3 純粋の白

 ギターの弦を弾く手が止まる。
 何かが違う……
 弾けば弾くほど、その音色は俺の胸を重くしていく。
 捉えようとすればするほど、その音色は遠くなっていく。
 あの時、広がった豊かな色彩は消え失せ、口ずさんだはずのメロディは影も形もない。
 ただ、深いため息が零れ落ちるだけ。
 俺は夢でも見たのだろうか。
 古びたバーで酔って見た幻——
 そう思うほど感覚は鈍くなり、抜け出せない深い闇に沈んでいくような気がした。
 それはいつもと同じ、何も生み出せなくなった自分。
 彼女に出会い、変わっていくかと思ったのは勘違いだったのかもしれない。
 もう一度ため息をつくと、俺はソファに深く身を沈めた。


 眠りは浅く、目覚めは悪い。
 気だるい体を起き上がらせると、眩しすぎる朝日に目が痛む。
 床には、色のない寄せ集めのメロディが散りばめられた楽譜が転がっている。
 これを持って行くしかないか……
 半ば諦めながら、ソファから立ち上がり楽譜を拾う。
 少しでもマシなメロディを探しながら。


 バーに入ると、明るい笑顔が俺を待っていた。
「いらっしゃいませ!」
 幻じゃなかったのか……
 彼女はそこにいた。
 確かな存在として。
 そう感じた瞬間、俺の心がふわっと軽くなっていく。
「不思議だな……」
 呟いた俺の声は、ゆったりと流れる店内の音楽にかき消される。
「いつもの」
 カウンターに座りながら口にしたオーダーに彼女が明るく頷く。
「お待たせしました」
 ウィスキーのロックは、彼女の手によってカウンターに置かれた。
 ちらりとマスターを見るが、空気のようにグラスを拭いている。
 それだけはいつもの光景。
 ただ、彼女の存在だけがいつもと違う。
「ありがとう」
 俺の礼に、彼女は微笑みだけで答える。
 その姿はすでにこの店にごく自然に溶け込んでいるようで、少し意外だった。
 グラスに口をつけながら、ゆったりとした時を味わう。
 彼女が俺に話しかけることはなく、俺も彼女に話しかけることはない。
 決して俺の時間に、空間に踏み込んでくることはない。
 マスターに言われているのか、それとも彼女自身でそれを理解し実行しているのか。
 どちらにしても、俺にはありがたい。
 やがてグラスが空になり、二杯目を頼む。
「……歌詞、もう一度見せてくれない?」
 言葉は無意識のうちに口を突いて出ていた。
 だが、そのことに戸惑う間はなかった。
「はい!」
 どんっとカウンターの上に置かれたノートの山。
 いつでも出せるように持ち込んでいたのだろうか。
 そう思うとおかしく、ぷっと吹き出してしまう。
「ごめん。こんなに早く出てくるって思わなかったから」
「あ、そうですよね。びっくりしますよね」
 苦笑いの彼女は、しかしすぐに明るい笑みを浮かべる。
「少しでも時間があれば書いてるんです。だからここにも持ち込んでて……」
「その時間があれば仕事を覚えてもらいたいものだが」
 マスターの苦笑に、彼女は小さく肩をすくめた。
「これ、新しいやつ?」
 二人の会話には加わらず、一番上のノートを手に取りめくる。
「そうです! さっき書いたばかりなんです」
 答えた彼女の目は輝いている。
 先ほどマスターに嫌味を言われたばかりとは思えない反応だ。
 その切り替えの早さに、無意識のうちに笑みを零しつつ文字を追う。
 どうしてだろう……
 読むだけで不思議なくらい広がる色彩。鮮やかに浮かびあがるメロディ。
 俺がデモとして持って行った、無理矢理並べたメロディは嫌になるほどくすんでいた。
「綺麗……」
 彼女の呟きで、現実世界に引き戻される。
 どうやら俺は、またメロディを口ずさんでしまっていたらしい。
「ギター、持って来るんだった」
「ありますよ」
 得意げに言った彼女は、本当にギターを出した。
 下位モデルではあるが、よく手入れされている。
「これ、君の?」
「はい。ギターくらいは弾けるようにと思って買ったんですけど……」
「その先は聞かなくてもなんとなくわかる」
「……ですよね」
 ギターを手にすると、指先で弦を弾く。
「ピックあります!」
「ああ、ありがとう」
 彼女が差し出してくれた白いピックを受け取る。
 真っ白で傷のないピック。
 欲にまみれていない、純粋な彼女の心を表しているかのような。
「新品?」
「いえ、使っていなかっただけです」
「……それでも時間が経てば白は色褪せるよ」
「えっと……。箱に入れっぱなしだったから綺麗なんですよ」
「そう」
 きっとこれは、彼女が新しく買ったもの。
 自分はもう弾かないのであれば、なんのために?
 そもそもどうして、すぐにギターが出てきたのか。
 もしかして俺の——
 勢いよく弦を弾く。
 頭をよぎった考えをかき消すために。
 しかし、響いた音の酷さに眉をひそめた。
「チューニング、したことある?」
「えっ、完璧だと思ったんですけど」
 真顔の彼女に、またぷっと吹き出してしまう。
 今日はよく笑う日だ。
 ここに来る前はとてもそんな気分ではなかったというのに。
 いや、そもそも最近、笑ったことなどあっただろうか。
 ただ作り笑いだけの日々……
「音感ないって大変だね」
「あっ、ひどい。馬鹿にしてますよね?」
「そうでもないよ。ある意味尊敬する。ひとつも合ってる音がない」
「……どうも」
 肩を落とす彼女を横目に、ペグを捻り音を確認していく。
 チューニングを終えた時にはもう彼女は立ち直っており、尊敬するようなきらきらとした眼差しで俺を見ていた。
 ギターを鳴らすと、指先は勝手に動きコードを押さえ始める。
 取り繕うための音で真っ黒に染められていた頭はクリアになり、真っ白なピックは純粋なメロディを奏ていく。
 あの日、家に帰った後には消えてしまっていたメロディが嘘のように浮かび手が止まらない。
 ここがバーであることも忘れ、俺はひたすらメロディを紡ぎ続けていた。
 時折、弾く手を止め彼女のノートに音符をメモ書きしていく。
 楽しい。
 そう思ったのはいつ以来だろうか——
 一気に作業を終えた俺は、静かにピックをカウンターに置いた。
 その時初めて、店内の音楽はひどく小さな音になっていることに気付き、俺はふっと微笑んだ。
 再び視線を向けたノートには、音符やコードが乱雑に並ぶ。
 ああ、そうか。
 逆だったのか——
「俺の曲の歌詞をって言ったけど、それじゃダメだね」
「その話なら、もう忘れてますから」
 本気にしてませんから、と言わんばかりに笑う彼女。
 そうじゃない。
 俺が最初に言った言葉は、正しくなかった。
 だから今度は、正確に言おう。
「違う。君の歌詞に俺が曲を書きたい」
 恐らく俺は一生忘れないだろう。
 この時の彼女の顔を。
 驚いているというより、突然のことに理解が追いつかないといった顔。
 口をぽかんと開けて間抜けなはずのその顔を、少しでもかわいいと思ってしまったことも。
 音符は踊るように跳ね、モノクロの五線譜には鮮やかに彩られた世界が広がっていた。


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