雨
体が次第に冷えていく。
頭の天辺からつま先までずぶ濡れだ。
だからといって差す傘も持っていない。
あったところで俺は差しもしないだろう。
通りを行く人々は無関心だ。
だが、今はそれが心地いい。
誰の目にも止まりたくはない。
いっそこのまま世界から忘れ去られてしまえばいい。
歩道橋脇の小さな公園の花壇のブロックに腰かけて、どのくらい経っただろう。
街を行く人々はどこからか現れ消えていくのに、俺だけここでずっと立ち止まったまま。
目的もない。かといって帰ったところで何もない。
いっそこのまま雨と共に流れて消えてしまえればいい。
ああ、だけど不思議なことがひとつだけあった。
少し離れたところで、俺と同じように座り込んでいる女がいる。
横を向いて見ると、うつろな目をしてまるで動かない。
彼女も俺と同じように消えてしまいたいと思っているのだろうか。
そう思うだけで不思議な親近感を覚える。
だが、それだけだ。
それ以上は何もない。
俺は雨空を見上げた。
月さえも隠す暗くて分厚い雨雲は、ただ黒いとしか認識出来ない。
でも今の俺には綺麗じゃないくらいが丁度いい。
ポケットの携帯電話がメールの着信を報せるバイブを鳴らす。
だけどどうせロクでもないメールだ。
上辺だけの心のこもっていない同情のメール。
返信する価値もない。
だけどもしかすると仕事のメールかもしれない。
俺は小さく息をつくと立ち上がった。
仕事のメールが気になるうちはまだ心が動いている。
いつまでもこうしているわけにもいかないってことも分かってる。
そんな自分の理性を恨みつつ、俺は歩き出した。
深夜、眠りは俺を通り過ぎる。
何をする気にもなれないのに、批判の声だけが頭を渦巻く。
この道しかないと進んできたことが、すべて間違いだったのではないかという思いに囚われる。
俺はたまらず部屋を飛び出した。
どこでもいい。この声の聞こえないところへ行きたい。
声を発しているのは俺自身。
それならばいっそ俺自身を消してしまおうか。
――そんな度胸もないくせに。
自分で自分をあざ笑いたくなる。
どこに行くともなく、俺は歩き続けた。
雨はまだ止まない。
だが、傘を差す気にはやっぱりなれなかった。
やがて同じ場所に辿り着く。
そこで、まだ雨に濡れる少女を見つけた。
彼女はいつからそこにいたのだっただろう。
俺が座っていた時から? その前から?
だが、俺が去った後もずっといたであろうことは分かった。
前を向いているのにどこも何も見ていないような目。
表情はなく、魂さえもそこにないのではないかと思えるほど。
俺は彼女に近づいた。
だけど反応は何もない。
「君……」
声をかけるけど返事はない。
俺はどうして声をかけたのだろう。
それすら不思議だった。
ただ同じ時間に同じように雨に打たれて座っていた。
彼女とはそれだけだ。
なのにどうしてこんなに気になるのだろう。
心配だとか放っておけないとか、そういう感情ではない。
ましてや一目惚れしたわけでもない。
痛いほどの透明感に、透き通って消えてしまいそうな存在に、惹かれなかったかというとそれは嘘だとは思う。
ただ、気になった。
俺の心が、彼女と共鳴したような、そんな気がした。
「家に帰らないの?」
「……帰る場所なんてない」
雨の音にかき消されてしまいそうな声だった。
「この辺りさ、そんなに安全でもないんだけど」
親切じみた言葉をかけたのが自分でも意外だった。
さっきまで、他人のことなんてどうでも良かったのに。
いや、世界中のすべてのことがどうでも良かった。
自分より痛みの深そうな人間を見つけると、人はそれさえも忘れてしまうのだろうか。
それとも、誰かの力になることで、見失った自分の存在意義を取り戻そうとするのだろうか。
「……好きにすればいい」
投げやりで冷たい声。
全てに絶望している。
それがなんだか腹立たしかった。
彼女に俺ほどの悩みがあるように思えなかったからかもしれない。
きっとまだ高校生くらいだろう。
未来だって希望だってこれからじゃないか。
何を憂うことがあるのか。
こっちは30年生きてるんだ。
「……じゃあ、好きにするよ」
俺は彼女の手を取った。
彼女はまるで抵抗することはなかった。
俺のマンションに入っても、抜け殻のように突っ立っている。
タオルを渡しても拭きもしない。
俺の知っている女は、少し雨に濡れただけでも大騒ぎした。
「お風呂沸かすから入って」
声をかけても反応はない。
俺はお風呂が沸くのを待って、彼女をバスルームに押し込んだ。
着替えは俺のしかないけど、構わないだろう。
「ちゃんと入って着替えて」
念押しすると、彼女は小さく頷いた。
リビングに戻ると、俺は自分の行動に苦笑した。
何をやっているんだか……。
ついさっきまで、絶望するほど他人などどうでも良かったというのに。
それとも俺は寂しかったのだろうか?
誰かに話を聞いてほしかったのだろうか。
彼女なら、同じ悩みを持って聞いてくれる気がしたのだろうか。
「バカバカしい……」
呆れながら広いリビングを見渡す。
手に入ったはずの栄光は、ひどく虚しい。
俺を好きだと言ってくれる人が多ければ多いほど、孤独に苛まされる。
その中で、本当に俺を好きだと言ってくれるのは何人だったのだろうか。
きっと、一人もいなかったのだろう。
だから今、こんなことになっている。
俺はこの栄光を失うのが怖いんじゃない。
人が離れていってしまうのが寂しいんだ……。
音がして、リビングに彼女が姿を現した。
思考が遮られて良かったと感じた。
あのまま考え続けていたら、きっとまた雨に打たれたくなる。
「座って」
突っ立ったままの彼女にソファを指差す。
彼女は無言でソファに座った。
俺は立ち上がると、キッチンに向かう。
だけど冷蔵庫は空っぽ。
そういえば、俺自身ロクに食べていなかった。
やっと探し出したカップ麺を二つ作る。
「お腹空いてるでしょ」
彼女の前にひとつ置くけど、箸を取ろうともしない。
「これしかなかったんだ」
俺は構わずカップ麺をすすった。
久しぶりにものを食べた気がするのは不思議だった。
特に美味しいとも思わなかったけど、胃の中に落ちていく感覚がする。
このところ、食べ物なんて無理矢理詰め込んでいたような気がする。
「食べなよ」
もう一度声をかけると、彼女はようやく箸を手に取った。
その手が震えている。
長い時間雨に打たれれば寒い季節ではあったけど、それだけではなさそうだ。
だけど俺は見ないフリをした。
さっさと自分の分を食べると再びキッチンに向かう。
これだけはストックがたっぷりあるミネラルウォーターを二本、持って戻った。
そしてミネラルウォーターを飲みながら彼女から目を逸らす。
静かな部屋に、彼女がラーメンを食べる音だけが微かに聞こえる。
それさえも、耳を澄まさないと聞こえないくらいだったが。
箸を置く音が聞こえて、俺は振り返った。
たぶん、少ししか食べていないだろうということは分かる。
だけど俺はそれを追求することはしなかった。
そもそも、どうして食べ物まで出したのか自分でも分からない。
別に彼女のことが心配なわけでもないのに。
「これ、飲んでいいよ」
ミネラルウォーターを差し出すと、彼女は受け取った。
それきり、彼女は動きを止めた。
動かず話さず、死んでいるのと同じだ。
ああ、そうか。
生きていないってのはこういうことか。
俺はまだ生きていた。
絶望の縁に立って死んでしまってもいいと思っていた。
だけど、本当に死ぬ手前の人間ってのはこういうもんなんだ。
人の不幸を見て自分の幸せを感じたわけじゃない。
ただ、現実を見た。
かといって、それで俺の苦痛が和らぐわけでもないけれど。
それにしても、こんな状況でも人は食べるもんなんだな。
そう思うとおかしくもあった。
彼女にすれば、無理矢理食べさせられたのかもしれない。
だが俺は、食べていた。
彼女は喋らない。
俺も話をしない。
沈黙が静寂に変わり、時間だけが過ぎていく。
やがて夜が明ける。
今日も仕事はない。
しばらくは謹慎状態だ。
俺が何かしたわけでもないのに。
いや、遡れば原因は俺なのかもしれない。
すべての原因は俺にあるような気がする。
俺がもっと誠実に生きていれば良かったんじゃないか。
もっと丁寧に生きていれば良かったんじゃないか。
だけどそんなこと出来っこない。
俺は俺の能力を越えることは出来ない。
……それを背伸びしていたのだろうか。
無理をして、取り繕って、それですべてを失った。
あんなに雨が降っていたのに、外はいい天気だった。
この青空さえ、空々しく感じてしまう。
いや、なんの感動もないといった方が正しい。
気持ちを浮き立たせてくれるはずの青空に、何も感じられないということが悲しかった。
彼女がミネラルウォーターのキャップを外そうとする。
だけどうまく外せないらしい。
「貸して」
俺は彼女からペットボトルを受け取ると、キャップを開けた。
彼女は無言で小さく頭を下げた。
少し飲んで、蓋をしてしまう。
そのペッドボトルは俺自身。
あふれるほどの想いがあるくせに、蓋をして出そうとはしない。
伝えていなかったのは俺なのだろうか。
人目を気にして、嫌われることが怖くて、何も言えなくなっていた。
本気でぶつかり合える相手が出来るはずもなく、俺が孤独を選んでいたのかもしれない。
……気付いたところで、今さらどうにもならない。
何もしないうちに昼になった。
「コンビニ行ってくる」
冷蔵庫が空だったので、俺は何か買いに行くことにした。
その間に彼女が逃げ出していたらそれはそれだ。
元々、何かをしたくて連れて来たわけでもない。
理由さえ分からないままの行動だったのだから。
コンビニから戻って来ると、彼女は出かけた時そのままの格好で座っていた。
動いた気配はない。
「逃げなかったの」
テーブルにコンビニの袋を置くと、彼女を見た。
反応はない。
「このままここにいたら、何かされるとか思わない?」
返事はない。
俺は彼女に揺さぶりをかけてみたくなった。
どうしてそう思ったのかは分からない。
もしかすると、彼女の声を聞きたかったのかもしれない。
最初に思ったように、同じ気持ちを話したいと思ったのかもしれない。
「俺は男で君は女なんだけど」
俺は彼女をソファに強引に押し倒した。
だけどやっぱり反応はない。
大きな黒い瞳が、うつろに俺を見る。
きっとそこには俺は映ってはいないのだろう。
俺はため息をついた。
「死にたいとか思ってる?」
「……死ぬのは難しい」
意外な答えが返ってきて驚く。
てっきり、死にたいと言うと思っていた。
「どうして?」
「そんな勇気もない……」
彼女の目から、涙が零れ落ちた。
初めて見せた感情だった。
「消えてしまえばいいって思った……どうなってもいいって……なのに、死ぬのは難しいよ……」
静かな慟哭。
彼女は俺と同じことを思っている。
ただそれだけで、俺は泣きそうになっていた。
そうなった事情はきっとまるで違うだろう。
だけど、同じ気持ちなんだ。
まだ高校生なのに。
いや、問題が出たのが早いか遅いかの違いだけかもしれない。
遅かれ早かれ、同じ気持ちに辿り着いていただろう。
この生き辛い世界に生まれ、愛を知らずに育ち、常に人目を気にして生きてきた。
出来るものだけが評価され、均一に育つことを望まれ、自由なんてひとかけらもない。
大人になって初めて欠点が長所になる世界を知ったけど、子供の頃に染み込んだ記憶は消せない。
その傷は癒えることなく、今なお俺を苦しめる。
発狂の狭間にありながら、狂ってしまうことも出来ない。
生きている目的を見失いながらも、理性だけで生き続けている。
死ぬ度胸もなく、今の生き方をぶち壊す勇気もない。
消えてしまえればいいなんて、逃げてるだけだ。
だけど、それだけど、俺には彼女の気持ちが痛いほど分かった。
「君は……俺と同じだ」
呟いた俺の声に、彼女が目を見開く。
彼女もまた、同じ想いを抱えた人間を初めて見たのかもしれない。
雨の中気になったのは、同じ想いを抱えていたから。
魂が呼び合うことがあるのなら、あの瞬間がそうだったのかもしれない。
俺は彼女を抱きしめた。
彼女も俺を抱きしめた。
ただ、それだけで良かった。
言葉はいらない。
同じ気持ちを共感し、分け合える。
それだけで良かった。
俺がほしかったのはそれだ。
そうだね、と言ってほしかった。
一人じゃないと感じたかった。
遠い過去が蘇る。
一人で膝を抱えうずくまっているのは子供の俺。
相手にされなくて、悲しくて仕方なかった。
だけど幼すぎて、そのことにすら気付いていなかった。
今なら分かる。
俺は愛してほしかったのだと――。
彼女とはそれきりだ。
何を話すわけでもなく、ただ一日抱き合っていた。
その後、食べたコンビニのご飯は美味しかった。
彼女は笑っていた。
俺も笑っていた。
あの場所を通るたびに彼女を思い出す。
だけど、もう二度と会うことはない。
それでいい。
俺も彼女もそれぞれの道を歩いていく。
また同じように悩むことはあるだろう。
深く刻み込まれた傷はそう簡単には癒せない。
だから、また雨に打たれよう。
あの場所に、あの日の彼女に会いに行こう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?