区切り

京都生活最後の日、あいもかわらず仲良しな友人宅でウイイレをして過ごした。これまでの生活を振り返り感傷に浸るわけでもなく、最近身に降り注いだ色んなことを話しながら笑って過ごした。

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四季があるお陰で、「感情」と「普遍的な時間経過」を結び付けてしまう行為は今に始まった事ではなく、数百年前や数千年前に京都に住んでいた人もきっと同じことをしては「いと尊き」と言い合いにやけてただろう。

移ろい行く中で沸々と芽生える感情は、すぐに消えて弾けてしまう。人間は忘れる生き物だから。しかし時たま、芽生えた感情が消えることなく、心の中にオブジェとして、遺物として、思い出として残ることがある。そんな大切な一つ一つを掘り起こす際に季節はとても有難いきっかけになる。

「ヒノキ花粉が今日はすごいな」

何人もの人間が言った普通の言葉でも、「そういえばあいつも、あの時に言ったなぁ。あいつ元気かな。」と思い出してしまうかもしれない。

季節なんてそんなものだ。

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京都生活最後といえど、金輪際来なくなるというわけではない。けれども「僕が20代の学生時期に営んだ日々」は今日で一旦終わる。そうやって色んなタイミングで人生を区切っては人は何度も「最後」を迎える。

生きていると直面する色んな出来事に心踊らせ、涙を流し、我を忘れ怒り狂うような出来事は時間・場所・人が生み出し錬成した物だ。これらは日々僕らの目の前に突如現れる。

その一種の人工物は何十年と必死に生き残ったそれらの要素がぶつかって出来た結晶体かもしれない。そんなことを考えると、各々が育んだエッセンスに費やした時間というものが愛おしくなる。

九州から関西へやって来て6年間が経った。6年という時間が今では愛おしく感じてしまう。

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「人は最後を沢山迎えるほど、人間味が増すよ」

そんなことを言われたことを今思い出した。その言葉を言われたのも、こんな花粉のキツイ春の日だったかもしれない。今日の一瞬もいつの日かの春の日に思い出すことを願って。

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