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夫婦フランス自転車珍道中

「自転車旅行に行きたい」

出会ってからしばしばフランス人夫に言われていた。8月、日本だとお盆に当たる中旬にフランスは祝日が重なった3連休があった。ここで念願のそれを計画した。自転車をどこで借りれるか、どういう道がいいのかよくわからなかったので、今回の自転車旅は夫に任せた。

土曜日に出発予定だったが、木曜日に軽く確認したら「明日色々やる」とのこと。この時点で思えば雲行きは怪しかった。

前日の金曜日。
彼に言われたのは「自分たちの住む町からベルサイユまで行き、そこから電動自転車を借りて、バルビゾンまで3時間半の旅をする」ということだった。距離を聞くと65キロ。フルマラソン以上の数字に衝撃を受け「電動自転車なら予想時間より早く着くと思う」という彼の甘々の予想にも突っ込む気になれなかった。今覚えば、ここで真剣に突っ込まなければいけなかった……。

当日。レンタル自転車屋さんに到着したのは夕方16時だった。本来は15時で(それもすでに遅い&1日のうちで一番暑い時間帯なのだけど)、3時間半なら19時過ぎには着くだろうとのことでそれも行きずりに任せてしまった。(夏のヨーロッパは日の入りが22時くらいなので比較的夜も明るい。)

出発時間が1時間遅れた理由は、私たちの乗った電車の車両のドアが、降りたい駅で開かなかったから。

自転車旅行の前段階でプチハプニングだった。

電車は駅によって右のドアが開いたり、左のドアが開いたりするが、私たちの乗車駅は右のドアが開いたので乗り込んだ。そしてベルサイユ駅で左のドアから降りたかったのだが、なんと開かないのだ。ドアを読むと「使えません」の文字。窓ガラス越しに隣の車両が見えるのだけど、そちらへ渡ることはできず、ふと見渡すと私たち以外に同じ車両の人はいない。その車両に乗れたというのもおかしな話なのだけど、誰もいないということは、きっと乗り口で注意書きがあったのだろう。それを読まずに乗り込んだ私たちは、右のドアが開く駅まで待たなければいけなかった。ガラス越しに人々は私たちを凝視していて、動物園の動物のような孤独感だった。

次の駅も開かない。次の駅もまだ。

結局2駅見送って、引き返したので大幅に時間をオーバーしてしまった。

なんかすでにすごく疲れて、折り返す電車のホームでうなだれていたら「そんな態度をとるなヨ」と怒られ、小さく揉める。幸先良くない。

ここですでに目に見えない何かが「行くでない。ろくなことは起きない」と一生懸命足止めしてくれていたのだと思う。

そして私たちは16時過ぎにベルサイユを出発し、バルビゾンへと向かった。


旅路を始めるときに、地図を携帯にセッティングしてわかったのは総距離70km、予想時間は約4時間と地味に最初の読みからのびていたことだった。夫に任せすぎていたので、もうなんでそんなことになっているのかよくわからない。正直65kmも70kmも想像がつかなかったので、行くしかなかった。

位置関係はこんな感じ。星が密集しているのはパリです。


比較的25kmくらいまでは順調だった。

しかし30kmくらいの時点で疲れ始めて「まだ半分以上も残っている」という絶望感がすごかった。引き返すとしても30km戻らなければいけない。夫はというと、この時点で「もう泣きたい。引き返してムードン(自分たちの街)に帰りたい」と言っていた。「もう戻れないんだよ、行くしかないの!」と私が鼓舞するという謎のシチュエーションで、私たちは残り40kmを進むことにした。

パリを流れることで有名なセーヌ川はフランス北部からパリを通過して、南方に長くのびている。大雑把にいうと私たちはセーヌ川沿いにずっと南下して走っていた。郊外に入ると、川辺は岸から水の中へ入ることができて、途中まで位置を把握できていなかった私は、そこが湖畔だと思っていたほど、濁ったパリのセーヌと違って透明で綺麗な美しい水辺だった。

森の茂みの合間に小さな浜辺のような場所がいくつもあって、2、3家族ずつが集まって、川で泳いで、音楽を流して、火を起こして囲んで、釣りをしたりもしていた。それはバカンスなんてたいそれた都市的な時間の使い方ではなくて、彼らにとってはもっと日常の中に水辺があって、当たり前のように週末の夕方出向いて時間を過ごしているようだった。

車だとあえて止まることはない街だし、川辺なんて木の茂みに隠れて見えもしなかった。電車でも駅と駅の間の景色をこうやって垣間見ることはできないから、ああ、この景色だけでも自転車に乗った甲斐があったなと思った。パリから一転、この町々では白人をほとんど見かけなかったが、私の持ってる漠然としたBanlieue(郊外)の少し薄暗いイメージが変わって、慎ましくも穏やかに、ただ彼らのコミュニティがそこにあって、つながりあって暮らしているのだと感じた。

郊外のセーヌ川の岸辺

それからも必死に漕ぎ続けて、気づくと21時を回っていた。

地図を見ると、まだ2時間あるとのこと。もう意味がわからなかった。なぜ当初の予想時間とこんなにも異なるのか、考えたら理由はいくつも思い浮かんだけど、考えることはやめていた。

フランスは日本のコンビニのような便利なものがないので、店が閉まる前にひとまず腹ごしらえをしようと、フライドチキンを揚げている小さな飲食店に止まった。店の前にはUber eatsらしき配達員のお兄ちゃんがたくさん待機しており、店先のテラス席にも常連らしきアラブ系のおじさんたちが談笑していて、地元の憩いの場として親しまれているジャンクフード店のようだった。そこで二人分12ユーロのチキンとフライドポテトとペリエのセットをいただく。疲れてたので全部すごく美味しく感じた。その後も動いたからか全く胃もたれしなかった。やっぱり運動って大切なのだ。

食後に、道を進めてすぐ横の角を曲がったら、まだ開いてるいい感じのレストランがいくつもあった。先に見ればよかった……と二人で少し悔いつつ、後から考えると優雅に食事をする時間は全くなかったので今回は結果オーライだった。

電動自転車であることに、これまであまり触れてこなかったけど、みなさん多分おわかりのように、電動自転車は長距離に向いていない。夫は「100kmを充電なしで走れる」という謳い文句が決め手でその自転車を選んだらしいのだけど、夫の自転車は45km時点でほとんど電池がなくなっていた。「約束と違う!!」そう夫は走りながら嘆いていたけど、日も暮れてきたのでのうのうとどこかで充電もしてられない。もう、行けるところまで行くしかなかった。節電のためにエネルギーを低めに設定して、ライトをつけないで走った。

一方で、私の自転車はその心配がなかったので、私のライトを頼りに走った。でも田舎の国道は暗くて怖い。日が沈んで、ライトをつけていても視界が怪しくなってきたときにそれは起こった。

ズデーン!!!

夫は勢いよくブロックにタイヤをぶつけて、顔から地面に落ちた。とっさに右手で頭をかばったらしい。暗くて見えないけどすごい音で、夫は1分くらい起き上がらなかった。詰んだ……と思った。(もうこの旅路で、何回目の悟りかわからなかった。)流血はほとんどないけど、地面に打ち付けた右手が動かないらしい。緊急病院のようなものも検索したものの近くになくて、本当にど田舎だったのでどうしようもない。どのみちあと15キロくらい行かなければ何もなかった。

「戦争中の兵士だと思って!傷の痛みがあっても進むしかない!」と全然励ましにならない私の謎の言葉を聞き流しながら、夫はなんとか10分後くらいに立ち上がった。もう夫のメンタルも体もボロボロなのがわかったので、自転車を交換して、私が電池ほぼなしの自転車、夫は電動力MAXに切り替えた自転車で最後の道をゆっくり走ることにした。

ラスト10キロ。時間は23時を回っていた。

街灯もない、畑の横の国道をひたすら進んだ。もう泣けてきた。なんだこの週末は。家でゆっくりしていたかった。バカみたいな計画を立てた夫、それを聞いて止められなかった無責任な自分にものすごく腹が立った。でも夫も心身ともに限界だったのであたれない、私は夜道に叫んでいた。

「なんだこのバカみたいな旅行!!!!計画が甘すぎる!!行っても帰れない、同じ道を帰りたくない!こんな十代がやるような旅行もう二度とやらないからーーーーー!!!!!!!」

バルビゾンに続くフランスの田舎の夜道で、日本語の暴言が響き渡った(だろうか)。


ラスト2キロで、私が漕いでた電車の電池はついに切れた(むしろここまでよく持った)。電動自転車の電動アシストなしのペダルの重さはすごい。死にそうになっていたら、夫が変わると言ってくれた。私ももう結構限界だったので、ラスト1キロ変わってもらった。のろのろ進みながら、なんとか予約したエアビーの宿に到着。

深夜0時だった。

16時に出発して8時間、なんとかついた。帰り道のことは考えたくなかった。シャワーを浴びて、買ったビールを飲んで、1時半に寝床についた。


翌日、夫はろくに眠れず、昨日の右手がまだものすごく痛いと言った。近くの病院までは歩いて45分。小さな反動に呻いている程だったので、その距離を歩ける状態ではなかった。病院に電話をしたら「では、救急車に向かわせますね」とのことで20分後に本当に来た。

バタバタと着替えて用意していたら、窓の外から青いサイレンがチカチカとして「あ、迎えに来た」と、出所する罪人のような気持ちになぜかなりながら、外に出た。救急の男性二人はテレビドラマのように冷静沈着で温かく、これぞプロだと思うお仕事だった。夫が右手以外特に問題ないことをわかると、少し冗談も交えながら私たちを乗せて、サイレンを鳴らしながら高速で病院へ向かった。人生初の救急車だった。(こんな日が来るとは……。)

着いたのは隣町のフォンテーヌブローの病院。夫は緊急搬送口から、私は表の待合室で待つように言われた。病院の中はクーラーが聞いて寒かったので、外のベンチで持ってきた文庫本を読んでいた。途中クロワッサンとパンオショコラを買いに街中へ行ったりしながら、2時間くらい待っていたと思う。

同じベンチの右側に座っていたおじさんが「中国人ですか?」と私を見て聞いてきたので「いえ日本人です」というところからいくらか病院に来た経緯を話した。

「で、おじさんはどうしたんですか?」と聞くと、見せてくれた右腕は包帯でグルグルだった。「昨日ガラス瓶を持って家の中を歩いていたらね、自分の履いている靴の紐につまずいて前に倒れて、手から離れた瓶が地面に割れて、その破片が倒れた時に腕に刺さったんだ」となかなか衝撃的なエピソードを話してくれた。私たちも昨日から散々だったなと思ったけど、怪我の具合だとこの人の方が相当ひどいナ……と同情した。

そんなこんな話していたら夫が戻ってきて「骨も異常なし。ただ衝撃で数日痛むだろうけど、痛み止めを飲んでいたら大丈夫だって」とのことだった。良かった。じゃあ痛み止めをもらいに薬局に行こうとしたけど、その日は日曜日で9割の薬局は閉まっている。これまた隣町の薬局まで行かないといけないらしい。ガラス瓶のおじさんは、自分の腕が痛くて色々しんどい状況なのに、すごく丁寧に薬局の方向へ行くバスの乗り方を教えてくれた。困難な時も人に優しくできる人って素晴らしいなと感動してしまった。立ち去る時にさようならと挨拶したら、彼のシャツの右側は血で赤黒く染まっていたのが忘れられない……。


無事薬局へ行って薬をもらい、街中で昼ご飯を食べて、ようやく旅らしいことを一つした。でもすでに15時を回ろうとしており、二人ともくたびれていたので、計画していた観光は既にどうでもよくなって、美味しいワインとつまみになるものを買って、宿に着いてるNetflixでBlack Lagoon(フランスでかつて人気を博した日本アニメ)を一気見しながら、料理をしてまったりしようということになった。

夫の右手は結局大事にはならなくて本当に良かったのだけど、使えないことは変わりなかった。食事も全て左手で食べるほどだったので、自転車なんて無理だった。

問題は帰り道だ。自転車屋さんに「自転車を持って帰れない」と言うしかない。しかしレッカー代をいくら請求されるかが二人とも怖かった。昼食後、コーヒーを飲みながら綿密に打ち合わせた。「自転車1台、バッテリーが通常の倍以上の速さでなくなった(本当)。結果、私たちはライトなしで走らなければならず転倒した。怪我をして救急車代+治療費も出して(本当)、3週間以上右手が使えないから仕事もできなくなる(これはちょっとオーバー)から、そちらのメンテナンス不足も責任なのでレッカー代は負担したくない」という線で行くことにした。

書きながらも、こういう言い訳力は父親譲りで、頭がよく働くと我ながら思う(偉そうにいうことではない)。日本にいたら多くの人を敵に回していたゴネる力だけど、フランスでは必須のスキル。いつもゴネる必要はもちろんないけど、トラブルが起きた時、自分が正しい立場であっても口が立つ方が勝つ社会なので、真面目に相手の言い分を聞き入れると損をする為、自分を守るときは一生懸命ごねるしかない。

結局相手は120ユーロを最初に請求してきたが、電話とメールでゴネにゴネて(結構な労力と時間を割いた)50ユーロになった。夫はまだ不満そうだったのがおかしかった。元はと言えば日が沈んでも自転車を漕ぎ続けた自分たちの計画性のなさが原因なので、勉強代として払おうということで落ち着く。

何よりも、自転車屋さんが取りに来てくれることになって、本当に良かった。感謝である。自転車を取りに来てくれるなら500ユーロでも払いたい気分だったので、同じ道を帰らなくていいことに心から安堵した。

手持ちの手ぬぐいで作ったサポーター。ちょうど3枚持っていた奇跡……。

エピローグ

翌日、自転車屋さんはベルサイユからわざわざ8時過ぎに来てくれて、無事に自転車を引き渡した。宿から歩いて20分のところにあるバルビゾンの美術館に行ってから、電車で帰ることにした。

「バルビゾン」「美術館がある」くらいの知識を持ち合わせてなかった自分に向けて作られたのかな?というくらい、すごく説明が尽くされたプロローグ映像をまず美術館の入場後に見た。

18世紀、パリのサロンで評論される既存の美術界の在り方に異論を持つ芸術家たちが拠点を移した先が、バルビゾンという街なのだそうだ。宗教画や人物画が評価され、自然の風景画には何も意味を見出されなかった当時「色彩派」という自然主義の画家が世に誕生したのは、この地からなのだという。

「ようやく、たどり着いたのだ。バルビゾンの地へ……」

旅人が主人公の設定で、物語風に語られるビデオの台詞に勝手に自分を重ねてしまい「わかる、本当にパリから遠いよね……」と感情移入して一瞬涙がでた(映像のクオリティも良かった)。

ルソーやコロー、ミレー、のちにはゴッホやルノワールにとっても大切だったこの土地に来れたんだという実感が、自転車旅のおかげか余計に深く湧いてきた。自然と都会の狭間で、どのようなバランスでこれから生きていこうか、なんてことを夫婦で話し合っていた時頃でもあったので、二人して心が震えまくっていた。

そこで展示されている絵はもちろん、そういう巨匠群の絵画以外にも街にはいくつものギャラリーがあり、無料で開放されているところも素晴らしい作品がたくさんあった。

数時間でも結構堪能したけど、もとは城を見たりしたかったフォンテーヌブローは結局病院に行って、昼ご飯を済ませて終わったしまった。そのほかにも周辺にも見所はまだたくさんあるらしい。

「次回はレンタカーで来よう。」

そう言いながら、一番近い駅までタクシーで向かって、電車でゆっくりと帰路へ着いた。(最初からこうすれば良かった。)


最後までお読み頂き、ありがとうございました。 書くことを気長に続けていくことで自分なりに世の中への理解を深め、共有していきたいです。