実は嫌だと感じること

「僕は初対面の人と会うのは嫌だ」。これを記事に書いてしまっていいものかと悩んだが、正直こういう事をさらさないとこの先の自分の熱量やらなんやらが伝わらないと思ったので書いてしまうことにした。これを記事にしようと思ったのはこの前友人と話している時に少し予想外なことを言われたからだった。その友人は間違いなく僕のことを最も長く見てきているのだけれど、彼の中で今の僕はどうやら「初対面の人とも結構話すイメージ」になっていたらしい。

行動で人は変わる

実際に思い返せばここ何年かは特に初対面の人と話すことを避けたりはしなかったし、むしろ積極的だった。だから彼のいうことは正しくて、僕は初対面の人とでも良く話す。(この前の忘年会で話しかけた中の一人への第一声は「髪型カッコいいですね」だった。)#”I like your hair cut”のノリ

自分でも日本人の中では人との交流が苦手か得意かで言ったら得意な部類に入ってきたと思う。昔は本心に忠実で他人に話しかけるなんてことはなかったのだけれど、行動したら人は変わるんだなあと思った。つまり僕は「初対面の人と話せない人」から「初対面の人と話せる人」に変異したらしい。

でもそれが嫌であることに変わりはない。僕の場合、人に話しかけに行くのが得意にはなったが好きになったわけではない。もちろん人に会いに行くことはそもそも自分が必要だと考えて意識するようにしたことで意図して行っている。そうなった今でも内向的な性分が残っているのはおそらく多くの人と同じで、「話しかけるのに緊張する」「何を話したらいいかわからない」「タイミングが見つからない」みたいな不安を元々強く感じるからだ。

程度の違いはあれど僕はそういうのを毎回のように感じているし、実際に交流の場にいる他の人たちの中にだっておそらくそう感じている人は少なくないはずだ。何が言いたいのかというと、「嫌いだろうが何だろうがやり続けなければならないことがある」ということ。

好きなこととなりたいもの

「好きなことだけして生きる」は結局辛いだろうなと思う。なぜなら”好きなこと”をやるだけでは”なりたいもの”にはなれないから。そんなことは分かっていると言いたくなるだろうけど、「好きなこと(やりたいこと)をやればいい」みたいな言い方をする人が今もいるから反論しておこうと思う。多分みんながみんなその言い方のまま考えて発言している訳ではないだろうけど、こういうのは特に子どもにとって誤解を招きやすい。

「なりたいものになるには嫌いなこともやらなくてはならない」。これはみんな分かっているはずなのになぜ伝え方を間違えるのかというと、「嫌いなことが楽しめない」からだと思う。僕は目標のために自分で人脈を作りたいから嫌でも人に会いに行くのだけど、これは決して嫌々やっているわけではない。話しかける前とか声をかける瞬間は本能的に嫌だなとすごく思う。けれどその日どんな人と巡り合えるかを考えることとか話せるようになった相手と仲良くなるのは好きで、その過程にあることだと考えれば嫌な事を楽しむのはそう難しくない。そうやって嫌いなことを楽しめるようになる練習をすることが好きなことをやるよりも大切だと僕は考えている。

長々ときれいごとを書いていた気がするけど、自分の考えを発信するブログだからまあいいでしょう。それに読者の中の一人でも自分の活動に活かしてもらえたらそれで問題ない。だからちょっと嫌だったけどキツめに最後まで書いてみた。

せっかくここまで読んでくれたのであれば、やるべきことを好きなことか嫌いなことかで判断するのではなく、嫌いなことでも楽しめるようになる努力をしてみて欲しい。わかってるけどできないはナシ!笑 #知行合一

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