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Scorpio

 しまった。そう思った時にはもう前髪から雨粒が滴っていた。小雨なら蒔田の家までそこまで濡れずに行けるだろうと、たかを括っていたが自宅を出て少し歩いたところで雨の勢いが増してずぶ濡れになってしまった。どんよりと雨雲が立ち込める日曜の午後三時。昨日の夜から降り出した雨は、降ったり止んだりを繰り返しながら長く続いていた。早く着くために小走りしていたが、ずぶ濡れになってしまった今はもう意味がない。短いため息をひとつついてから、観念して歩くことにした。
 エントランスもない煤けたクリーム色のアパート、『ルミナスはなみ』。そこの二階、一番端の部屋が蒔田が借りている部屋だ。外から蒔田の部屋の窓を見ると電気はついていなかった。
 あいつ人を急に呼んでおいて自分はいねえとかないだろうな。いぶかしみながらアパートの外階段を登る。蒔田の部屋の前につき、呼び鈴を鳴らした。
「はあーい」
ドアの向こうからくぐもった蒔田の返事が聞こえた。まるで寝起きのように間延びした声だ。ドアノブに手をかけるとかちゃりとドアは開いた。なんだ、あいつ鍵かけてないのか無用心だな。
 部屋の中に入ると、むわっとした空気にぶつかった。苦いタバコの匂いと煙が部屋中に充満している。思わずその場でむせてしまった。
「おー、藤野来てくれてありがと。ふは、大丈夫か」
ゲホゲホやっている俺を見ながら蒔田はのんきに笑っていた。
「蒔田お前なんだよこの部屋。空気が淀んでるし、クソ臭えし。窓くらい開けろよ」
そう言いながら靴を脱ぎ、部屋に上がって一目散に窓へと向かう。綺麗好きの蒔田にしては部屋中にものが散らかっていて、窓に行くまでに二回つまづいた。鍵を下ろし、部屋の一番大きな窓をガラリと開ける。窓の外はまだ土砂降りだった。まあ、雨でも窓を閉め切るよりマシだろう。
「わあ、土砂降りだねえ」
 蒔田が俺の横に来た。どうやらタオルを持ってきてくれたようで、濡れネズミのまま部屋に入ってしまった俺に手渡してくれた。
「あ、わりい、濡れたまんま入っちまった」
「いいよいいよ」
「すまん、ありがとう」
もらったタオルで全身を拭きながら、俺の隣に来た蒔田の顔をまじまじと見る。おそらく整えていないだろうヒゲがちらほらと生えていて、髪の毛もボサボサだった。学期末に会ったときより小汚くなっている。元からへらへらした笑い方をよくするやつだったが、今日はへらへらというよりはなんだか覇気のない顔をしていた。大学が長期休みに入ったとはいえ、少し気が抜けすぎだ。
 と、思っているうちに蒔田は新しいタバコを一本取り出し火をつけ始めた。振り返って見てみると、部屋のローテーブルにはパンパンに吸い殻の入った灰皿が置いてある。
「お前ほんとによく吸うよな」
「ん?ああ、タバコ?」
蒔田は灰皿を目の前にして床にどかっと座る。
「程々にしとけよ」
俺もローテーブルを挟んで蒔田と向かい合うように床に座った。蒔田に借りたタオルのおかげで、びしょびしょだった俺の身体はしっとりとしてはいるものの多少マシになった。
「んー、そうね」
タバコの先がチリチリと燃える。蒔田は煙をもわと吐き出しながらへらりと笑う。
「まあ、ほんとはあんまりタバコ好きじゃないんだよねえ」
「は?」
そんなこと初めて聞いた。というか、意味がわからない。
「好きじゃねえなら吸わなきゃいいじゃん」
「ほんとだね、ははは」
蒔田はまたへらへらと笑う。タバコを吸う特別な理由があるのかと思ったが、はぐらかされてしまった。ちらと正面を見たが蒔田は俺から視線を外していて目は合わなかった。まあ、他人にあまり踏み込んで欲しくないのなら、と思いそれ以上の追求はしない。浅く広くが俺の交友関係のモットーだ。
「つか、結局なんで俺は急に呼ばれたわけ?」
蒔田は、あ、そうそう、というとローテーブルの下をごそごそあさり始める。
 昨日の夜、蒔田から急に連絡が来た。学期末に授業で会ってから蒔田とは全く連絡を取っていなかった。俺たちはめちゃくちゃに仲がいいというわけでも、すごく仲が悪いというわけでもない。たまたま同級生で学部が同じだったから仲良くなって、何回か遊びに行ったこともあるくらいだった。だから、昨日急に蒔田から連絡がきたとき、俺は少し不思議に思った。というのも蒔田の連絡は、「明日会えない? 都合の合う時間でいいからおれの家にきてくれないかな」とそれだけで、なぜ俺が、何のために呼ばれたのかは全くわからなかったのだ。
「あったあった。藤野これ読んでくれない?」
 そう言って蒔田は少しシワのついた紙の束を渡してきた。受け取ったそれは、原稿用紙だった。
「なにこれ。レポートの課題とか出てたっけ」
「違う違う。おれが個人的に書いたの。……小説ってか、童話みたいなん」
 俺は蒔田の言葉に面食らった。確かに、原稿用紙の一枚目、一番最初の行にはなにか話の題名のようなものが書かれている。
「課題…じゃないんだよな」
俺たちは文学部に所属してるとはいえ、物語を創作しろみたいな課題が出たことはない。それに、いま蒔田は個人的にと言った。
「や、おれさ童話作家になりたくて」
「は?童話作家?」
聞き間違いかと思った。なぜ、童話作家? 俺の中での蒔田のイメージからは全く導き出されない言葉だ。
 俺が驚いているのを気に留めず、蒔田は続ける。
「おれさ、結構童話とか好きなんだよね。宮沢賢治が一番すき」
そう言われてふと思い出した。蒔田はそこそこの読書家だ。ローテーブルを挟んで向かいににあるベッド、その枕元には小さな棚がある。そこには文庫本が所狭しと並んでいた。目を凝らすと確かに文庫本のなかに宮沢賢治の作品が多くあるのがわかる。
「だからおれも書いてみたいなーって思ってさ。なんというか思い立ったが吉日的な感じで」
 蒔田はちびになったタバコを、灰皿のかろうじて空いていたスペースに、じゅ、と押し付けた。
「ふーん、なるほどな。まあ、驚きしたけどいいんじゃないか」
 本を読む人間というのは、得てしてそのうち自分でも物語を想像してみたくなるらしい、というのは別の知人に聞いたことがあった。蒔田の読書量から考えても物語を書きたい、と言い出すのは珍しくもないのだろう。
「で? 童話ってどんなの書くの」
「ハッピーエンドかな!」
 蒔田は指をパチンとならす。
「やっぱ世の中ラブアンドピースで行かなきゃ」
蒔田は笑いのセンスがないと思う。俺がなんと返したものかと黙りこくっていると、蒔田が聞いてきた。
「藤野はハッピーエンド嫌い?」
「いや、まあ嫌いじゃないけど。特段好きでもないな。バッドエンドも割と好きだし」
「そうかあー。俺は平和な方がいいと思うんだけどな」
蒔田は下を向きながらそう言った。その言い方はなんだか物悲しかった。物語の話ではなく、本当にこの世が平和でないことを憂う目をしている。
「蒔田は優しいと言うかなんというか、お人好しだよな」
俺が思い出す限り、さっきような憂う目を蒔田はよくしている。自分ではない誰かや何かを憂う目。
「え? そうかな」
とぼけた顔をしている。こいつ自覚はないのか。
「そうだよ。ほらこないだ置き傘の話してたろ」
 この間、たまたま蒔田と授業が一緒だったときに聞いた話だ。蒔田がバイトに行った日。バイト中、急に天気が変わり今日のような土砂降りになったらしい。その時蒔田はバイト先に置き傘をしていた。しかし、ちょうど帰ろうとした時に傘置きを見ると自分の傘はなく、ふとみた窓の外にはバイト先の先輩が蒔田の傘をさして歩いていた。
「あー……まあでも、おれがちょっと我慢して他の人が気分良くいられるならいいかなって」
話を聞いた時も同じことを言っていた。こいつは何がおかしいのか全くわからないという顔をしている。
「それに安いビニール傘だったし、いいかなって」
そしてまた、へらりと笑った。俺は軽くため息をつく。
「お前がそれでいいならいいけどさ」
 っくしゅん。
 言い終わると同時にくしゃみをしてしまった。タオルを借りたとはいえ、そこそこずぶ濡れになっていたから身体が少し冷えてきたようだ。
「ん、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
蒔田に返事をしながらティッシュを探す。ティッシュを探しているのに蒔田が気づいて、足元に置いてあった箱ごと俺に差し出してくれた。
「結構濡れたみたいだし、シャワー浴びてけば? シャンプーとかも使っていいし」
雨の中呼び出してしまったことに罪悪感を覚えているのか、それともいつものお人よしなのか蒔田は眉を少し八の字にしてこちらのようすをうかがっている。
「いや、いいよ。お前んちのシャンプーなんか甘い匂いして嫌なんだよな」
「そうか……なんかごめんなあ」
やはり罪悪感の方が強いのだろうか。そもそも蒔田に非はなく、油断して傘を持ってこなかった俺が悪いのである。
「謝ることじゃねえけどさ。……そういやなんでお前あのシャンプー使ってるんだ? あれ女ものって誰か言ってなかったっけか」
 蒔田はなぜかいつもやたら甘ったるいシャンプーの匂いをさせている。それが気になっていたのは俺だけではないらしく、前に誰かにつっこまれているところを見たことがある。匂いの強いシャンプーといっても、その匂いが蒔田ではなく女子からしていたらみんな気にしていなかっただろう。その匂いは明らかに女性ものの香りで、蒔田は女性ものを気に入って使うような人ではなかった。
「あれはねえ、元カノが持ち込んんだものでさ。別れちゃったけどいっぱい残っててもったいないし、節約にもなるから結局使ってる」
は?
 今日何度目かの『は?』をかろうじて飲み込んだ。蒔田に彼女がいて、少し前に別れていたことは知っていた。しかし、いくらもったいないからといって、元彼女のシャンプーをそのまま使って蒔田は大丈夫なのだろうか。だってその彼女は
「だってお前、あの子と別れたのって」
蒔田の元彼女は蒔田を利用するだけして逃げたのに。
「いや、なんでもない、すまん」
すべてを蒔田本人の口から聞いたわけではなかったが、蒔田が別れるときに相当我慢をしていたのを俺は何となく知っていた。
 その彼女というのは割と自由奔放な子だった。自分のやりたいことをやり始めると周りが見えなくなり他人に迷惑をかけることもしばしばあったと思う。もちろん一番近くにいた蒔田は一番被害を被っていたといっていいだろう。けれど、蒔田はそれをいつも笑って受け入れて、自分がなにかを我慢しなければならないなら喜んで我慢していたようだった。
「えー? なんで藤野が謝るんだよ」
「ああ、まあ……うん」
俺はなるべく面倒ごとにあいたくないので少し離れてみていたが蒔田には多少同情していた。それでも、蒔田が彼女と一緒にいたのは彼女のことを一図に想っているからだというのは、ひしひしと伝わってきていた。それはもちろん彼女は痛いほどわかっていて、その上で彼女は蒔田の好意を利用していたのだ。わがままを貫き通すのはあたりまえで、お金の面では蒔田に頼り切り、悪く言ってしまえば蒔田は彼女の召使のようだった。挙句の果てに彼女は他に男を作り半同棲状態だった蒔田の家を出て行ったらしい。
「藤野はまだ心配してくれてるの? 優しいなあ。でもさすがにもう大丈夫だよ、ありがと。それに後悔はしてないし」
ふと、思い出した。そういえば浮気されて好きだった彼女と別れた時も蒔田はお人よしだった。いや、お人よしというには少し違うかもしれない。そのとき、蒔田はなんでもないようにへらりと笑ってこう言ったのだ。
「結果おれは報われなかったけど、彼女が幸せならそれでいいよ」
自分のなかで思い返していた言葉を、いままさに目の前の蒔田が言った。思わず顔を勢いよくあげてしまう。急に顔をあげた俺を蒔田は不思議そうに見ていた。目が合う。その時なんとなくわかってしまった。
 蒔田は、自己犠牲精神のかたまりなのだ。なぜかは知らない。けれど彼は本当にいともたやすく自分を他人のために投げ出せる人間だ。
蒔田の目は暗かった。目を合わせたとき、それはどこまでも続く空虚な穴に見える。まるで、自分が生贄にでもなって世界を救うのだ、とでもいわんばかりの目だと思った。俺には到底考えられない。
「蒔田さ、お前どうしてそんな風でいられるんだ?」
 口をついて出てしまった。俺は、特定の人と深い交友関係を持つのはめんどくさい、そうつねづね思っている。だから、なるべく相手の内側に踏み込むことはしない。しかし、そのポリシーを無視してでも訊いてしまうほどの奇妙さが、大きな違和感となって俺の目の前に座っていたのだ。
「そんな風って?」
「なんというか、お前はすぐ自分は我慢をしてでも他人の幸せを願うだろ。どうして、そんな風に自分を犠牲にできるんだ?」
 俺にそういわれた蒔田は、ゆっくりと目線だけを下にもっていった。それから、ほんの一瞬だけ物憂げな顔をして二本目のタバコを取り出した。ライターの火がついて、タバコの先でゆらりと揺れる。
「許される気がして」
「許されるって、なにから」
蒔田は細く長く煙をはいた。土砂降りの雨はまだ続いていて、俺たちの間には雨の音だけが漂っている。
「……昔、自殺を手伝ったことがある」
その一言で俺は固まってしまった。自殺? 手伝った?
「実際におれが手を下したとかそういうわけじゃない。ただ、自分が自殺したあと事故か他殺に見せかけてくれないかって言われた」
蒔田がなにを言っているのかがうまく理解できなかった。急に何か上からつぶされているような感覚に襲われる。電気をつけていない室内は暗い影の中に包まれているようだった。
「だからおれは、あいつが首を吊って自殺した後、死体を近所の工事現場に運んだんだ。それから、その上に鉄骨を倒した」
蒔田の手の中のタバコはじりじりと燃えて灰がぽたりと落ちる。先から細い煙の糸が伸びるだけで、それは吸われずただ灰になっていく。
「でも、今でも後悔してる」
蒔田が自殺を手伝った? 信じられない。
「あいつが、死ななくたっていい方法があったかもしれないのに」
この言葉を放つときだけ、蒔田の喉が震えた気がした。下を向いたままの瞳が閉じられる。
 しかし、蒔田の言ったことは本当なのか? もしそうだとして、蒔田はそれを悔やんで自らの罪から逃れるために自己犠牲をはたらいているということなのだろうか。仮にそうだとしても、俺はいま、目の前の縮こまった男になんと声をかけていいかわからなかった。
「なんてね、冗談だよ」
二度ほど声をかけるタイミングを見失ったところで、唐突に声がかかった。蒔田の顔を見ると、先ほどとはうって変わってにへらとした笑顔が引っついている。
「……どこから?」
大きくため息をつく。まさかするわけがないと思ってはいたが、あまりにも雰話を始めて囲気が変わったせいで信じかけてしまった。少し自分にあきれる。
「さあ、どこからでしょう」
蒔田は無駄に短くしたタバコをふかしながらはぐらかした。
「でも、心配してくれたでしょういま。ありがとう」
「はいはい、どういたしまして」
こんなものに引っかかってしまった自分が恥ずかしくて、少しぶっきらぼうに返す。どうせ蒔田も俺のことを笑っているのだろうと思って前を見た。けれどそこいた蒔田は妙に穏やかな顔をしていた。
「藤野は優しいやつだね。心配もしてくれるし。でも、必要以上は踏み込んでこない」
 からかわれたと思ったら今度は急に褒められた。蒔田の意図が見えなくて俺は混乱する。
「だから藤野といるのは楽だ。ほんとにありがとう」
俺が眉をひそめて蒔田が話すのを見ていると、蒔田はまたへらりと笑ういつもの顔に戻った。なんだかその見慣れた笑顔が少し引っかかった。蒔田はいつも何かをへらへらとした笑顔の下に隠しているのではないか。
っくしゅん。
 二度目のくしゃみがでた。いい加減このままだと風邪をひいてしまうかもしれない。
「まあ、なんでもいいけど、とりあえず俺は今日これを読まされにきたってことだったよな」
だらだらと無駄話を続けていて、すっかり本題を忘れていた。しかし、さすがに雨で濡れた体が冷えてきてしまっている。なるべく早く話を終わらせて帰ったほうがいいかもしれない。
「そうそう、読んだら感想をくれたらうれしい。それ持って帰っていいからさ」
蒔田もこちらの思考を読み取ってくれたようだった。俺もお言葉に甘えようと思う。借りていたタオルを蒔田に手渡す。
「これありがとう。ちょっと濡れちゃったし早めに帰るわ。これ持って帰って読むな」
「ん、わかった」
蒔田はタオルを受け取って、立ち上がり玄関の方へ歩いて行く。俺も蒔田に続いて行った。手ぶらここまできた俺のために、蒔田は玄関で傘を一本俺に渡してくれた。
「これ返してくれなくても大丈夫だから」
「今度会った時に返すわ」
そういうと、蒔田は曖昧に困ったように微笑む。不思議に思っていると、蒔田は謝ってきた。
「ごめんなあ」
「は? なにが」
蒔田はほんの少しだけくらい空気をまとった。けれど、すぐにまた笑う。
「…いや、急に呼び出したから。ごめんな」
蒔田の笑顔をみるとまた、なんだか形容し難い気持ちにとらわれた。どこか不安なような悲しいような気持ちに似ていて、けれどそう感じる理由もわからない。
 うまく返事をできないまま、靴を履いて原稿用紙と傘を持って玄関の扉に手をかける。
「じゃあ、またな」
「じゃあさよなら」
 扉を開いて外に一歩踏み出した時、蒔田が小さくつぶやいたのが聞こえた。
「タバコいっぱい吸うのはさ、早く死ねると思ったんだ」
驚いて振り返ると、タイミングよく扉が大きな音を立てて閉まった。アパートの廊下には雨粒がコンクリートを叩く音だけが響いている。俺は蒔田の部屋のドアをしばらく見ていたが、俺にはもう一度開けることはできなかった。奇妙な胸のつっかえを抱えながら俺は蒔田の家を後にした。

 作品の感想を伝えるのと傘を返しに、後日蒔田の部屋を訪ねるとそこに蒔田はいなかった。新しい学期が始まっても大学に来ることはなく、最後に会った日から連絡も取れなくなっていた。蒔田はいわゆる〝蒸発〟したらしかった。最後に会ったときにあんな冗談を聞いた俺は、ずっと嫌な予感を抱えていたが、それを確かめるすべもなく時間がただ過ぎていくのを見送るしかできなかった。
蒔田が書いた童話は、宮沢賢治の銀河鉄道の夜に出てくるさそり座の話がモチーフだった。自分より弱い多くの虫を殺して食べていたさそりが、死ぬ間際になって自らの行いを悔い改め神に祈ると、その体は赤い火となり星となり皆を照らすようになったという話。その物語を、さそりを主人公にし、自分の解釈で一本の童話として書き直したものだった。素人の作品らしくすごくどこかがとびぬけているわけでもなく、良くも悪くも平凡な作品だった。
なぜ、最後に俺に会って、この童話を俺に渡したかはわからない。蒔田はさそり座の赤い星になったのかもしれない。あいつはあいつしか知らない自分の罪を償って消えたのかもしれない。そんな、なんの根拠もない曖昧な推測を俺は繰り返し考えていた。