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郷愁

しつこく跡をつけてきたカラスを追い払ってからも、我らはのろい歩みで北へ向かった。縛りあげずとも、見張らずとも、黒い大鳥は静かに我の後ろをついてくる。その通り名のごとく。
春を間近にした荒野は、おののいたように呼吸を止めていた。風は止み、音も立てず身をすくめて我らが去るのを待っている。鳥の王と影の鳥、二羽の怪鳥の行き過ぎるのを。

ヒトの国でのことはあまりに古すぎて覚えておらぬ。だが、影の鳥と呼ばれたこの鳥のなれの果てが、我とヒトの国とのしがらみであることはわかっていた。
「影の鳥。黒き大鳥よ」
返事はなかったが、我は前を向いたまま呼びかけた。通じなくとも、言わねばならぬ。
「そなたは鳥の国を追放され、ヒトの国にも帰らず、鳥の道をはずれて彷徨い続けた。そなたが誰かを呼ぶ声が夜ごと聞こえたと、遠い昔、荒野に棲む者たちが言うておった。あれは、我であったのか。ヒトであったときの我が名であったか」
ときおり耳に届くかすかな音は、影の鳥がその身からはがれ落ちる羽根や骨であろう。
「鳥の王として、我はそなたを葬らねばならぬ。影の鳥は我が招いたようなもの。老いぼれた王が最後に責を果たそう。鳥の国に対しても、そなたに対しても」
歩みが止まり、影の鳥が倒れた。地面が揺れた。すでに聞こえてはいないかもしれぬが、我は声に力を込めた。
「大鳥よ。そなたの命はもう尽きておる。鳥であろうとするあまりにそのようなかたちに変わり、死んだのちまでも留まろうとするのは何故だ」
我はそこでようやく振り返り、かたちを失いつつある影と向きあった。
「影の鳥よ。そなたの望みは」
ふたつの空虚な目が、我をとらえた。その目の奥に光が宿った、と思った一瞬、黒い体がぐらりと揺れ、崩れ落ちた。
止んでいたはずの風が背後から巻き起こり、残っていた大鳥の羽根をむしり取った。黒い体はばらばらにされ、吹き上げられ、消えた。あとには何ひとつ残さず。あの肉体はとっくの昔に朽ちていたのだ。
我を射抜いたふたつの目があせていくわずかの間に、嗅いだことのある匂いが鼻をかすめた。それがはるか昔、ヒトであった頃の記憶が歩み寄った瞬間であったが、影の鳥が消え去ると同時に記憶の透明な影も弾け散り、二度と戻っては来なかった。

「そなたの望みは」

誰かの答えが聞こえた気がしてそちらを見る。荒野の中、風が道を作る。
長い年月が我を遡り、我はいま、太古の道にいた。鳥の道を通り抜け、たどり着いた鳥の国の入り口。
「そちらが答えか」
封じられていた門は開いている。もはや門番もいない。我のために開いた門であるからだとわかっていた。ヒトの姿も鳥の羽も脱ぎ捨てて、次の姿になりに行くのだと。
音もなく草が風になびく。荒野に見送られ、我は去る。


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