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なりたい自分に向かいつつあるなかで

28歳。

一般にこの年齢になると世間から一人前と認めれたい年頃で、ぼくもその例に漏れない。ぼくの人生は、キャリアは順調かというとまったくそんなことはない。

これまでの人生の中で後悔したことがない、というと明らかにウソになる。あの時ああしてれば、なんであの時あんな選択をしたんだろう、なんて思うことが山ほどある。っていうかそればっかり。

高校は一応進学校だったけれど、野球中心の生活で朝から晩まで野球ばかりで成績は下から数えた方が早いし、英語は50点超えたことなかったし数学にいたっては40点を超えた記憶はない。常に追試だった。

傍から見れば、野球に打ち込んだ3年間と言えるかもしれないけれど、甲子園には行けなかったし、なんならレギュラーですらなかった。ほんと何しにきたんだろうと後半思っていた。私立の特別進学コースに受かっていたというのもあって、あの道を選んでいたらと思う日もあった。

レギュラーでもなく、成績も悪かったぼくは大学の推薦をもらえるはずもなく、自力で受験するしかなかった。早々に推薦で進路を決めた友人を尻目に朝から晩まで図書館に籠った。勉強する習慣なんてすっかり抜けてしまっていたぼくにはこれは苦しく、結局そこそこのレベルの大学の法学部に進学することになった。

母から「頭良いと思ってたけど、中学までだったね」と言われ泣いた。申し訳なさと、母の期待に応えられなかった悔しさが抑えられなかった。

大学では、せっかく法学部にきたんだし将来は法律系の仕事がしたいと思った。いま思えば短絡的でばかだったと思う。しかし、田舎出身で親から将来は公務員になりなよと呪文のように唱えられていた当時のぼくにとっては、その呪文から逃げ出す唯一の道のように思えた。

そこそこの大学ということにコンプレックスを持っていたぼくは、1年次、行政書士の勉強をした。日本語なのに意味のわからない法律用語をパズルのように扱った。その年の11月に受験するというので忙しかったというのと、もともと社交性がないぼくは完全に友達をつくる機会を逸してしまった。

そのおかげで基本的に孤独で寂しいキャンパスライフを送ることになる。

行政書士は3年次になるまで取れなかった。

特に将来やりたいことがあるわけでもなかったぼくは、当時やたらと債務整理のCMを流していた司法書士に目をつけた。平均年収も悪くないように思えたし、弁護士には手が届かなくても司法書士には届くだろうという思いがあった。

結果、24歳で司法書士への道をあきらめるまで空白の3年間を過ごすことになる。

大学卒業後はとりあえず無職になりまして…なんておどけて答えることができるようになったけれど、当時はたぶんほんとに鬱だったように思う。やりたいこともなく、希望もないように思えた。

ただ、ひたすら生活費を稼ぐためにインターネットの片隅みで広告費を稼いでいた。必死だった。

出費を抑えるために入った家賃の安いシェアハウスでいろんな人と交流するうち、そういえば大学時代に海外旅行したな、いつか国際協力系の仕事ができれば良いなと思っていたことを思い出した。

手元にはわずかなお金しかなく、失うものは何もなかった。海外旅行で培ったわずかな英語力と行政書士という資格、多少インターネットに明るいということを武器に、思い切って東京に引っ越した。なにかはわかっていなかったけれど、東京の方がチャンスが多いだろうと思った。

初め、雇ってくれる行政書士事務所を探していたけれど、自分の要求と合致するところがなかった。半年は粘ったように思う。どこも拾ってはくれなかった。

向いてないんだなと悟ったぼくは、いわゆる普通の就活をした。すると、あっという間に化学メーカーから内定がでた。事業内容はよくわかっていなかったけれど、初めての就活に疲れ切っていたぼくはそこに入社することになる。

結果、ぼくにとってその選択は人生最良の選択と言っても過言ではなかった。社内で一番英語ができたし、生き残るために独学と実践で身に着けたマーケティング、法務すべてが役に立った。

早々に海外案件を任され台湾と東京と行き来し、知財部門も任された。会社から、取引先から自分が必要とされているという実感があった。充実していた。

そして、いまその成功体験をもとに、自己肯定感に箔がついたぼくは青年海外協力隊としてセントビンセントへ赴任しようとしている。そのあとは、欧米の大学院に行って、国際機関で働けたらと思っている。年齢的にもJPO受験できる。か細い可能性に賭けたい意欲も、今はある。

学生時代にインドを旅行した時の貧富の差に愕然して以来、途上国を旅行するたびに貧しさにばかり目が行くようになってしまっていたぼくは、いつしか貧困問題解決に取り組みたいと思い始めていた。

当時、それがあまりにも自分の人生とは遠くて、いつかそういう仕事ができればなぁと夢見がちに思っていたことが今、現実になりつつあることに、これまでの決して楽ではなかった道のりにじんわり思うことがある。

思えば、大学に入ったばかりのころ、帰国子女なんていう人たちと会って、親の仕事の都合で海外生活が長かったとか、高校生のときすでに留学してたとか、田舎もののぼくとは育った環境が違いすぎて羨ましく思っていた。ぼくには高校生のときに留学するなんて発想自体なかった。田んぼを走り回っていただけのぼくは恥ずかしくて仕方なかった。

上手くは言えないけれど、なんのミスなくまっすぐ人生を進んでいるようで、ほんとに羨ましかった。ぼくも都会に生まれてればなぁなんて思ったこともある。今でも、都会生まれというのはそれだけで才能だと思っている。

都会に生まれていれば、東京に生まれていれば、あと3年は早く国際協力の世界で働こうとしたかもしれない。大学時代にもっといろんな人と交流していただろう。そういう適切な環境に生まれていれば、アラサーにもなって英語で苦労することはなかったろうと思う。マルチリンガルの人に会うたび、やっぱり環境だよなぁとどんよりする。

生まれ変わるとすれば、そういうすべての環境が整ったところで、エスカレーターのような人生を歩んでみたい。いままで苦労しかない分、そう思う。

けれど、彼らには彼らなりの苦労があるんだろうし、ぼくにだって遠回りした分、最短で到達した人にはわからない感性というのもあって、落ちこぼれな分、できない理由や辛さがわかる。

こうはいってはなんだけれど、ぼくにはゼロから這い上がってきた人間だという自負がある。

貧しさ、弱さ、悲しさ、色んな経験を経てここにいるわけで、そのあたりの感覚がぼくの武器になるんだろうなという自覚が、今のぼくにはある。

このnoteは「もし生まれ変わるなら」なんていうテーマだけれど、ぼくはヘンに現実主義な分、どうせ同じことを繰り返すに違いないと思っているフシがある。「あの時」に戻ったってどうせ心入れ替えて勉強なんてしないという自信がある。「今」をなんとかしないといけないという思いが強い分、たぶん今の境遇をなんだかんだで受け入れているし、それにぼくの人生にもようやく希望が見えてきたわけで悪くはない。

悪くはない。そう信じたいし、そのかすかな希望を見失わないように、決して離さないように、少しずつたぐりよせたいなと思う。


ロバート・フロストとという詩人の「歩む者のない道」という詩がある

黄色い森の中で道が二つに分かれていた
残念だが両方の道を進むわけにはいかない
ー略ー
あの朝、二つの道は同じように見えた
枯葉の上には足跡一つ見えなかった
あっちの道はまたの機会にしよう!
でも、道が先へ先へとつながることを知る
私は再び同じ道に戻ってくることはないだろうと思っていた
いま深いためいきとともに私はこれを告げる
ずっとずっと昔
森の中で道が二つに分かれていた
そして私は・・・
そして私は人があまり通っていない道を選んだ
そのためにどんなに大きな違いができたことか

この詩はひと昔前のMBA受験生のエッセイでよく引用されていたようで、ぼくも血気盛んな20歳ころに知って、「人と同じことはしたくない」と天邪鬼を発揮して逆張りを気取っていたけれど、いまでも気取っているけれど、なかなかしんどい。いつか悩みがなくなるかなと思っていたけれど、まだ悩んでいるし、たぶんこれからもずっといろんなことに悩み続けるんだろうと思う。

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