2 透明な色

「なんかいいことあった?」
 メンバーに言われ、俺はギターの弦を弾く手を止め顔をあげた。
「……どうだろう」
「なんだそれ」
「それより、どうしてそう思ったんだ?」
「なんとなく、楽しそうに見えたからさ」
 人の目に見て分かるほどなのか、長年一緒にいるメンバーだから分かったのか。
(いいこと……なんだろうか)
 その場の勢いで言ってしまったとはいえ、彼女は期待しているだろう。
 後悔がないとはいえない。
 だが、それ以上に心が揺さぶられるものがあった。
 早く彼女の詞を見てみたい——。


 その日の足取りは久しぶりに軽かった。
 バーの古い扉を開くと、ギィッと錆びた音がする。
 一番に飛び込んできたのは、カウンターで懸命にグラスを拭いている彼女の姿。
 慣れない手つきで、だけど目は真剣そのものだった。
「いつもの」
 カウンターに座ると、短く言う。
 マスターが頷き、彼女は俺に声をかけることもない。
(気づいてない?)
 そうも思ったが、入って来た時に彼女はちらりと俺を見ていた。
 喜んで話しかけてくるかと思っていただけに、拍子抜けしてしまう。
 ウィスキーと氷だけが入ったグラスが、俺の前にすっと差し出される。
 様子を伺いながら飲むが、やはり彼女が話しかけてくる気配はない。
「あのさ、書き溜めてる歌詞があったら見せてほしいんだけど」
 先に痺れを切らしたのは俺の方だった。
「え?」
 彼女は驚いたように俺を見る。
「もしかして、酔ってて覚えてないとか?」
「いえ、覚えてますけど……あれ、本気だったんですか?」
(ああ、そうか。酔った勢いだと思われてたのはこっちだったんだ)
 冷静な彼女の反応に、笑いが込み上げた。
 彼女が言った「取り入るつもりがない」というのもどうやら本音らしい。
 この間は、いきなりここに押しかけて非常識だと思ったが、どうしてなかなか常識的だ。
 ということは、並々ならぬ事情があるということか。
 もっとも俺は、その事情とやらに興味はないが。
「冗談は言っても嘘は言わないよ」
 その場の勢いだったかもしれない、ということは隠しておく。
「……これはチャンスなんでしょうか」
 彼女はグラスを拭いていた手を止め、ぽつりとつぶやいた。
「それは君が判断することじゃない?」
 戸惑う気持ちは分かる。
 だが、俺が彼女の決断に口を出すことではない。
 決断というものは、最後は自分自身でしなければいつか後悔をする。
 漆黒の瞳が探るように俺を見つめた。
 マスターはカウンターの中にいるが、いつものように何も言わない。
 それが彼のスタンスだ。
 客の話には関与しない。
「無理にとは言わないよ。気が向いたら——」
 俺が最後まで言う前に、彼女はバタバタと駆け出した。
 カウンターの奥の扉へと消えたかと思うと、しばらくして大量の紙やノートを抱えて戻ってくる。
「お願いします!」
 ドサッとカウンターに置かれた重さが、彼女の本気を物語っているようだった。
 俺は一番上のノートを手に取ると、ページを開いた。
 書き殴られた文字を辿っていくうちに、静まり返っていた心が動き始めていく。
 初めて彼女の歌詞を聞いた時よりも、もっと鮮やかに、色彩を伴ったイメージが浮かぶ。
 言葉は素直で透き通っており、それでいて本質を捉えている。
 だがそうとは気づかせず、すっと人の心に入り込んで余韻を残していく。
 彼女の歌詞はそんな印象を俺に与えた。
 同時に、俺は頬を殴られたような衝撃を受けていた。
 まだ荒削りな歌詞は、それを上回るセンスとパワーがある。
 俺にはない。
 少なくとも、今の俺には。
「すごい……」
 ふと、彼女がつぶやく。
「え?」
 なんのことか分からず顔をあげると、彼女は目を輝かせ俺を見ていた。
「何?」
「今の、歌詞にぴったりの曲でした」
「曲……?」
「今、歌ってみえたんですけど、気づいてなかったんですか?」
「俺が?」
 どうやら俺は無意識のうちに、即興でメロディをつけていたらしい。
(ここのところ、メロディだって思い浮かばなかったのに)
「そっか……」
 俺は微笑むと、再びノートに視線を落とした。
(今なら書けるかもしれない)
 無理矢理絞り出すことのないメロディを。
 古びて薄暗いバーは、いつもより明るく感じ、ウィスキーも俺を心地良く酔わせていく。
 忘れかけていた感覚が少しずつ蘇り始め、元に戻っていくのではないかという期待が膨らむ。
 そのうちに俺は飲むことすら忘れ、ウィスキーの氷は音も立てず静かに溶けていった。



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