第一章 - こぐま座アルファ星

 部活動を始めるのは早くても朝七時半から、というのが高等部全体の決まりごとで、弓道部もそれに従って朝練の開始時刻はその時間だった。そもそも大会前以外は強制ではないその練習に、潮は中等部の頃からわりあい毎日律儀に参加している。週に一度くらいは寝坊して、七時半には間に合わなかったり、今日はもういいかと思って二度寝を決め込んでしまったりすることもあるものの、それを加味しても参加率は高いほうだ。
 冬が顔を覗かせてきたこの季節は、早朝ともなるとさすがに肌寒い。ブレザーの下には昨日から厚手のパーカーを羽織ることにしていた。最寄り駅から延びる学校までの道に沿って植えられた銀杏は、もう一枚残らず黄色に色づいている。吐いた息はわずかに白く曇り、潮は身震いをして両手をスラックスのズボンに突っ込んだ。
 いつもより三十分早く家を出たのには深い意味はなく、ただ、毎朝だれよりも早く来て道場とそれに併設された部室の鍵を開けているこの部の主将が、どれくらいの時間に登校しているのかを知りたいという好奇心だけはあった。五分や十分早く来たところで彼はいつももう部室の中にいて、練習着に着替えたうえで教科書や参考書を開いている。そうして、ドアが開いて自分以外のだれかが中に入ってくると、ノートを閉じてペンを置き、小さく首を傾げてから微笑んで「おはよう」と眼を細めるのだ。
 七時五分前に道場に着いたとき、そのひとの姿はドアの前にあった。潮の足音を耳にしてか、部室のドアノブに手をかける前にふり向いた彼は、いっときふいをつかれたような顔を見せたけれど、すぐにいつものように「おはよう、潮。早いね」と言って首を傾げた。この先輩より早く部室に着いたことがいままで一度もなかった。中学一年で弓道部に入ってから、高校一年のいまに至るまで、ずっと。
「おはようございます。優都先輩、いつもこの時間なんですか?」
「うん、大体は。僕、朝起きるの得意だし」
「知ってましたけど、すげえっすね」
 ドアを開けて足を踏み入れた部室は、外とほとんど気温は変わらず冷え込んでいた。靴下越しの床が冷たい。脱いだ靴を足で端に追いやった潮の横で、優都は一度かがんで靴を揃え、照明のスイッチを押し上げた。あまり広くはない部屋の壁沿いには人数分よりいくつか多いロッカーが据えられていて、中央には長椅子が置かれ、奥に小ぶりで足の低いテーブルが押しやられている。優都は自分のロッカーを開けながら、「どうして今日はこんなに早かったの」と潮に聞いた。
「や、単に早く起きただけなんすけど。優都先輩ってほんといつ来ても先にいますよね」
「鍵持ってるの僕だしね。朝早いほうが、電車も混まなくて楽だろ」
「まじ尊敬しかないっすわ……俺、先輩より全然家近いけど、この時間に毎日来んの絶対無理ですもん」
 優都の家からこの学校まではおおよそ一時間のはずで、七時に部室に着くために起きるべき時間を逆算すると恐ろしくなる。寒がるそぶりも見せないままシャツを脱いで練習着を手に取りながら、「ごはん作ってもらうのが申し訳なくはなるけどね」と苦笑した彼は、その生活をあまり苦に思っている様子もなかった。
 空いた壁には賞状がいくつか飾られていて、その半分以上にあるのが優都の名前だった。つい数年前まで廃部寸前だった弓道部をほとんどひとりで立て直したこの主将は、部内のだれよりも努力家で、結果を出すために献身を惜しまない。潮が優都の小柄な背中を追いかけているのも、もう今年で四年目だった。
「あ、そうだ先輩、物理の課題やっててわかんないとこあるんすけど、聞いていいですか」
「うん、僕でよければ。着替えたら持っておいで」
 寒さと朝の気怠さに自然と行動が遅くなる潮を尻目に、優都はてきぱきと着替えを済ませ、制服をきちんと畳んでロッカーにしまい、用具の準備まで一通り終わらせてから部屋の奥のテーブルに移動していた。潮がウィンドブレーカーに袖を通しながら問うた言葉に即答して、優都は数学の問題集に向き直る。ようやく着替えを終えて、プリントと教科書を持って潮が優都の隣に腰を下ろしたときには、優都のノートには潮には意味のわからない数式がいくつか並べられていた。驕ることもなく当たり前のように人一倍の努力を重ねている先輩のことを、潮は出会ったときからずっと手放しで尊敬し続けている。
「まじで、優都先輩への頭の上がらなさ尋常じゃねえっすわ。ほんとすごいっすよね」
「いきなりどうしたの。朝からテンション高いな、おまえ」
 呆れたような笑みを浮かべた優都は、自分のノートを閉じて潮の開いたプリントに眼を通した。優都の声はさほど大きくはないが、まっすぐでよく通る。芯のしっかりしたその声で語られる言葉に耳を傾けながら、冷たい床に座り込んで数式を追いかける朝は、静謐でありながらはっきりと潮の眼を覚ましていった。

**

 彼の引く弓に惚れ込んだ日のことを、いまでもよく覚えている。坂川潮が森田優都に出会ったのは、中学の入学式の三日後だった。
 吹奏楽部のディズニー・メドレーに背を向けてあてもなく歩く校内は、ひとりでいるにはあまりに広かった。昨日までは一緒に仮入部を回っていた友人たちは概ねめぼしい部活を決めてしまったようで、いまだなににも心惹かれることなく放課後を持て余している潮は、入学三日目にして完全にその流れからは置いて行かれてしまっていた。エスカレーター式の翠ヶ崎(みどりがさき)大学附属中学では、初等部からの持ち上がりの生徒もそれなりの数いるなか、中等部から入学してきた潮の中学生活は知り合いがひとりもいないところから始まっている。ここ数日、クラスメイトとはそれなりに仲良くやれているつもりではあったが、この状況は早速友だちがいないみたいだと自嘲しながら人気のない体育館横を歩いていると、同じ色のネクタイをした、見覚えのある顔の男子生徒とばったり出くわした。お互いに眼が合って、「同じクラスだったよな?」と笑顔を浮かべて声をかけると、相手は一瞬きょとんとしたように眼を丸くして、潮につられたように笑った。ひどく色素の薄い瞳をしていて、どこか臆病そうな雰囲気を備えていた彼は、その見た目に反して明るい声で「そうだよ」と言った。
「潮、だっけ? 中学からだよな、たしか」
「うん、そう。えっと——悪い、名前なんだっけ」
「京(けい)って呼んで。中学からだと、まわり知らねえやつばっかで大変そう」
 そう言って人懐こそうに潮の隣に並んだ京は、話しぶり的に初等部からの持ち上がりなのだろう。「ひと多いし、学校広いし、まじしんどい」と大げさに肩を竦めてみせると、京は「おまえ、友だち作んの一瞬だったじゃん。テンション高いから目立つし」と笑って返した。
「なんでひとりなの? 中山たちと仲良さそうだったから、同じ部活行くのかと思ってたけど」
「いやあ、あいつらばりばり運動部って感じじゃん? 俺運動神経微妙だし、それは絶対ついてけねえなって思って」
「ふうん。ちょっと意外。なんか行きたいとこあんの?」
「んにゃ、全然。あんま興味あるもんなくてさ。みんな結構最初っから決めてっから、置いてけぼり食らっちまったわ」
 クラスメイトの前ではおどけてみせつつも、内心焦りを感じていないわけではなかった。所属する場所が不安定だという感覚はあまり好きにはなれない。適当にふざけながら周りとテンションを合わせて場を盛り上げるのは得意ではあったけれど、その人間関係に限界があることくらいは、中学に入ったばかりの歳でもすでに察していた。潮のことをまっすぐ見てくる京の眼はやはり茶色とも金色とも深い緑ともつかない、そのどれもが混ざり合ったような不思議な色をしていて、その視線にそこはかとない居心地の悪さを感じながら「ハーフかなんか?」と問えば、「よく言われるけど、全然日本人」という答えが返ってきた。
「けーくん? は、どっかこれから行く予定あんの?」
「や、俺も全然部活考えてなくって。ふらふらしてただけ。おんなじ感じのやついてちょっとほっとした」
 そう言った京は鞄から部活紹介のプリントを取り出して、「どっか一緒に見に行こう」と潮を誘った。礼を言いながら潮もその提案に乗り、二人でプリントに載った部活を吟味しつつ、ばりばりの運動部と潮が避けている音楽系の部活、それからお互いに苦手意識の強い美術系の部活を除いていった結果、いまいる場所からそう遠くないところで活動しているらしい、弓道部というほとんどまわりから名前を聞かない地味な部に白羽の矢が立った。副キャプテンの欄に書かれていた名前が、京が小学校時代所属していたミニバスのチームの先輩だったということもあり、とりあえず行くだけ行ってみるかと、校内地図を頼りに弓道場という建物に向かって歩くことに決めた。その道中、京にもうバスケはいいのかと問えば、「初日にバスケ部行ったけど、無理だなって思ってやめた」とあっけらかんと答えられた。

 十分ほど二人で校内をさ迷ったのちに辿りついた弓道場は、建物としてはいままで見たこともないような不思議な外観をしていた。フェンスに囲まれた広い芝生の一方の端には的が並んでいて、他方の端には半分が屋内で半分が屋外のような空間が開けている。この時期はどの部活も新入生を獲得するのに躍起でにぎわっているというのに、場所を間違えたかと思うほどにこの建物の周りは静かだった。フェンス越しに道場のほうを覗くと、その場所に人影があるのは見えた。フェンスに張り付く姿が見えたのか、そのひとのほうも二人の姿に気付いたようで、しばらくもしないうちに袴姿の少年がひとり外に顔を見せた。
「新入生?」
 白い着物と黒色の袴を着こなしていた彼は、潮や京よりもすこし背が低く、新入生でも通るような幼さの残る容姿をしていたが、その反面、声や仕草は上級生だとすぐにわかるくらいに落ち着いていた。答えのわかり切ったその問いに潮たちが軽くうなずくと、彼はうれしそうに表情を緩め、二人を道場の中へと通した。
 道場の中は直接外と繋がっている開放感がある一方で、グラウンドや体育館の喧騒とは一線を画した静寂が隙間なく張りつめているような感覚もあった。フローリング張りの床の冷たさに、足の裏から体温が奪われる。体験入部の期間だというのに、新入生はおろか上級生の姿すら見受けられない空間の静けさに、やり場を失った視線があちこちを泳ぐ。袴姿の先輩は、潮と京のその様子を見て口元にわずかに苦笑を浮かべ、二人に腰を下ろすように促した。
「見ての通り、ひとの少ない部活なんだ。僕は、この部の主将を務めている、二年の森田優都といいます。大した歓迎もできなくてごめんな、だけど来てくれてほんとうにうれしいよ」
 小柄な印象だった彼が、自分よりも大きく見えて潮は一瞬瞬きをした。美しい姿勢で座るひとだった。自分のことを大きく見せようとするわけでもなく、緊張で力んでいるわけでもなく、ただそうしていることが当たり前だという雰囲気で隙なく背筋を伸ばすその姿に、自然と潮も姿勢を整えていた。彼はそのまま、この部にはいま三年生がいないことと、二年生も彼ともうひとりしかいないこと、そのもうひとりは生徒会の仕事があって遅れてくること、などを潮たちに話した。それが京の知っている初等部時代の先輩らしい、という話を京がしているあいだ、やはり優都は背を丸めることはないままに、真剣な表情で京の言葉を聞いていた。
 優都が自己紹介や、簡単な部の説明を終えた頃に、制服姿の背の高い男子が道場に入ってきた。「あ、千尋。お疲れ」と声をかけた優都に「遅れて悪い」と声をかけ、潮と京に視線をやった彼は、「新入生来てたのか」と言ったあとに京で目を止めて、「あれ」と声を上げた。
「矢崎先輩、お久しぶりです。覚えてますか?」
「おう。京だろ、久しぶりだな。バスケ辞めたの?」
 優都が千尋、と呼んだ彼は、京の隣までやってきて京と初等部時代の話を交わし始めた。まったくわからない話題が広がり始めたのを横目で見ている潮に、優都は「中等部から入学してきたんだっけ?」と声をかけた。
「はい。ぎりぎり滑り込めました」
「お疲れさま。僕も中等部からだったんだけど、最初に知り合いが少ないとなかなか疲れるだろ」
「少ないどころか、俺、知り合いゼロなんです。新しい友だち作んのは楽しいですけど、覚えることとかやること多いっすね」
「うん、僕もそうだったからよくわかるよ」
 たわいもない話をしていてすら姿勢のいい優都は、潮が一言喋るごとにしっかりと潮に眼を合わせてきたけれど、彼がすこし首を傾げて浮かべる微笑みはその視線をあまり重圧とは感じさせなかった。潮が慣れない正座をしているのに気付いてか、足を崩すように促したあと、優都は「弓道部にはどうして来てくれたの?」と潮に問うた。
「えっと、……なんとなく、って感じで。あんまり、これがやりたいっていうものもないし、がっつり運動するのも好きじゃないし、これといって、得意なもんがあるわけでもないし、とりあえずなんか見てみようかなって思って。すみません、こんな理由で」
「いや、聞いておいてなんだけど、理由なんてなんだって気にしないよ。たまたま来てくれたのだって、立派な縁だしな」
 優都がそう言い切ったところで、京と千尋の会話もひと段落ついたらしく、潮と京、優都と千尋はそれぞれ眼を合わせた。
 千尋が「優都」と名前を呼んで、「弓引いて見せれば?」と提案をした。弓道という競技を、名前こそ知らないわけではなかったが、テレビですら実際の動きを見たことはなかった。京もそれは同じなようで、二人して興味津々に「見せてください」と言えば、優都は頷いて立ち上がり、立てかけてあった弓を手に取った。離れたところから見ると大きさがよくわからなかったけれど、その弓は優都の背丈よりもはるかに大きい。「触ってみる?」と言われて恐る恐る触れてみても、木の手触りがする、という感想以上のものが思い浮かばないほど、いままでの人生で出会ったことのない不思議な存在だった。
 優都が的前に立った瞬間は、きっと一生忘れることができない。それは、記憶でも思い出でもないものとして、いつでも眼前に呼び起こすことのできる光景だ。あまり背の高くない彼は、それに似つかわしくない大ぶりの弓を持って、遠くにあるように見えた的の前でほんの一瞬だけ眼を伏せたあと、顔を上げて的を見据えた。左手で弓に矢を番え、右腕が目いっぱい弓を引き絞るまではあまりに流れるように進んでいて、気付けば彼は的よりももっとずっと向こう側のどこかを見ているようだった。彼がいっとき呼吸を止めた瞬間、あらゆる音が世界から消え失せた。なにもかもが、あるべき場所に整然と存在する、そういう実感が背筋を駆け上り、自分をつくる粒子のひとつひとつが正しく並び替えられていくかのようなざわめきに、自然と潮の姿勢も正された。ただまっすぐに的を見据える意志のこもった瞳は、あどけなさすら残る彼の横顔にはそぐわない。けれど、それは正しくそこにあった。音もないのに内側に入り込んでくるものは、数えるならばまごうことなくたったひとつだった。心臓がそれを飲み込んで、どくり、と一度拍動する。
 優都が矢から指を離したとき、潮は矢の行き先には目もやらず、息を吐き出して目を細めた彼の姿に視線を奪われていた。矢が、的に中ったかどうかなどということはどうでもよかったし、そもそも中らないということを想定すらできなかった。
 的に矢が吸い込まれ、薄い膜を突き破る音がする。それを耳が拾ったとき、ここまでの一連の動きの中には、ひとつとしてそれを邪魔する雑音が含まれていなかったことに気が付いた。
「——すっげえ」
 言葉を探すことすらままならず、喉の奥から絞り出されたのは陳腐な感嘆だけだった。それを聞きとめてか、優都は照れたように笑みを浮かべて、「中(あた)ってよかった」と言った。隣では京が頷きながら何度も手を叩いていた。
「うまいとかへたとかわかんねえっすけど、なんか、——すげえ、いいなって思いました」
「ありがとう。そう言ってもらえるのがなによりだよ」
 試合より緊張した、と言って笑う優都は先ほどよりもいくらか幼い表情をしていて、背の低さも相まって隣にいる千尋と同い年のようには見えなかった。あの小柄な背と細い腕が放った矢は、力強さを感じるというよりも、むしろ正しさを乗せていた。なにも知らない潮ですら、あの射が正しくて、矢が的の中心に中るということを、優都が矢から手を離したときにはもう疑えていなかった。

*

 夕方、帰宅して玄関に足を踏み入れると、リビングから次兄の吹くトランペットの音色が聴こえてきた。その音の主には視線を向けないようにしながらキッチンに向かい、夕飯の仕込みをしている母に「ただいま」と弁当箱を手渡す。そのまま部屋に戻ろうとすると、母は潮の名前を呼んで息子を呼び止めた。
「学校は楽しい?」
 微笑みを張り付けた母の顔にはどこか探るような表情が浮かんでいて、潮は彼女から眼を逸らしたまま、「楽しいよ」と平坦なトーンの声で返した。「そう」と言った母の声にはあからさまな安堵が込められていて、どうにも居心地が悪くなる。自分が嘘をついても彼女がそれに気が付かないことを知っている。この数日、学校が楽しいのは嘘ではないが、それを情感を持って彼女に伝える気もおきなかった。
「お父さんが帰ってきたらごはんにするからね」
「うん、わかった。部屋で宿題やってる」
 軽やかに吹き鳴らされるハイトーンが耳に響く。音楽そのものは決して不快ではない。一音の乱れもない、力強く完成された音だ。けれど、その強さも美しさも、直視することはどうしてもできなかった。兄は、潮が帰ってきたことには気付いていただろうに弟に視線をやることも、音を止めて声をかけることもなかった。潮もそれをわかっていて、主題に向かう旋律には背を向けてまっすぐと階段に足を運ぶ。
 二階の自室に戻ると、防音加工を施されたドアが兄のトランペットの音色をさえぎって、ようやく息をつくことができた。真新しい制服を脱がないままにベッドに仰向けに寝転がる。知り合いがひとりもいない新しい学校なんかより、この家のほうがよほど窮屈だった。携帯電話を開くと、仲良くしているクラスメイトからメールが数通届いていて、そのすべてが微笑ましくもくだらない内容だった。それを潮を相手に選んで送ってきてくれる相手がいるこということに、呼吸がいくぶん楽になる。そのひとつひとつに、やかましい顔文字と絵文字をふんだんに散りばめながら返信を送る。それなりにうまくはやれている、と自分に言い聞かせたところで、ようやく体を起こしてブレザーを脱いだ。去年の春までは、この制服を着ていることなんて考えもしなかった。
 部屋着に着替えてしばらくはまたベッドの上で無為に時間を潰していたが、部屋にたまりこむ静寂に耐えられなくなって、机の上のオーディオに適当なCDを放り込む。最近流行りだというロックバンドは、お世辞にも楽器が上手いとは言い難かったけれど、たしかに若い子どもたちにまっすぐ届く明瞭で装飾のない歌詞を歌っていた。アルバムのリード曲では、キャッチーなメロディが冒頭からすでにもう五回繰り返されている。
 音楽を頭の隅に追いやって眼を閉じると、瞼の裏に浮かんでくる姿があった。彼の姿勢の良さと、柔らかくて真摯な言葉と、あのときなによりも正しいと思った弓から放たれる矢の軌跡が、すこしずつ位相をずらしながら繰り返し像を描く。そこに、人生を変えられてしまうと感じるまでの強烈さがあったわけではない。あのとき、彼の弓を見たあとの潮の心はおどろくほどに凪いでいた。なにもかもを踏みにじるような力強さでも、どんな価値にすら勝る凄絶な美しさでもない、穏やかで静かな、それでいて芯を持った正しさ。それが自分のことを打ちのめさないことを知っていたから、あのときあの場でも、なにひとつ変わることなく呼吸ができた。潮がこれまでの十二年間でいっときたりとも手放すことができなかった音という存在を、彼の弓はひとつとして必要としていなかった。あの瞬間を綺麗だと思うことに、音はいらない。その感覚を知ったのも初めてだった。

*

 四時間目が終わるチャイムが鳴り、日直の号令で立礼をするとともに一気にざわめきだす教室の雰囲気も、ここ数日間でようやくきちんと思い出すことができてきた。教科書を机にしまい、鞄から弁当箱を取り出すよりも先に、斜め後ろから「うっしー」と自分の愛称を呼ぶ声が聞こえて、軽い返事をしながら振り返る。馴染みになりはじめていたメンバーが教室の一角に机を合わせて集まっていて、そこには潮の分の席がすでに用意されていた。
「今度の日曜さ、俺んち来ないかって話してたんだけど。うっしー暇?」
「え、全然余裕で暇。むしろおまえら部活とかねえの、もう決めてたじゃん?」
「休日練は本入部してからだから、今週はなんも予定ねえの」
「あーね、そりゃいまのうちに遊んどかねえとだな。つーかおまえ家どこだっけ、電車で来てんだっけ?」
 淀みなく会話が進んで、あたりまえに話が盛り上がる空間は、なによりも居心地はいいけれど安心しきるにはまだ自信が足りない。グループの中に自分の居場所や立ち位置を見つけることは昔から得意ではあっても、それが些細なことで崩れていくものだということも潮は身に染みて知っていた。必要だと言われたいとまでは望まなくとも、疎まれることだけはどうしても避けてこの場所に居続けたかった。
「あ、てかさ、俺今日当たりそうなとこ全然訳せてねえんだけど。うっしー予習した? ノート見して」
「えっなんで名指し? そんなに俺のことが好きかよ。照れるわ」
「だっておまえ中学受験じゃん、頭いいだろ」
「いやあ、期待してもらっといて悪いんだけど、俺が頭いいように見える? 絶対入試下から数えて何番目とかいうレベルだかんな」
「見えねえけど、多少は期待すんじゃん?」
「即答かよ。頭脳に期待できなくてもうっしーのことは見捨てないでくれよな」
 軽口を叩いているうちに、弁当箱の中身は味もよくわからないうちに空になっていた。なにを食べたのかすらろくに思い出せないままそれを片付けて、またどうでもいい会話をいくらか繰り返す。「トイレ行ってくるわ」と潮が席を離れたときには、もう五時間目の授業が始まる十分前になっていた。

「うーやんさあ、結局部活どうするつもりなの?」
 六時間目の理科の授業が終わったあと、鞄を担いで潮の席までやってきた京は開口一番そう問うた。あれから京とは何度か一緒に弓道部の活動に足を運んだけれど、潮はいまだに入部の決断を先送りにしていて、気付けば仮入部の期間はあと二日というところまで迫ってきていた。木曜日の今日は弓道部はオフで、活動はない。「悩んでる」と潮が返すと、京は「そっか」と言いながら、空いていた潮の隣の席に腰を下ろした。
「弓道部気に入ってたっぽく見えたけど。他のと迷ってんの?」
「や、そういうわけじゃないんだけど」
 潮が他の部活をほとんど覗いていないことは京も知っていただろうが、その曖昧な返事に、彼がそれ以上突っ込んでくることもなかった。「ふうん」とだけ言ってそれを流した京は、相手が口にした以上のことを深く問い詰めることをあまりしない。
「けーくんは? 弓道部どうすんの?」
「入ってもいいなって思うんだけど、うーやんが入んなくて俺ひとりとかになんのはやだなって」
 至極まっとうな返事に相槌をうつと、「俺ら以外来てんの見たことないしなあ」と京が呟いた。現在の部員は二人で、三年生はいない。女子部も合わせて数十人の部員を抱える強豪だった時期もあったという話は聞いたが、それももう何年も昔のことで、女子部はだいぶ昔に廃部となり、男子部もいまとなっては中等部がぎりぎり保たれているだけで高等部の方は部員がいなくなって休部状態だということも、いまの主将の優都は隠さずに教えてくれた。そんな瀕死の、しかもさほどメジャーでもない競技の部活をわざわざ選ぶ人間がそうそういないであろうことも想像に難くない。けれど、そのこと自体は潮にとっては大きな問題には思えていなかったし、京のほうも、「めんどくせえ先輩とかいなそうで逆にいいかも」と好意的に捉えてはいるようだった。
「明日には決めるから、もうちょっと悩んでいい? なんかごめんな」
「いいよ、別に。俺帰宅部でもいいし。明日また一緒に行こ」
「ん、ありがと。助かる」
 京は、だれにでも気さくで人当たりがいいわりに、いつも他人とのあいだに一定の間隔を持っていて、むやみにひとに踏み込んでいくことをしない。まだ数日の付き合いではあったものの、息苦しさを感じさせない京との会話は心地よかった。へらへら笑って場を盛り上げるのも、にぎやかな輪の中心にいることも、得意だし好きではある。それでも、学校という場所はそもそもが音に溢れすぎている。
 今日はこれから初等部からの友人の家に遊びに行くらしい京のことを見送って、教室にひとり取り残されると、開きっぱなしの窓から吹奏楽部の合奏が聴こえてくる。メロディを吹き鳴らすトランペットはあまり上手くもなくて、一番の盛り上がりどころで音を大きく外した。家に帰りたくはなくても、ひとりでこの場所に居続ける気にもなれず、窓も閉めないままただあてもなく鞄を持って教室を後にした。

 そのままふらふらと弓道場のほうへ向かったのには明確な理由はなかったけれど、期待だけはすこししていた。校舎を出て体育館の横を通っていくあいだ、運動部の掛け声がいくつも混ざり合って、大きなうねりのようになって鼓膜を揺さぶってくる。あまり気分はよくなかった。静かな場所に行きたい、という思いが潮の足取りを速めていた。決して密室でもない、むしろ外に開かれた建物であるはずのあの場所は、この数日間で潮にとってどこよりも静かな場所だった。
 道場の前に辿りつくと、そのひとはちょうどドアに手をかけているところで、潮の気配に気が付いたのかこちらを振り向いた。「あれ」と声をあげた彼は、一瞬目を丸くはしたものの、すぐにいつものように微笑んで、「どうしたの」と潮に問うた。
「もしかして、僕、今日オフだって言い忘れてたっけ」
「あ、いや、聞いてたんですけど——先輩、いるかなって思って。邪魔だったら帰ります、ごめんなさい」
「ううん、構わないよ。どうかした? 相談なら聞こうか」
「ええと、相談っていうか……」
 なにから話し出すかを悩む潮を優都は部室の中に押し込んで、部屋の真ん中に据えられた長椅子に座らせ、自分もその隣に腰かけた。優都は、改めて隣に並んでみると、弓を引いていたときのあの存在感とのあいだに違和を覚えてしまうほど小柄で線が細い。いつでも背筋を伸ばしたままはっきりとした言葉を選ぶ彼は、会話をしているとそれだけでいくらか大きく見えてしまう。
「先輩、オフの日なのに練習してるんですか?」
「うん、いつもってわけではないけど、できるときはするようにしてる」
「すごいっすね……大変じゃないんです?」
「やりたくて勝手にやってるだけだから、大丈夫。僕、弓を引くの好きだし」
 あっけらかんと言ってのけた優都に、「練習邪魔してすみません」と潮が頭を下げると、優都は眼を細めて「全然」と首を横に振った。
「弓道、興味持ってくれた?」
「先輩の、弓道がきれいだなって思ったのはほんとなんですけど、自分がやるとなると……って、ちょっと悩んでて。矢崎先輩から、森田先輩は都内でもかなりうまい選手だって聞いたし、めっちゃ本気でやってるんだろうなってのも、思いますし」
「本気でやれる自信がなくて迷ってるってこと?」
「そう、っすね。それが嫌とかじゃなくて、なんていうか、入ったらちゃんと真面目にやろうってのは思うし、やりたいとも思うんですけど、……なにかに本気になるのって、簡単なことじゃないって、思うから」
 この場所に来るまでうまく消化しきれていなかった思いは、優都の横に座った途端、不格好とはいえ思ったよりもすぐに言葉になった。優都は潮の語ったことを聞き、「そうか……」とすこし考え込むように宙を眺めてしばらく黙り込んだ。クラスにいるときとは違って、優都が言葉を探しているあいだの沈黙には気まずさを感じなかった。あちこちに溢れる音から逃げるようにここにやってきた潮にとって、その静寂はむしろ快かった。
「別に本気になれなくたっていいよとは、僕は言えないけど、なにかに本気になるっていうのは、そんなに劇的だったり、なにか——息苦しいようなものでも、ないんじゃないかとも思うな」
 ゆっくりと表現を選んで発された優都の声は、ひどく柔らかい音で潮の鼓膜に届いた。そんなに、という言葉が指すものに、自分の内側を覗きこまれたような心持がしてわずかに肌が熱くなる。
「人生を全部賭けるとか、それを生活の最優先にするとか、そういうのだけが本気になるってことじゃないし、少なくとも、ここに来て弓を握るときだけは、そのことに対して一途であってくれればそれでいいと僕は思ってる」
 ドアの隙間から入り込んでくる風の音も人の声も物音も、優都の言葉の邪魔をすることはなかった。世界が変わったような衝撃があったわけではないし、強い驚きや感動を覚えたわけでもない。完全に納得ができるわけでもない。けれど、彼が発した柔らかな言葉に包まれた、たおやかで強い意志はなにに遮られることもなく潮の心臓の中心に届いていた。彼の言葉と、この空間そのものが、優都の引いたあの弓と同じ音をしていた。
「僕から求めるものはそれだけだし、あとは、他にどんな理由があってもなくても関係なく、僕はおまえを歓迎するよ。——潮」
 おまえ、という二人称がどこか特別なもののように響いた。いまどきの男子には珍しく、だれに対しても僕という一人称を使う優都は、その印象に違わず強い言葉も口調もほとんど使わないが、その呼び方だけが不自然なまでに力を持っていた。それでも、優都にそう呼ばれることは、威圧的でも支配的でもなく、むしろどこか寄り添うような体温さえもあり、おどろくほどすとんと潮の胸に落ちてきた。
 なにひとつうまく言えないままわずかに俯いて座っていた潮に、優都は言葉を急かすことはしなかった。会話を繋げられなくても、笑いを絶やさないでいる努力ができなくても、このひとなら許してくれるという安心感が、ここ数日間絶えず聴こえ続けていた雑音を緩やかに消し去っていく。「森田先輩」とようやく名前を呼ぶと、彼は穏やかに「優都でいいよ」と返した。
「優都先輩の弓を、もう一回、見せてほしいです」
 それ以外にいまここでいうべき言葉が見つからなかった。優都は顔を上げた潮にしっかりと視線を合わせたまま、「もちろん」と眼を細め、すこし首を傾げて微笑んだ。

*

 結局、弓道部に入部したのは予想通り潮と京の二人だけだったけれど、仮入部の最終日に、入部を決めたと二人で伝えたとき、優都と千尋が顔を見合わせて安心したように息を吐いた姿は印象に残っている。優都は最後まで自分からは言わなかったものの、あとから千尋に聞いた話によると、この学校で部活動を成立させるためには、年度初めに最低三人の構成人員が必要だったということで、「おまえらが入ってなかったら潰れるとこだった」と千尋は肩を竦めていた。
「去年卒業した先輩と、優都は結構いい成績残してるし、潰すのは惜しいと思ってたんだけど。やっぱり、ちゃんとやりたいと思って入ってほしいから、言いたくないって言われてさ」
 バカ真面目なんだよ、と優都を評した千尋の横でその会話を聞いていた優都は、小さく眉をひそめて「うるさいな」と返した。優都は入部前の印象とまったく違わず、なににも手を抜かずに努力を積み重ね、結果を求めることに妥協しない男であったけれど、もう片方の先輩である千尋はむしろそれとは対称に、どんなことに対しても要領よく対応して、ずば抜けているとまでは言えないまでも一定の成果を挙げることを得意としていた。一見嚙み合わなそうな性格の二人が互いをかなり信頼し合っていることも最初はすこし意外だった。
 あまりにこぢんまりとしたたった四人の部活は、決まった指導者もいなければ顧問の先生も名ばかりでほぼ活動に関与することはなく、ときおり附属の大学の先輩が指導に来てくれることがある以外では、潮たちに弓道に関してのあらゆることを教え、的前に立って弓を引けるようにすることは主将の優都の仕事だった。潮たちが入部した直後にあったらしい都の個人選手権で、二年生にして三位に入賞して賞状を持って帰ってきた優都は、後輩の指導のために自分の練習時間が削れていた最初の数か月には、朝も昼休みも、オフの日も弓道場に足を運んで練習していたという。彼はいつだって、「弓を引くの好きだから」の一言で、決して楽ではない努力を片付けてしまっていた。
 入部してから二か月ほどが経ち、的前に立って実際に弓を引くことを許してもらったあたりから、潮は優都がやっている朝の自主練に頻繁に付き合わせてもらうようになっていた。家で寝ているよりはすこしでも長く優都の引く弓を見ていたいと思っていたのもあったけれど、できる限り早くこのひとの役に立てる実力がほしいというのも大きな理由だった。優都はいつでも潮より先に部室に足を踏み入れていて、潮のことを「おはよう」と迎え入れた。教室の中で友人と過ごす昼休みや、カラオケやゲームセンターで騒ぐ部活のない放課後よりも、一時間目の授業が始まる前の、その静かな朝の一時間が好きだった。優都は普段はさほど口数が多くはなく、潮と二人でいても会話のない時間はそれなりにあったが、優都といるときに限っては、途切れた会話をどうにか繋ぎ直そうと必死になることもなかった。
「うーやんって意外と真面目だよな」とは京の言だった。
 優都や潮に比べると来る頻度は劣るものの朝練に参加していたとき、京は練習が終わって着替えている潮の横でしみじみとそう呟いた。
「毎朝これに間に合うように起きて練習してんの普通にすげえと思うんだけど」
「や、俺ちょいちょい寝坊してんぜ。毎日七時に部室開けてる優都先輩がすごい」
「いやまあ優都先輩は次元が違うけど。俺、うーやんの第一印象、適当でへらへらしてるやつって感じだったから、ちょっと意外な感じはする」
「まあな、やるときはやる男だっていうギャップは魅力だろ」
 京の言葉に適当な軽口を叩いて返した潮に、京は「そういうとこだろ」と茶化してみせたあと、それ以上なにかを問うことはなかった。

 七月に入って、潮も京も的前でそこそこ様になる弓が引けるようになってきたころ、夏休みに入ってすぐの全国中学総体(全中)都予選の団体戦に、潮は優都と千尋とともに出場していた。試合は夏休み明けからと当初優都は予定していたらしいが、三人で一チームが作れる団体戦にせっかくなら潮を出してみようかと考え直したのだそうだ。それを潮に伝えたとき、「おまえは朝練にも毎日来てるし、上達も早いから」と言った優都の言葉に、二つ返事で「出ます」と潮が答えると、優都は「言うと思った」と微笑んだ。
 直前の練習までは調子は悪くなく、潮自身、人前に立つことにはあまり緊張しない性格だったのもあり、初めての試合には特に必要以上に気を張ることもなく臨んだものの、その試合で、潮は理由もよくわからないままにまったく矢を的に中てることができなかった。緊張をしている自覚もまるでなかったのに、的前に立った途端頭が真っ白になり、どうにか教わったとおりの動きで矢を放つことはできても、まったく見当違いの方向に飛んだり、的まで届かなかったりと散々な結果で、自分に与えられた四本のうち一本たりとも的に掠りすらしなかった。
 結局予選を勝ち上がることはできずに終わってしまった試合のあと、優都や京がかけてくる言葉はなにひとつうまく聞こえなくて、両耳に冷たい水が入り込んだようにあらゆる音が浮ついて響いてくる。期待にまったく応えることができなかったという恐怖が背筋をゆるゆると上り詰めて来て、しばらくタオルに顔を埋めてうずくまったまま動くことができなかった。京が背をさすって声をかけてくれているのがなんとか聞こえてはきたけれど、耳が拾う音は完全に遠近感を失ってしまっていて、遠くの音と近くの音がかき混ぜられて揺れる。その感覚に背筋を震わせたあと、うまく呼吸をすることすらできなくなってしまった。心配そうに自分に向けられる声も視線も振り切って、駆け込んだトイレの一番奥の個室の床にへたり込むと、ふいにこみ上げてきた吐き気に身を任せるまま、胃の中身をひっくり返した。
 吐くものもなくなるまで嘔吐を繰り返して、ようやくある程度視界ははっきりとしてきたけれど、相変わらず聴こえる音は歪んでいたし、自分の浅い呼吸が耳障りだった。立ち上がろうとする気力すらわかずに壁に背中を預けて座り込む。新品の袴が汚れてしまうことには、考えが至らなかったわけではなかったが、どうにかしようと思う余裕もなかった。狭い空間に響くノックの音を三回聞き流した後に、自分のいる個室のドアが叩かれているのだということに気が付いた。
「潮?」
 どんな音も歪んでいて曖昧だったというのに、その声だけははっきりと耳に届いた。「ドア、開けてくれないかな」と続いた言葉に、ほとんど無意識に手を錠に伸ばしていた。冷えた指先は、金属の冷たさすらほとんど感じなかった。ゆっくりとドアを開いた優都は、なにも言わずに潮の隣に屈みこんだ。
「——優都先輩」
 掠れ切った声で名前を呼ぶと、優都は潮にまっすぐ視線を合わせたまま「うん」と返事をした。うまく整わない呼吸のあいだに必死に探した言葉は、どうにもまともな形をもちそうにはなかった。
「ごめんなさい、先輩。——迷惑かけて、足引っ張って」
「そんなこと気にしてたの? おまえはまだ一年だし、試合慣れもしてないし、うまくいかなくたって当然だよ。おまえがいてくれたおかげで、僕たちメンバーを揃えて団体に出られたんだから、それだけでも感謝してる」
 優都の声は優しかったけれど、顔をあげたままでいることがどうしてもできなかった。息苦しさにすこし咳き込むと迷わず背中をさすってくれた手は、あまり大きくはなくとも体温が高くて温かい。それに素直に縋ることができないくらい潮の身体は冷え切っていた。喘ぐように息をしながら、こみ上げてくる吐き気にまたえずく。ほとんど液体しか出てこなかったものの、喉が痛んだ。
「……ごめんなさい」
 試合で足を引っ張ってしまったことも、いまこの場でまさに面倒をかけていることも、優しいこのひとをきっと本気で心配させてしまっていることも、潮にとってはなにもかもが苦しかった。堂々巡りで吐き気も過呼吸もおさまらず動けずにいる潮の背を、優都の手はずっとさすり続けていた。途中、千尋に「京を連れて先に帰ってて」と連絡しているのが聞こえたとき、申し訳なさで死んでしまいたくてきつく眼をつぶった。
 ようやくいくらか落ち着いたときには、疲労と酸欠で割れるように頭が痛かった。優都に引きずられるようにしてトイレを出て、近くのベンチに腰掛けた潮に、優都は自販機で水を買って手渡した。冷たい水が胃に落ちて、すこしだけ気分がすっきりする。「体調が悪かったの?」と隣に座った優都に問われ、潮は首を横に振った。
「そうか。——なにか、僕が聞けることはあるかな」
 タオルを差し出してくる優都の声はやはりひどく優しくて、また言葉を見失う。潮がどれだけ散々でも、隣でいつものように弓を引き、的に矢を送っていた先輩の姿を思い出す。歳はひとつしか違わないのに、優都のように強くはなれないと思った。それだけのものが、この小柄な体の内側に詰まっているように感じられてならなかった。
「怖く、なっちゃって」
 ようやく潮が絞り出した言葉を、優都は聞き返しもせずに拾い、「なにが?」と柔らかい声が続きを促した。そこに急かすような響きがひとつもなかったことに、息を吸うのがわずかに楽になる。
「本気で、なにかをすることが。——一回、失敗してるから。だめなんじゃねえのかな、って、思って」
 脈絡がないのはわかっていたけれど、きちんと話をまとめることもできそうになかった。強く握ったペットボトルが、軽い音を立ててひしゃげた。
「失敗?」
「ほんとに、しょーもない話なんですけど、……いいですか」
「もちろん」
 目の前のこのひとが、こうして即答してくれるというだけで、まだなにを話したわけでもないのにどことなく救われたような気分になってしまう。試合が終わってからしばらく経った会場はもう片付けもほとんど終わり、人気が少なくなっていた。音が減ったことにわかりやすく安心する。
「先輩、音楽好きですか。クラシックとか」
「うん。詳しくはないけど、有名どころならすこし聴くかな」
「……うち、親父が音楽家で、兄貴二人も音大行ってるんです。クラシック聴くひとなら、名前聞いたことあるかも」
 俺と同じ苗字の音楽家知りませんか、との潮の問いに、優都は一瞬考え込むようなしぐさを見せたあと、数秒もしないうちに潮の長兄の名前を答えた。「たしか、クラリネットの奏者だったと思ったけど」と添えた言葉を肯定して、「上の兄貴です」と返すと、優都は「そうだったのか」と目を丸くした。だれもが知っている、というほどではないものの、つい最近、日本人としては初めての大きな賞を史上最年少で獲ったことでニュースに大きく名前が載ったことがあり、その後も大学に在学しながら数々の最高峰のオーケストラと共演を果たしてきた人物だ。
「俺も、ちっちゃいときから音楽ずっとやらされてて、自分で言うことじゃないですけど、結構できたんです。小学校のときまで、学校行く以外はずっと楽器触る生活してました。小学校も、吹奏楽が初等部から高等部まで全国区のとこ行ってて。サックス吹いてたんですけど、三年生のときから、クラブの中ではずっと俺が一番でした。……いま思うとバカみたいですけど、そのことも当然だと思ってて」
 胸につかえていたものをひとつずつ解きほぐすように語る潮の言葉に、優都はときおり頷いたり相槌をはさんだりしながら耳を傾けていた。言葉に詰まっても、優都が待っていてくれることがわかっていたから潮も自然と焦ることなく言葉を繋げられていて、声にして息を吐くことで呼吸もすこし落ち着いてきていた。
「音楽が、ない生活を知らなかったし、そんな人生を想像したこともなくて、いつかは俺も、親父や兄貴たちみたいに、その道に進むんだって当たり前に思ってたんです。——だけど、俺はそうはなれなくて。自分に、ほんとは、ああいうふうになれる才能なんかないって気付きたくなかっただけで。親父も兄貴も、とっくに気付いてて俺に期待なんかしてなかったのに、そのこと認めたくなくって、毎日ずっと練習して、そこそこでかい賞も獲ったし、俺だってちゃんと才能はあるんだって、思いたくて」
 この数年間ずっと抱えてきたことは、言葉にしてみるとあまりに陳腐な表現にしかならなかった。ずっと頑張ってきたことがあったけれど、才能がないから挫折した。それだけだ。だけどどうしても、その一言だけで片付けてしまうことができなくて、いまでもそのことを引きずっていた。
「小六の四月のコンクールで、俺、曲の冒頭のソロを吹くことになってたんです。だけど、俺たちの前に演奏した学校の、俺と同じサックス吹いてた子のソロが、すごくて。才能ってこういうもので、親父や兄貴にはあるけど俺にはないもので、頑張ったから手に入るとか、そういうもんでもないんだって、それ聞いた瞬間もう認めるしかなくって。親父が俺のこと期待しねえのも仕方ないなって思った途端、いままで一度も失敗したことなかったフレーズ吹き損ねちゃって、あとはもう頭真っ白になって、なにも聴こえなくなって、曲のしょっぱなから音止めちゃって。——それ以来、楽器触(さわ)れてないんです。だけど、音楽なしで生活してくやり方なんて知らなかったし、学校もわりと実力主義のとこあったから、本番でヘマやらかした俺のこともうだれも期待してくれなくなったし、そっから一年学校行けなくなって。だれも俺のこと知らない中学行こうと思って、することねえからひたすら勉強して、なんとか翠ヶ崎受かって、いま、です」
 おまえには期待しない、と言われることを、なによりも恐れてただひたすらに、先が見えないことから眼を逸らして楽器を吹き続けていた幼いころの感覚は、いまになってもまだ潮の中に色濃く残っていた。
「仕方ないのは、わかってるんです。才能がないのは、どうしようもないし、それで結果も出せないんじゃ見限られて当然だし。——でも、才能なんかなくても頑張ろうって、どうしても思えなかったんです。親父や兄貴みたいになれねえなら、もう俺が音楽やってる意味はないなって、思っちゃって」
「——見限られて当然だなんて言わせてしまうことが、仕方ないとは僕には思えないな」
 再び震えだした手を握りしめた潮の横で、優都はそれだけはっきりと口にした。
「おまえに、それ以外の選択肢を与えなかった環境が、勝手におまえを見限って、それを才能というものだけを理由にして、正しいことのように言うのは、理不尽じゃないか」
 優都が呟くように発した言葉の意味がすべてわかったわけではなかったけれど、この思いをいままで打ち明けた相手が判を押したように使う言葉を、優都は言わないであろうということだけはわかった。才能があるとかないとかなんて、この年ではまだわからないだろう、才能なんて言葉で言い訳するな、才能なんてものはなくて、ただ努力の差があっただけなんじゃないか。そういうことをこのひとは言わない、という確信だ。
「先輩は、才能ってあると思いますか」
「思うよ」
 試しに聞いてみたら、潮が想像した以上に優都はその問いに即答した。意外であるような気もしたけれど、本当に優都が才能というものを信じないひとだと思っていたなら、潮がこの話をすることもなかった。どこかで、そういうものの存在はわかっていながらも、そういうものには頼らずに生きているひとなのだろうと直感していた。
「それがすべてだとも思わないけど、生まれもったものっていうのがなにもないってことはないだろうし、そういうものに恵まれていないと選べない生き方があるというのにも、納得はするよ」
 優都の言葉はなにひとつ潮を責めることはなかったけれど、安易に同情することもなく、必要な分だけの距離は置いたところから潮の語る思いに寄り添っていた。
「俺の音楽に限界があるのはわかってるし、そういうものを無意味に評価するのが無駄だっていうのも、わかってるんです。……でも、俺は物心ついたときから、音楽よりできることはなにもないし、努力だけならあのときできる限りしてたし、あれでダメならもうなにやったってダメなんじゃねえかって思って。弓道やるって決めたときも、そのことがいちばん怖かったんです。——ごめんなさい。先輩は本気なのに、俺、こんな中途半端で的前立ってて」
「弓を引く理由なんて、ひとそれぞれでいいと僕は思うし、それがなんらかの意味で自分に必要だと思うなら、中途半端ではないんじゃないかな」
 必要、という言葉を潮は声に出さず口の中だけで反芻した。自分の人生に音楽以外のものを必要としたことがなかった。けれど、初めて優都の弓を見たあのとき、あの弓の正しさが自分のことを救ってくれるように思えてならなかった。そういう意味で、たしかにこの場所にいることが必要だということは、存外すんなり潮の胸に落ちてきた。
「——優都先輩、あの」
「うん?」
 ほとんど空になったペットボトルに口をつけて、底に残ったほんの数滴を喉に流し込んだ。もうほとんど呼吸はもとに戻っている。潮が名前を呼ぶと、優都はいつものようにすこし首を傾げて潮に目を合わせた。
「先輩は、本気でやってうまくいかなかったこと、ありますか」
「そうだな、それなりにあるかな。小学生のとき珠算やってたんだけど、どうしてもかなわない相手がいたし、僕、第一志望の受験に落ちてここにいるし、去年一年でも、思ったように結果が出せない試合はいくつもあったし」
「——頑張るの、嫌にならないんですか」
 まだ出会ってたったの数か月でも、優都が毎日重ねている努力の量が並大抵ではないことは知っていた。時間があれば練習をしている傍らで、学年では上位の成績をキープしているし、周りの友人や教師からの人望も厚い。それでも、優都が、頑張れば頑張っただけ報われるという単純な理屈を頭から信じているとは潮にはどうしても思えなかった。それが一度の挫折でいとも簡単に折れてしまう信念だということは潮自身がだれよりよく知っていた。
「諦めるのが下手なだけだよ。僕は、自分がやれば必ずなにかを成功させられるような才能のある人間だと思ったことはないけれど、それでも、決めたことは納得いくまでやりたい」
「結果がでなくても?」
「それでいいとは言わないけどね。ただ、自分ができることをやり尽くしたと言えるまではやりたいし、僕はそうじゃないと諦めがつかないんだ。——おまえほど、才能というものを身近に感じたことがないから、言えることなのかもしれないけど」
 このひとはこちら側だ、とそのとき強く思った。彼もまた、天才と呼ばれる領域には決して辿りつけない生まれついての凡人だ。それでも、優都は自分のいまいる場所に先があることを信じて愚直に努力を積むことのできる人間だ。それは、音楽を諦めたあの頃の潮には絶対に選べなかったありかただった。
「それがあたりまえだったとはいえ、苦しいくらいしてきた努力に見向きもされずに、生まれもったものだけで評価されるのは、辛かっただろうな」
「努力だと、思ったこともなかったんです。たぶん。だけど、どれだけ一生懸命吹いても、俺の音に価値がないのは変わらないんだって気付いたら、どうしようもなくなっちゃって。——本気になるだけじゃ、どうしようもないことあるんだって一度思っちゃったら、もうダメでした」
 優都が噛みしめるように潮にかけた言葉に、声が震えた。ずっと、だれかに認めてほしかったことだった。努力をするのは当然で、そもそも評価されるようなことではなくて、価値を与えられるのはいつだってそのもっとずっと先のことだった。だというのに、最初からその世界で生きていくことは許されていなかった。それでも音楽を手放して生きていく方法を知らなかったのだ。それがこの十二年間と半年、潮の内側にあったあらゆるものだった。
「結果を求めなくていいとは言わない。上手くなるための努力はしてほしい。だけど、結果が出ないだとか、それが特別じゃないだとかいう理由で、おまえの努力を見捨てるようなことは絶対にしない」
 きっぱりとそう言い切った優都は、また俯いてしまった後輩の横で、「潮」とその名前を呼ぶ。ゆっくりと顔をあげた潮をまっすぐ見据え、優都はいつもの柔らかな笑みを浮かべて口を開いた。
「おまえの努力は、僕が後悔させない」
 その言葉がすべてだった。ずっと欲しかったけれど声に出して求めることの許されていなかった感情が、そこにはすべて込められていた。耐えることもできずに泣きだした潮が再び落ち着くまで、優都はそれからさきなにも言わずに隣に座っていた。

**

 潮が優都の助けを借りながら物理のプリントと三十分ほど格闘した頃、開いた部室のドアから「おはよう」と入って来たのは、朝練に姿を見せるのは珍しい人物だった。
「千尋先輩。おはようございます」
「おう。今日ひと少ねえな」
 中等部時代から生徒会に所属している千尋は、その仕事もあってあまり朝練に来る頻度が高くはない。部室を見回して、優都と潮しかいないことを確認した千尋が発した言葉に、優都は「おはよう」と声をかけたあと、「古賀は朝に補習があるんだって」と返した。
「ゆっきーは委員会のなんかあるとか言ってたかもです。けーくんと風間は知らないっす」
「風間って試合前以外に朝練来てんの?」
「二週間に一回くらいは来ますよ。あいつ朝くっそ弱いんで」
 中学時代は、二代合わせて優都と千尋、潮と京の四人だけだった弓道部は、高等部では、高等部から入学して来た優都の同期一人と潮の同期二人を加えた七人の体制となった。現在は副将を務める古賀雅哉という二年生と、高校から弓道を始めた早川由岐(ゆき)という一年生は朝練の常連であり、ほぼ毎日朝七時半に部室に現れている。そのため、潮たちが高校に上がってから、優都と千尋と潮の三人だけが部室にいるというのは珍しい光景だ。
「せっかく三人だし、三人立で四つ矢やろうよ。この面子久しぶりじゃない?」
 そう言った優都の声は懐かしさを感じてかすこし弾んでいて、彼はそのまま記憶を辿るように宙を眺め、「もしかして、僕が中二のときの全中予選だけだったかな」と呟いた。
「そうじゃねえか? 俺中二のときは夏以降試合出てねえし」
「え、俺のほろ苦いデビュー戦じゃねえすか」
 潮も中学時代の記憶を掘り起こしてみたものの、たしかに、このメンバーで試合に出たのは、優都が指摘したその大会ひとつしか思い当たらなかった。ひどい失敗をした、という実感だけは残っていても、大会中の行射についてはほとんどなにひとつ覚えていなかった。けれど、その日があったということだけはなによりも鮮明だ。あのときもらった言葉に何度も縋りながら、ここまで弓を引いて来た。
「上等っすわ、あのときの生まれたてぴよっぴよの潮くんとの違いを見せつけてやりますよ」
「おまえが三年前から進歩なかったら僕さすがに悲しいよ」
 潮の軽口に、茶化すように肩を竦めた優都は、弓を手に取って道場へ続くドアを押し開けた途端、その横顔から表情を消し、隙なく背筋を伸ばして朝の冷たい空気が張り詰める道場へと踏み込んで行った。彼の後ろ姿よりも自分の背筋を伸ばす存在を、出会ってから三年以上経ったいまでも、潮は見つけることができずにいる。毎日見ているはずのその背中は、首元から忍び込む初冬の寒さや、足裏から上り詰めるフローリングの冷たさが想起させるよりもはるかに透き通った呼吸を潮の喉に送り込む。潮はそれをまた白い息に変えて吐き出して、優都の隣へと歩幅を広めて歩み寄った。

第二章
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今後の創作活動のため、すこしでもご支援を賜れましたら光栄に存じます。どうぞよろしくお願いいたします。