かましさに驚いた。自分のバンドの名前をつけておきながらローリングストーンズを創刊号の表紙にしないって、一体どういう了見だ?50年経ってもまだ、無礼きわまりないと感じていた。「同名の名前のバンドがあるのに、ヤンはどうしてこの名前を選んだのかな?別の名前だって良かっただろうに。曲名に由来することは知っているが、そういう問題じゃない。勿論、こういうものに著作権はない。ローリングストーン・アイスクリームがあってもいいさ。でも、ロック雑誌だろ?ジョン・レノンを表紙にして、ビートルズ、とかスペルを少し変えるとか、そういうこともできたはずだ。ま、それもバカらしいか。この雑誌名は嬉しくないし、独創性もまったくない」
キース・リチャーズはもっと簡潔に表現している。

俺たちは思ったよ "この泥棒め" って

訴状 from The Rolling Stones

マネージメントのアレン・クラインから名称使用の停止通告書が届いた。
「貴殿の行為は不当であり、少なくとも「ローリング・ストーンズ」の名称に関して当方の契約アーティストが所有する財産権、及び著作権を侵害するものです。また、当方の契約アーティストの所有する商標権を侵害するものであります。「ローリング・ストーン」の回収と廃棄を要求します。さもなければ、ただちに差止命令および三倍賠償請求訴訟を含む法的措置をとる」

焦ったヤン・ウェナーは、ミック・ジャガー宛に窮状を訴える手紙を書いた。訴状は、何かの間違いで、あなたはこの件を知らないのでは?と思います。あなたやストーンズがこんなことを問題視するようには思えません。インタビューをさせてください。ストーンズに好意的な記事を載せます。きっと、皆が飛びつきます。ミックから返信はなかった。

キース・リチャーズは言う「理由はどうあれ、ミックは人を大目にみてやることがない。決して見逃してやったりはしない」

紆余曲折があり、ウェナーはミック・ジャガーに会えることになった。ハリウッドのサンセット・サウンド・スタジオでアルバム「ベガーズ・バンケット」のミキシングをしているところに面会が叶った。ジャガーが借りていたヴィバリー・ヒルズの家に招かれザ・バンドの「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」のテスト盤を聞きながらピザを食べ、仕事について話をした。ミックは以前から、ロック雑誌の創刊を考えていた。そこで、ローリングストーン英国版の共同オーナーとなることになった。それは失敗に終わるが、それはまた別の話だ。

感謝のしるしにウェナーはストーンズ新作「ベガーズバンケット」の全曲紹介をした。ジャガーの歌詞は、ボブディランの歌詞に匹敵すると述べたうえ、このアルバムが「紛れもないストーンズの最高傑作」である事を断言していた。それは事実だった。

Beggers Banquet

Beggers Banquet
A面1曲目「悪魔を憐れむ歌 Sympathy for the Devil」、B面1曲目「Street Fighting Man」で始まり「地の塩 Salt Of The Earth」で締めくくる傑作盤。

そして、収録曲中もっとも「重要」な作品で、歌詞にケネディ大統領が登場することで知られる代表作「悪魔を憐れむ歌 Sympathy for the Devil」の裏話があった。

The Devil Is My Name

「我が名は悪魔」と仮タイトルがついていた最初のバージョンに「俺は大声で叫んだ、ケネディを殺したのは誰だ?結局、それはお前たちや俺だったんだ」という歌詞が含まれていた。その翌日、1968年6月5日、ボビー(ロバート F.ケネディ)が5発撃たれ6日早朝に死亡した。アルバムに収録されたのは二番目のバージョンで、その日にレコーディングされた。歌詞はこう変更されていた。「俺は大声で叫んだ、ケネディ兄弟を殺したのは誰だ?結局、それはお前たちや俺だったんだ」

1968年8月10日、ウェナーは初めてミック・ジャガーを表紙にした。
タンクトップ姿にヘッドフォンをつけ、物憂い表情を浮かべていた。

THE RETURN OF THE ROLLING STONES
ローリング・ストーンズの帰還

表紙に CREAM BREAKS UP(クリーム解散) の文字が見えるが、ローリングストーンの記事も関係していた。当時、ジョン・ランドーの書いたクリーム評で酷評し、負けじとヤン・ウェナーも酷い言葉でコキおろしていた。エリック・クラプトンは当時を振り返り「文字通り、倒れて失神したよ。ローリングストーンの記事がクリーム解散の一因だった」

オルタモントの悲劇 60年代に終止符

1969年12月6日、カリフォルニア州オルタモント・スピードウェイでのフリーコンサートには20万人とも50万人とも言われ、数えきれない数の観客が押し寄せ、全てがカオスでヘルズ・エンジェルズがコンサート警備をする阿鼻叫喚の中、18歳の黒人青年メレディス・ハンターの命が奪われた。ヘルズエンジェルズの一人が刺殺したのだ。他にも2名の死者が出た。そして、60年代が終わってしまった。







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