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秘密基地に

「……は?」
 消えた。姉の手からマグカップが消えた。落ちたわけでもなく、まるでロウソクの火が吹き消されたかのように、音も立てずふっと消えた。目の前で起きたことが理解できず姉を見ると、姉は焦ったような驚いたような顔でこちらを見ている。
「何今の。手品?」
俺がきくと、姉は素早く両手を後ろに隠した。ついさっきまでそこにあったマグカップは、やはり手の中にはなかった。
「……祐也、今の見てた?」
 絞り出された姉の声は夜中のリビングに小さく響いた。時計の針は二時を過ぎたくらいで、秒針の音は静かな部屋の中ではよく聞こえる。
「見てたけど、どういうこと? 消えたよな今」
「あっ、えっと、うん、消えたのは消えたんだけど……手品とかじゃなくてその」
姉はしどろもどろな返答をよこす。いぶかしんで見ると、姉は何かを決心したように息をついた。
「たぶん、私が消した。」
「消したって……」
真剣な眼差しで発せられたその言葉は嘘のようには見えない。意味がわからないと思いながらその真剣さに押され、今度は俺が持っていたコップを落としそうになった。

 姉の茜は、昔から真面目だった。姉は高校を卒業するまでずっと無遅刻無欠席で、成績もかなりよかった。いわゆる優等生として教師たちや親から一目置かれていた。そんな姉だが、大学は行けたはずの学校よりもワンランク下の地元の大学に入学した。理由を聞けば、地元にいた方が親も安心するから……なんてそれこそ"優等生"な答え方をしたのだ。
 でも、その実、俺から見た姉は根っからの優等生というふうでもなかったのだ。何をするにも杞憂とも言える心配ごとばかりで、それに備えてばかりいたら優等生になってしまった……というふうに、明らかに姉は心配性だったのだ。しかも、その心配性はお節介となってよく弟の俺に降りかかっていた。俺が怪我して帰ってくれば一番大騒ぎし、俺が友達を泣かせたと聞けば仲直りできるかを心配して一緒に謝りについてきた。できた姉だとよく言われたが、俺にとっては少々、いやかなり、うざったかった。
 〝優等生〟に対して俺は、人並みに反抗期を迎え大学に入学すると同時に、あまり好きではなかった実家を出た。家族が鬱陶しい気持ちもあったが、それ以上に田舎にいるのが耐えられなかったのだ。
 そんなこんなで、社会人になって数年経っても実家にほとんど帰らなかった俺が、今実家にいるのは、裏に住んでいた祖父が亡くなったと聞いたからだった。
 久々に実家に帰ると、親と親族からだけではなく、心配性の姉からもやれもっと連絡をよこせだの、やれ職場で浮いたりしてないからだの色々と心配ごとを言われた。本人は善意なのだろうが、社会人になってまで四つも上の姉から心配されるのはうざったい。そのうち、親族たちは生返事しか返さない俺にあきれ始め、いや、飽き始め集中砲火は三十を手前に独身な姉の結婚の話へと流れていった。姉は眉毛を下げながら笑って、親族からの質問に答えていた。人の顔色をうかがうとき、姉はいつもその顔をする。姉には気の毒だが、俺はこれ幸いとその場から逃げ出した。
 一通り葬儀が終わり、翌日の夕方には新幹線に乗って帰ろうという予定だった。やはり久しぶりの実家の布団では寝つきが悪く、夜中に目がさえてしまった。水でも飲もうとリビングへ向かうとそこには先客がいた。姉は台所から差し込む明かりを背に受けながら、暗い面持ちでマグカップを見つめていた。起きていたのかと声をかけようとすると、姉は疲れたような顔でふうとため息をついた。そしてそのとき、
「……は?」
姉の手からマグカップが忽然と消えたのだ。

俺は朝になって、夜中起きたことを姉に聞きに行った。結局あのあと、俺は姉が言っていることが理解できず、曖昧に返事をしてその場から立ち去った。寝ぼけて見間違いでもしたのだろうと思いそのまま眠りについたが、朝起きると、むしろはっきりと俺はマグカップが消えた瞬間を見たのだ、という気持ちになってしまった。
家族の中で最後に起きた俺は、朝食もそこそこに姉の部屋へと向かった。戸建ての二階にあるその部屋は、姉が中学のころから使っている。ドアにかけてある色あせた「AKANE」のプレートは、アラサーの姉の部屋だと思うと少しむずがゆかった。
軽くノックすると、はあいと返事がある。ドアを開けると、姉は携帯を見ていたようで自分のベッドに軽く腰かけていた。訪ねてきたのが俺だとわかると、姉はすぐ俺がなにを聞きに来たのか理解したようだった。
「……夜中のこと?」
「まあ、そう」
俺は返事をしながら部屋に入り、一応ドアを後ろ手で閉める。今からする話は人に聞かれていい話なのか俺には判断がつかなかった。座る場所がないか部屋を見渡すと、違和感を覚えた。
「やっぱりききにくるよね」
前に入った時よりも明らかに物の数が減っている。とは言っても、前にこの部屋に入ったのは何年前だっただろうか。俺はベッドの側のカーペットにあぐらをかいて座った。
「あれは何が起きてたんだ? 姉貴は夜中自分が消したって言ってたけど」
「あー、でもたぶんってだけでほんとはよくわからないんだ」
 姉は夜中のマグカップ消失事件についてごまかしているようではなかった。
「てか、祐也は信じてくれるんだね」
「あー、正直ほんとに消えたとか思えないけど、まあ実際に消えるところをみちゃってるしな」
その言葉を聞いて姉はいくらか安堵したようだった。自分が消したと言ったものの、俺がその言葉を信じなければ姉は頭のおかしなホラ吹きになる。
「実はここひと月前くらいから夜中みたいなことがたまに起こってて」
そういって姉は困惑した表情で、けれど淡々と、話し始めた。
 姉の話はこうだった。ちょうどひと月前、初めてその現象が起こった。その日はたまたま職場の飲み会で夜遅くに家に着いたらしい。家について自室にいたとき、ふとベッドの上にいつも置いていたぬいぐるみに目がいった。なんとはなしに見つめていると、ふっ、とぬいぐるみは〝消えた〟。始めは目の前の出来事が理解できなかったが、部屋のどこを探しても消えたぬいぐるみは出てこなかった。
それを皮切りに、週に一、二回多いときは二日に一度の頻度でその現象は起こったらしい。消えるものは毎回決まって姉の私物など姉の近くにあるもので、初めのぬいぐるみ、俺が見たマグカップのほかには、姉が持っていたアルバムや気に入って使っていた毛布、持ち歩きの手帳……と大きさも素材もまちまちだ。現象が起こる時間や場所も決まっておらず、ただ共通しているのは、姉がその場にいるということだった。それで姉は自分がこの現象を起こしているのではないかと思い至った。しかしなぜこんなことが起こるのか原因は全く分からずじまいで、今まで消えた物たちもなに一つ見つかっていないらしい。
「なんだよそれ……」
 俺はその話を聞いてただただ驚くことしかできなかった。姉もそんな俺を見て、そうだよねこんなこと言われてもわかんないよね、と肩を落とす。それからこう切り出してきた。
「それでさ、祐也には消えたところ見られちゃったからってのもあるんだけど、相談があって」
「相談?」
姉は急に顔を窓の方に向けた。俺もつられて窓を見る。姉の部屋からは、この家の裏にある祖父母の家とその後ろに立つ小さな山の斜面が見える。その山はうちでは通称裏山と呼ばれていて、幼い俺と姉はよく裏山で遊んでいた。
「秘密基地」
 姉はぼそりとつぶやいた。
「え?」
「秘密基地覚えてる? 裏山に作った」
姉は窓越しに裏山を見つめていた。目線を外さず尋ねられたその言葉に俺は戸惑いながら返事をする。
「あ、ああ、覚えてるけど」
 裏山には小さな神社があって、その境内から少し山の中に入ったところに、木が生えておらず少し開けた場所があった。幼いころの俺たち姉弟は、そこに秘密基地を作っていた。
「なかなかに作りこんだよね。二人でさ、お母さんたちに内緒でホームセンター行って、秘密基地の材料買ったりとかさ」
「ああそうだった。懐かしいな」
親に山の中には入るなと言われていたが、こっそりと段ボールや使えそうなおもちゃ、お菓子なんかを家から持ち出してはそこで日が暮れるまで遊んでいたのだ。今思えば、それが優等生である姉が親の言いつけを守らなかった、唯一のことではないだろうか。少なくとも、俺が見た限りではそうだった。
「けど秘密基地がどうしたんだよ。今の話に関係あるのか?」
姉は窓から目線をずらし、今度は俺の方を向いた。少しためらって、俺に言う。
「夢を、みるの」
「夢?」
姉はしっかりとうなずく。
「私の周りでものが消えるようになってから、ほぼ毎晩秘密基地にいる夢をみる。関係してるかどうか断言はできないけど、私にはなにかつながりがあると思えるんだ」
「なるほど……」
夢なんて曖昧なものは、何の根拠にもならない。けれど、ものが突如として消える、なんて不思議な出来事が実際起こっているいま、そうむげにはできないかもしれない。俺はなんとなく姉の言わんとすることに納得がいった。
「だから、今日久しぶりに秘密基地に行ってみようかと思って。それで、相談っていうのはさ、やっぱりふたりで作ったものだし祐也にもついてきてもらえないかなって」
「わざわざ秘密基地に行くのか」
「うん、やっぱり急にものが消えるのもちょっと怖いし、わかることがあるなら少しでも知りたくて……だめかな?」
 姉は眉毛を下げながら俺に笑いかけてきた。その顔を俺は久しぶりにまじまじと見た。俺はこの顔が好きではない。
「だめとかいってないだろ」
つい語気が荒くなってしまった。それでも姉は嬉しそうに、ありがとうとほほ笑んだ。
 まあ、実際秘密基地を見に行くこと自体はやぶさかでもなかった。久しぶりに実家に帰ってきた俺も、少しくらいは思い出に浸ってみたい気持ちもある。それに夕方の新幹線の時間まで、これ以上親や親戚からの小言を聞きたくなかったのだ。
 そして、俺たち姉弟は約二十年ぶりに秘密基地へと向かった。

 昼前の神社はしんとしていた。元々小さなこの神社には地元の人間もほぼ足を運ばない。小さな山のふもとから少し長い階段を上り俺たちふたりは、山の中の神社へ来ていた。久しぶりに見た神社は、記憶の中にあったものよりずいぶんとこじんまりとして見えた。
 俺たちは参拝もせず境内にはいると、小さな本殿の右後ろ、内容は一度も読んだことのない文字が書かれた石碑の前に行く。
「懐かしいね。祐也、秘密基地への道覚えてる?」
 姉は階段を上って弾んだ息を整えながら言った。俺には、全くきつくないものだったが、やはりアラサーの姉にはきついものなのだろうか。
「そういや、秘密基地までの道のりを暗号みたいにして遊んだりしてたよな」
だんだんと幼いころの記憶がよみがえってくる。秘密基地への道のりの起点は、この石碑だった。
俺は石碑の裏に回り、幹が大きく三つに割れた木を探す。記憶の中より少し低く見えるその木は、一番右側の枝がぐにゃりとアーチを描いていた。木のアーチをくぐると、その先も自然のトンネルのように、木々が葉や枝で天井を作っていた。俺は中腰になりながらそのトンネルを進む。姉は後ろから楽しそうについてきていた。
「さすがに今通るとちょっと狭いね」
トンネルといってもこの道はいわゆる獣道で、大人になった俺たちは中腰で進んでもところどころ枝に引っかかったりしていた。
「昔はそんなに苦労せずに通ってたと思うと不思議だな」
「ふふ、そうだね。祐也もこんなに大きくなっちゃったんだなあ」
「なんだよそれ」
 しばらく進むと木々が低い茂に変わり、獣道は二股に別れていた。
「そういやさ、ここ雨上がりだとぬかるんでよく姉貴転んでたよな」
後ろを振り返って話しかけると、くつくつと姉は笑った。
「確かによく転んでた! ここ地味に坂になってて急ぐと転ぶんだよね」
そういいながら、姉は二股の左の道へと小走りになりながら進んだ。
「急に走ったら転ぶぞ」
そういって俺は姉を茶化した。
「大丈夫、さずがにもう転ばないよ」
その言葉とは裏腹に、足元に木の根が露出していたらしく、それに引っかかった姉は盛大にひっくり返った。あたりにズドンと重い音が響く。姉はひっくり返ったまま、ぽかんと呆けた顔をしている。あまりのタイミングの良さに、心配するよりも先に俺は噴き出して笑ってしまった。
「あはは、なんだよ姉貴。どんくせーな」
「もー笑わないでよー。いてて」
笑わないでよ、なんて言いながら姉の顔は笑顔になっていた。その笑顔は二十八歳にしてはいささか子供じみていたが、ここ何日か親戚の前でしていた笑い顔よりは、はるかに自然な笑顔だった。
俺は姉が立ち上がるのに手を貸すために、姉の側に行った。手を貸すと、姉はよっこいしょとつぶやく。
「ババアかよ」
「はあ? まだ三十にもなってませんけど?」
「はいはい」
噛みついてくる姉を適当にあしらい、俺はさきに進もうとした。
「えい」
がく、と膝が曲がり今度は俺が転んだ。驚いて振り返ると姉がしたり顔をしている。どうやら姉に転ばされたらしい。
「しかえし」
姉はすごく嬉しそうだった。前のめりに倒れたせいで、俺は洋服を汚してしまった。黒い土がべったりと腹についている。
「うわ、やばい。俺この後新幹線乗るんだけど」
「ははは、いいじゃん活発ボーイ」
「姉貴、俺のこといくつだと思ってんの?」
なんだかそんなくだらないやり取りが楽しかった。いま、俺たちは子供に戻っているのだ。俺は年甲斐もなくわくわくした気持ちになった。
「なんかいいな、久しぶりにこういうの」
それは姉も同じだったらしい。俺たちは自然とほほ笑みながら先を目指した。
早く秘密基地に行きたい。はやる気持ちを抑え、転ばないように、俺たちは木々の中を進んでいく。見覚えのある大きな木が立っていた。ここを右に曲がればこの先に秘密基地が待っている。そして、俺たちは茂みを抜けた。
次の瞬間、俺たちは困惑した表情で互いに顔を見合わせた。

結論を言うと、俺たちは秘密基地にたどり着けなかった。最初は秘密基地への道を間違えただけだと思ったが、俺と姉の記憶は同じ道を描いていたし、何度神社から行きなおしても秘密基地にはたどり着かなった。ものが突如として消えるという怪奇現象を体験している俺たちは、なにか不思議な力が影響しているのではないかという疑念も抱いたが、結局なにもわからなかった。
あんなにはしゃいでいた俺たちは次第に口数も減り、最終的には姉の「子供のころとは目線が違うからしかたがないのかな……」という言葉であきらめるしかなかった。お互いに不思議だと思っていたが、なんの根拠もないなかで、なにも言い出せなかったのだ。
 泥まみれになった俺が、自分の家に帰る前に着替えやシャワーを浴びたいということで、俺たちは早めに実家に引き上げることにした。
 裏山を下り、実家に戻ると泥だらけで帰ってきた俺たちを母は怪訝な顔で見てきた。
「あんたたち、ふたりでなにしてんのよ。なんでそんなに泥だらけなわけ?」
俺たちは秘密基地のことを言い出せるわけもなく、無言で気まずい顔を見合わせた。そんな様子を見た母はこれ見よがしに大きなため息を吐いた。
「あのねえ、自分たちがいくつかわかってるの? もう三十になるのにそんな泥だらけになって帰ってきて……何してたか知らないけど、いい加減落ち着いてよ」
「うん、ごめんなさい……」
 俺は謝る必要はないと思ったが姉はそうはいかないらしい。姉は眉をさげて笑っていた。ふと手元を見ると、笑った顔とは裏腹に、固くこぶしが握られていた。
「茜は特に女の子なんだから、気をつけなきゃいけないってのに」
相当強く握られているらしいそのこぶしは、ふるふると小刻みに震えていた。
「うん、わかってるよお母さん」
姉が絞りだした声は、弱く、意思のない声だった。なんだか、見ていられなかった。俺は顔をそむけ、着替えに行こうと踵を返した。
そのときだった。視界が真っ白に光った。そして、俺はその場から消えた。

 嫌な予感がして振り返ると、さっきまでそこにいた祐也がいなかった。全身から血の気が引く。あたりを見渡しても、祐也のほかに消えたらしいものはなかった。
 ものが消えるとき、何となくいま消えたのだとわかる。今現在、確実に何かが消えた感覚がした。もし、もし、今消してしまったのが祐也だったとしたら。
「祐也? 祐也!」
 私が急に祐也を探し始めたので、母が眉間にしわを寄せた。
「何? 祐也また逃げたのね。昔っから怒られるって思ったんらすぐ逃げ出すんだから」
どうやら母は祐也がどこかに行ったと思っているらしい。普通の人ならそう思うだろう。けれど私にはわかる。祐也は今文字通り消えたのだ。
 私は走り出した。消えたものたちがどこへ行ってしまったかはわからない。けれど、探しに行かないわけにはいかない。消えたものたちはまだ、一度も帰ってきたことはないのだ。
祐也が消えてしまったらどうしよう。私のせいで。
祐也が帰ってこなかったら、どうしよう。
 走っているせいなのか、混乱しているせいなのか、私の心臓はやけに早く脈を打った。私は家を飛び出し、無意識に秘密基地へと急いでいた。

 まぶしい光に目を開けられずどれほど経っただろう。耳に入ってくる音はなくなって、俺は静寂に包まれているらしかった。恐る恐るまぶたを開くと、そこには何もなかった。まるで白い霧がどこまでも続いているようで、距離の感覚がおかしくなりそうだ。
 俺はさっきまで、実家にいたはずでは、と思ったがすぐ例の現象で自分が消されたのではないかと考えた。今までも、ものは消えていたのではなくどこか別の場所に飛ばされていたのでは。そう思った根拠はないが、そう思えた。しかし、そう仮定するなら、俺のほかにもこの空間に飛ばされてきたものたちがあるのではないか。俺は今自分が立っていた場所を動き、何か物体が存在していないか探すことにした。
急によくわからない空間に来てしまったが、不思議と不安感はない。むしろ、この空間にいると心地よく穏やかな気持ちにさえなれる。なんとも形容しがたい気分だった。
よく観察しながら歩いていると、急に霧が晴れるようにあるものが目に飛び込んできた。それは、秘密基地だった。
目指してもたどりつけなかったそれは、記憶の中と変わらない姿でそこにたたずんでいた。本来なら雨風で朽ちているであろう段ボールや、絵をかいて貼った画用紙も子供の時にみたままの姿だった。ベニヤの板を立てて作った、傾いた壁。大きさの違う段ボールを張り合わせて作った不格好な屋根。お世辞にもきれいとは言えない秘密基地を見ると、急に懐かしさがこみあげる。
秘密基地に近づくと、子供のころと変わっているところに気がついた。昔に比べて物が各段に増えている。秘密基地の外側にあふれてもいた。入口の近くに落ちていたものを拾うと、それはラムネの空瓶だった。
「これ、姉貴のか」
 見覚えのあるその瓶は、色がきれいだからと小さいころ姉が捨てずにとっておいたものだった。俺は姉の話を思い出し、散らばったものたちをあさる。
 くたびれた毛布にくたくたのぬいぐるみ、幼い姉が写っているアルバム、書き込みがしっかりされている手帳、カラフルなお菓子の空箱に、ほとんどインクの入っていないキラキラペンや、少し色あせたリボン付きの髪留め…… そこにあるもののほとんどは姉の私物だった。そして俺は、夜中に消える瞬間を目撃したあのマグカップも発見した。
 やはり、ここは姉に消された、いや〝飛ばされた〟ものたちが集まる場所だったのだ。
一通り秘密基地の中にあるものたちを見終えた俺は、秘密基地の中に入って座ることにした。
「しかし、なんだってこんなものばっかり……」
ここに飛ばされてきたものたちは、一見するとガラクタのようなものや、思い出の品のようなものなど、共通点がわからなかった。一番共通点が見つけられなかったのは、俺自身だった。言わずもがな俺以外にここには生物はおらず、ほかのものたちとの共通点が見つけられない。
 俺はそのうち考えるのをあきらめた。共通点を考えるのをやめると、今度は俺自身のことについて考えがめぐった。
俺は、このままここから出られないのだろうか。もし、そうだとしたら、現実で俺のことはどうなってしまうのだろうか。幸い家族以外に俺が消えて困る人は会社関係の人ぐらいだ。俺の友達は俺のことを心配するだろうな。そうだ、心配といえば、心配性の姉は大丈夫だろうか。昔から真面目な姉は、自分が俺を消してしまったと思ったら、罪悪感で身動きが取れなくなってしまわないだろうか。
姉の私物たちに囲まれて、俺は不思議な気持ちになった。そもそも、どうして姉はこんなことに巻き込まれているのだろうか。姉は俺が実家を出てからは、どんなふうに生きていたのだろうか。

と、そのとき。少し遠くからズドンと何かが倒れる音がした。
 音のした方を向くとそこには、姉が倒れていた。
「姉貴……!」
俺が声をかけると、姉はこちらを向いた。その顔は汗だくで、泣いているようにも見えた。俺の存在に気付くと、姉は目を見開いて驚いたような顔をしたあとふっと安堵した。俺は秘密基地から出て、姉の元へと向かった。
 姉の側まで来ると、立ち上がった姉は不思議そうにあたりを見渡していた。
「姉貴までこっちに来たんだな」
「秘密基地がある……祐也、ここってもしかして」
姉は秘密基地からはみ出している私物や、俺がいることからすぐにここがどういう場所か察したらしかった。
「ああ、たぶん姉貴が消したものたちが集まる場所だと思う。まあ、なんで秘密基地までここにあるのかはわからないけど」
「うん……でも、祐也が無事でよかった。ごめんね私のせいで。どっかケガしてない?」
「怪我はしてないけど、姉貴こそ大丈夫かよ倒れてただろ」
 よく見ると、姉は体のあちこちに引っかかれたような傷や、泥を付けていた。俺の視線をたどって自分の体を見た姉は、ごまかすように笑って泥を払う。
「あ、うん。たいした怪我とかはしてないんだけど、枝とかに引っかかっちゃって」
「枝?」
 姉は俺の質問に返しながら、秘密基地の方へと近づく。
「祐也が消えてから、なんか秘密基地に行かなくちゃって思って、裏山の中走ってたから。それで、山の斜面で転んだらここに飛んできたみたい……」
なるほど、それで姉は泥だらけになっていたのか。
姉は穏やかな笑顔で秘密基地を愛おしそうに見ていた。
「不思議。ここ最近夢で見てた景色にここはすごいよく似てる」
「そうだ、ここにあるのって全部姉貴が消したものだろ。やっぱり秘密基地が関係してたのか?」
 俺は秘密基地の中からマグカップを拾って姉に手渡す。姉はマグカップを受け取り、まじまじと見た後大事そうに両手で抱きかかえた。
「よかった……ここにみんな来てたんだね」
そんな姉の様子を見て、俺は一つ思いついた。
「なあ、もしかして、この飛ばされたものってやっぱり共通点があるんじゃねえのかな」
「共通点?」
そこまで言って、俺は言いよどむ。共通点かもしれないことを見つけたのだが、それを俺に当てはめるのは少し恥ずかしい。
「あー……その、大切なもの、なんじゃねえかなって」
意を決して言ったその言葉に、姉はピタリと止まった。
考えてみれば、マグカップや毛布、ぬいぐるみなんかは姉が幼いころからずっと使っているものだし、菓子箱やラムネの瓶なんかは、俺には理解できないが大切そうに保管してあったのを、昔見たことがあった。
「そう、かもしれない」
姉は秘密基地の中に入り、今となっては狭苦しい基地の中をゆっくりと見渡した。
「この秘密基地も、祐也も、私にとってすごく大事だから、そうかもしれない」
「……自分で言っといてなんだけど、そうストレートに言われると恥ずかしいんだけど」
 俺も、姉に続いて秘密基地にもう一度入った。昔はふたり入っても余裕があった秘密基地の中は、驚くほど狭かった。
「ふふ、本当だからね。でも、なんでその大切なものがここに集まったんだろ。私もここに来ちゃったし」
秘密基地の中で膝を抱えて座った姉は、やけに小さく見える。けれど、昨日見た親族に囲まれた姉の方がよっぽど小さく見えていたことを思いだす。
「ほかになんかないの。共通点みたいなの」
 大切だと言われているのに耐えきれず、俺は話題を変えようとした。
「そう。さっき、祐也を消しちゃったときに気付いたことがあって。ものを消すときの法則があるかもしれない」
「え、まじか」
姉は俺の方を向くと、両手でぎゅっとこぶしを作る。それは俺が消える直前、母の話を聞いているとき姉がやっていたことだった。
「私がものを消しちゃうときって、何か感情を押さえつけて我慢してるときだと思う」
「我慢……」
「うん。さっきは、お母さんの話にむかついたり反論したい気持ちだったりを我慢してた。マグカップを消したときは、親戚のおじさんたちに言われた、結婚はしないのかって話にうるせーって思ったのを思い出して気持ちが沈んでたときだし。今思えば、一番最初なんかは、飲み会で嫌いな上司に延々と武勇伝と説教聞かされた帰りだったしね」
 そう言い終わると、姉はははっと乾いた笑いを漏らした。俺には全く笑えなかった。姉の顔を見ると、また俺の嫌いな困り笑いを浮かべていた。
「でもなんだろね、我慢でこんなこと起こしちゃうって」
俺は、少し姉にむかついてもいた。どうして、そんな顔をしてまで姉貴は。
「バカじゃねえの」
「え?」
つい、口をついて出てしまった。
「姉貴はさ、昔から心配性ってだけで、得意でもないのになんでも真面目にやって。知らないうちに、相当我慢とか無理とかしてんだろ。そんなのバカみてえ。そんなことして姉貴になんの得があるんだよ」
一度出てしまうと、言葉は止まらなかった。俺は十何年も姉に対して思っていたことを、ついに本人に言ってしまった。
 姉は俺を見て、少しだけ驚いた顔をすると、ため息とも苦笑ともとれる吐息を吐いた。そしてぽつりとつぶやく。
「祐也の言うとおりだよ」
姉はばたんと後ろに倒れこみ、狭い秘密基地の中に寝転んだ。
「ほんとは、ほんとはさ、もう全部投げ出したくて。ずーっと前から投げ出したかった。親の期待とか、上司のご機嫌取りとか、社会にどう見られるとか。全部しらんぷりしたい」
声からは、姉が泣いているのかはわからなかった。けれど俺には、隣で寝転んでいる姉を振り返って確認する勇気はなかった。
「そうは言ってもさ、私自慢じゃないけど、祐也が言ったとおり全部真面目にやろうとしてきたから、やらなくちゃって思ってきたからさ。投げ出せなかった。投げ出すのが怖かった」
俺はなにも言わず、ただ話を聞いていた。
「でもやっぱだめだよ! 一生懸命やろうとしてもなあんにもうまくいかないの! それなのに、楽しいこともなくなっちゃって、もうむしろ笑えてきちゃうよね」
姉の顔を見なくても、痛々しい表情をしていることがわかる。弱弱しい声で紡がれた姉の本音は、この静かな空間で長く余韻を残した。
「だからさ! 今日祐也とバカみたいなことして、久しぶりに楽しかったのがすごく嬉しかったんだ。今日はありがとね」
姉は自分で沈黙を破った。体を起こし、俺の方を見てくる。姉は笑っていた。
「あのさ、俺もう子供じゃねえんだけど」
俺はぶっきらぼうにそう言う。
「え? あ、ええと、秘密基地に行こうとか嫌だったかな。ごめ」
「俺がここに飛ばされたのは、姉貴が俺のこと大切って思ってたんだろ」
姉の声を遮って続ける。
「姉貴が俺のこと大切なものって思ってたんだったら、俺のことも世話しなきゃとか、姉なんだから面倒見なきゃとか思ってたんじゃねえの」
姉は面食らった表情で俺を見ている。
「でも俺、もう子供じゃねえからさ。俺のことぐらい、投げ出せばいいよ」
「う、うん……」
俺は姉貴にずっと言いたいことがあった。心配性で真面目で、不器用な姉に言いたいことがあった。
「姉貴はさ、もっと無責任になっていんじゃね」
それは、ときにむかついて、ときに俺の方が姉貴を心配して、思っていたことだった。
「体裁とか、親の期待とかも姉貴にとって大事かもしんねえけどさ。それよりも先に、もっと自分のこと大切にしろよ」
 俺の言葉を聞いた姉貴は少し黙った後に、かみしめるように俺の言葉を繰り返した。
「自分を大切に、か」
それから、俺たちの周りにある、姉貴が大切にしていたものたちを見渡し、自分を抱きしめるように腕をくむ。
「こんなことが起きて、私がここに来たのもそういうことだったのかな……」
「案外そうかもな」
 俺は茶化すように、鼻で笑ってこう言った。
「姉貴自身も姉貴の大切なものに加えとけば」
それを聞いた姉貴は、一瞬すっきりとした表情で上を見上げたあと、笑みを浮かべた。それは、俺が嫌いではない方の笑顔だった。
 その瞬間、なにかがぱしゃん、とはじける音がしてあたりは白い光に包まれた。

俺たちは、秘密基地の目前にいた。いま目の前にある秘密基地は、さっきまで見ていたものとは打って変わって、かろうじてこの場に何か人が作ったものがあったとわかるくらいで、かなりボロボロに朽ちていた。
裏山のぽかっりと開いた広場に、赤い西日が差し込んでいる。どうやら俺たちは、あの謎の空間から帰ってくることができたらしい。俺たちの周りには、あの空間で側にあった姉貴の私物たちがこんもりと山を成していた。
「帰って、これたのか……?」
「そうみたい、だね」
 俺と姉貴は相変わらず泥だらけではあるものの、ちゃんと現実に戻ってくることができた。お互いに顔を見合わせて、安堵のため息を漏らす。
「よかったあ。出られなかったらどうしようと思った」
「ほんとだよ……仕事のこととか、いろいろ考えちまったし。無事に戻れてよかった」
 心なしか、姉貴は明るい表情をしているようだった。西日に照らされて、まぶしそうにしている。
「なんだか、不思議な一日だったね。結構長い時間あそこにいたのかな。もう夕方になっちゃってる」
「ああ、そうだな」
 ズボンのポケットに入れっぱなしにしていたスマホで確認すると、時刻は午後五時半を過ぎたあたりだった。立ち上がってズボンの泥を払っていると、姉貴が突然大きな声を上げた。
「あっ! 祐也、新幹線!」
「あっ。ああ……」
 もう一度スマホの画面を確認すると、やはりそこには午後五時半を過ぎた時刻が表示される。ひっくり返しても、その表示がかわることはない。
「もう間に合わねえよ。しゃあねえ、明日は有給とるか」
 仕方がない、あんな不思議な出来事に巻き込まれていては、新幹線の時間などどうすることもできないだろう。
「なんて言ってとるの?」
姉貴が心配そうにこちらを見てくる。
「秘密基地で遊んでたら、帰れなくなりましたって」
西日が木々の間から差し込む山の中で、二人分の笑い声がこだました。

その日俺は約二十年ぶりに、夕日に追われて姉貴と同じ帰路をたどった。ふたりして泥だらけのままで、まるで、幼いころに戻ったようで、少しおかしかった。俺と姉貴はなんとなく、もうあの不思議な現象は起こらないだろうと思っている。
次に帰路を共にするのは何年後だろうか。そのとき姉貴は、何を大切に思っているのだろうか。