4 影と光

 夜の街で、どこからともなく聴こえる音楽。
 生まれては消え、やがて忘れられていく運命の曲たち。
 その中のひとつに俺の作った曲がある。
 いつからだろうか。
 自分の曲がひどく憂鬱に聴こえるようになったのは——
 ため息をつきかけたその時、
「この曲! アタシ大好き!」
 制服姿の少女が嬉しそうに声をあげた。
 その姿を見て僅かに微笑むが、すぐにそれも消えてしまう。
 ——今だけだ。
 この曲も、そのうちに忘れ去られていく運命。
 昔の俺なら有頂天ではしゃいだはずの言葉も、今は素直に喜べない。
 その理由も分からないまま、少女たちを振り返りもせず歩き続けた。


 いつものバーに、彼女の姿はなかった。
 それでも俺は、軽く店内を見渡しただけでカウンターの椅子に腰を降ろす。
 彼女が現れる前に戻ったように、ゆったりとウィスキーを味わう。
 彼女がいようといまいと、何も変わらない……はずだった。
 どうしてだろう。落ち着かない——
 俺の中の時計は壊れたように乱れ、ウィスキーの味はひどく遠く、飲んでいる感覚さえも薄れていってしまう。
「……もう少し強めのを」
 空になったグラスを押し出しながら呟く。
 マスターは静かに頷き、新しいグラスを手に取る。
 しかし、いつもと違う銘柄の、少し強めのウィスキーを飲んでも、やはり酒を飲んでいる感覚が薄い。
 バーの風景までがいつもと違い、薄闇に包まれているような気がした。
「そんなに飲まれるのは珍しいですね」
 マスターの言葉に、俺はその通りだと思いながらふっと笑った。
「うん、どうしたんだろうね俺は」
 いつもゆっくり飲む酒を、ぐっと飲み干す。
「そういえばいつからだろう」
「何が?」
「外ではほろ酔い程度で済ませるようになったこと。昔は酔いつぶれたなんてこともあったのに」
「へぇ……そうなんですか? でもどうして飲まなくなったんですか?」
「何かあったら困るでしょ。俺、一応リーダーだし」
「あっ、マスコミ……」
「うん、意外に酒癖悪いから——……あれ?」
 顔をあげた先には、無邪気な笑顔。
 先ほどまでは影も形もなかった彼女の姿。
「いつの間に。今日は休みかと思ってた」
「ちょっと買い出しに行ってたんです」
 空になったグラスが、彼女の手によってウィスキーの入ったグラスに変わる。
 口をつけると、いつもの味がした。
「もし酔いつぶれても、ここなら大丈夫ですよ」
「……そっか」
 自然と笑みが零れ落ち、俺の中の時計が正確なリズムを刻み始める。
 バーはいつものゆったりとした空気と程よい明るさに包まれており、何もかもがいつもの風景に戻っていた。
「君の歌詞につけた曲、手直ししてるからまた今度持ってくるよ」
「ありがとうございます。楽しみです」
 幸せそうに笑う彼女を見て、忘れかけていた気持ちが僅かに蘇る。
 嬉しいようなくすぐったいような、ただ純粋に音楽だけを追いかけていた頃に感じた——
 もちろん今だって音楽だけを追いかけている。
 他に出来ることもなく、したいとも思わない。
 では何が、違うのだろうか……
「君は……いいの?」
「もちろんいいに決まってるじゃないですか。自分の歌詞に曲がつくなんて感動ですよ!」
「そう、そうだね。最初は嬉しい」
 呟いた俺を、彼女は首を傾げながら不思議そうに見た。
「軽く書いた曲も、死ぬ思いをして書いた曲も価値はそう変わらない。ましてや大量消費されてく音楽は、常に新しいものを求められる。消えていくための曲を、俺は作り続けなきゃならないんだ」
 俺は何を言っているんだろう——
 ぼんやりとそう思いつつも、飲みすぎたウィスキーのせいか言葉が止まらない。
「君が書いた歌詞も、同じように消費されてくんだ。最初は良くても、そのうちに身をすり減らしていくだけになっていく……」
 彼女のことではなく、俺自身の話をしてしまっている。
 そして俺は、自分が思っていたよりずっとすり減っていたのだろうか。
 永遠に消えてほしくないと願っているわけではない。
 評価もそこそこもらえればいい。
 では何故、俺はこれほどまでに憂鬱なのか——
 俯きかけた刹那、俺は弾かれたように顔を上げた。
 あの時の曲……か?
 耳に飛び込んできたのは、ひどく音程の外れた彼女の歌声。
『この曲! アタシ大好き!』
 街ですれ違った制服姿の少女の言葉が脳裏に蘇る。
 彼女の歌声は、静かなバーに不協和音をもたらす——はずだというのに、俺の耳には美しくさえ聴こえた。
 やがて歌は変わっていく。
 まだ未熟な、だが懐かしい過去の自分の歌へと。
「やっぱ飲みすぎかな。君の歌声がまともに聴こえる」
「失礼ですよそれ」
 俺の呟きを聞き逃さなかった彼女は、すかさず歌を止めた。
 眉をひそめ不満そうな彼女を見て、小さく笑ってしまう。
 もっと怒るかと思ったのだが、意外にも彼女は笑みを見せた。
「私は覚えてますから」
 微笑みは優しく、しかし言葉は力強く。
「誰かが覚えていれば消えることはないですから。絶対に」
 グラスに伸ばしかけた手が止まる。
 俺はきっと驚き目を見開いていたのだろう。
 見つめた彼女の瞳には、どれだけ探しても嘘の色はない。
「……ありがとう」
 グラスをつかみながら、素直に言った俺は穏やかに目を細めた。
「でも……なんでも続けていくことが大切で大変って言いますけど、本当にそうなんですね。私は書いてて楽しくて、誰かに見て聞いてもらいたくて、ただそれだけで……」
「俺も、昔はそうだった」
「今もそうなんじゃないんですか? この間、私の歌詞に曲をつけてくれた時、すごく楽しそうでしたよ」
「そう……だった?」
 かもしれない……
 彼女の歌詞を見た途端、鮮やかな色が現れ、メロディが止め処なく溢れ出した。
 だが、家に帰って手直しをしているうちに、それは色褪せ退屈なものに変わってしまっていた。
「手直しなんていらないって思いましたよ。そのままでも充分だって」
「編曲は必要だから」
「じゃあ、編曲もここでしちゃいます?」
「無茶振りだね」
「ついでにデモにしましょうか? スマホ録音ですけど」
 くっ、と笑ってしまったのは、酔っていたせいかもしれない。
「君は俺の憂鬱を知ってるの?」
 小さく呟いた俺の言葉は、彼女の耳には届かなかった。
 だが、別に構わない。
 今はそんな話をする必要はない。
 彼女はカウンター越しにギターを差し出し、いつものノートの山をカウンターに置いた。
 開いたノートに書かれた文字の羅列は、美しい景色を俺に見せ、それが旋律となっていく。
 確かに今の俺に必要なのは、ただ思うままに身を任せ、取り繕うことをせずメロディを紡ぐことかもしれない。
 何も恐れず、信じるままに進んでいく。
 光はその先にしかない。


 勢いに任せていくつかメロディを奏でた後、一息つきながらグラスに手を伸ばす。
 その拍子に、カウンターから半分身を乗り出していた彼女の顔が目前まで近付く。
 慌てて離れようとした彼女の腕を、何故か俺はつかんでしまっていた。
 彼女が息を飲む。
 驚きと戸惑いと照れが混ざったような顔をしている。
 ふっと微笑んだ俺は、小さな声で彼女に囁きかけた。
「ありがと」
「い、いえ」
 腕を離すと、彼女は意味もなくカウンターを拭き始める。
 目を逸らしながらも、俺の視線を気にしているのかひどく落ち着かない様子で。
 俺は微笑んだまま、ぐっと飲みグラスを置いた。
 グラスの外側についた水滴が静かにと下へと落ちていく。
 その水滴は小さな輝きを放ち、俺の中の影をゆっくりと洗い流していくような気がした。

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