1 出会い

 気だるい朝——いや、もう昼か。
 時計の針はゆっくりと進むが、俺の心はまるで動かない。
 あんなにあふれていた音楽も言葉も、今では真っ白だ。
 夢見ていたはずの生活を手に入れたはずなのに。
 それでもステージに立つのは楽しい。
 歌っている時だけはすべてを忘れられる。
 重い体を起き上がらせると、出るのはため息。
「そろそろ行かないとな」
 俺は憂鬱を振り払うかのように、勢いよく立ち上がった。


 グラスを傾けると、氷がカランと音を立てた。
 古びたバーは、昔から通っている隠れ家。
 ここでは誰も俺を気にかけることはない。
 俺もここでは、何にも縛られることなくいることが出来る。
 今日は客も俺一人しかいない。
 穏やかでゆったりとした時間が流れていく。
 それを遮ったのは、けたたましく開かれた扉の音だった。
「叔父さん!」
 ヒールの音を響かせ、カウンターに迫ったのは歩み寄ったのは、まだ若い女性。
 急いで来たのか肩を上下させ、希望に満ちた笑みを浮かべている。
(ずい分と騒がしいのが来たな)
 それが俺の印象で、それ以外には何もなかった。
「叔父さんでしょ? やっと見つけた!」
 彼女はカウンター越しにマスターに迫る。
 だが、当のマスターはなんのことか分からないといった顔をしていた。
「私、覚えてないかな?」
 彼女が名乗ると、マスターは驚いたように目を見開く。
 どうやら本当に叔父と姪の関係らしい。
「しかし、急にどうしたんだい」
「家出してきたの。だから、しばらく叔父さんのところにお世話になろうと思って。ここで仕事を手伝うから、お願い!」
 迷惑な話だと思いつつ、何故か俺は席から動くことが出来なかった。
 はっきりとした理由も言わず、ただひたすら頼み込む彼女に、ついにマスターが折れる。
 嬉しそうにお礼を言った後、彼女はカウンターの椅子に腰を降ろした。
「はー、良かった」
 息をついた後、ふと俺を見る。
「あ……お客さんいたんだ……」
 今頃気づくとは、それほど必死だったのだろうか。
「騒がせてしまってごめんなさい」
 申し訳なさそうに言う彼女を見て初めて、それなりにかわいい子なのだという印象を持つ。
 あまり自己主張をしない顔立ちの、瞳の奥だけが何かを決意したような強い光を灯していた。
「いや、俺のことはいないものと思ってもらって構わないから」
 当たり障りのないことを言う気分でもなく、それだけを言って再びウィスキーを飲む。
「疲れただろう。今日は特別だよ」
 マスターが彼女にカクテルを差し出す。
 お礼を言うと彼女は一気にカクテルを流し込み、ふうっと息をつき黙り込んだ。
 店内には再び静寂が訪れ、俺は静かにグラスを傾ける。
 彼女が何杯目かのカクテルを飲んだ後のことだった。
 酔って気分が良くなったのか、彼女が歌を口ずさむ。
 それがひどく音程が外れていて、俺は思わず彼女を見てしまう。
 彼女もまた俺を見た。
「音痴だと思いましたか?」
 さほど気にしていないのか、彼女はくすくすと笑った。
「……はっきり言ってもいいのなら言うけど」
「いいですよ」
「今まで聞いた中で一番ひどいかもしれない」
「やっぱり!」
 楽しそうに笑う彼女を見ていると、罪悪感どころか言って良かったとさえ思えてしまう。
「歌うの好きなんですけど、音痴なんです。音感がないから楽器もダメで」
「人それぞれ、得意不得意はあるからいいんじゃないの?」
「でも音楽が好きなんです」
「そう……」
 それはひどく懐かしい言葉のように思えた。
 俺にもただ純粋にそう思っていた頃があった。
「だけど作詞だけはいいって言われるんですよ」
「へえ……」
(今の俺には痛い言葉だな)
 カラン、とグラスの氷が音を立てる。
「歌ってみましょうか?」
「いや、遠慮し……」
 言いかけて、俺は言葉を止めた。
 後で考えてみれば、スランプで疲れ切っていたとしか思えない。
「歌ってみて」
 そう言うと、彼女の顔がぱあっと輝いた。
 ひどく音程の外れた歌。
 だが、歌詞だけを拾っていくと、胸が熱く沸き踊っていく。
「どうでしたか?」
 彼女の声で、はっと我に返る。
「あ、ああ……歌詞だけならプロだ」
「本当ですか!?」
 飛び上がらんばかりに喜ぶ彼女を見て、軽卒なことを言ってしまったかと後悔した。
 ヘタに夢を与えるのは良くない。
 ましてや俺は、プロなのだから——。
 そこまで考えて、ふと気づく。
「あのさ。そういえば君、俺のこと……」
「知ってますよ」
 さも当たり前のように言われ、俺の方が驚いてしまう。
「日本で一番有名なバンドのボーカルさんですから。でも安心してください。取り入ろうとかそういうことは考えてませんから」
 あまりに真っすぐな瞳に、心までも吸い込まれそうになる。
(彼女は俺に、何かを与えてくれるかもしれない)
 そんな予感がした。
 乾き切った俺の心を潤す雫がひとつ落ち、みるみるうちに染み込んでいく。
 そうして潤った後には、新しい世界が広がっていくだろう。
「俺の歌の詞を、書いてみる?」
 深く考える前に言葉が飛び出す。
 彼女は驚きのあまり目を瞬かせた後、すべての動きを止め固まった。
 憂鬱は、僅かにその影を消そうとしていた。


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