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アリとキリギリス、どちらの生き方が正解か

アリとキリギリス」という童話がある。

元は「アリとセミ」というタイトルだったらしいけど、セミはヨーロッパ北部であまりなじみのない昆虫だったためキリギリスになったのだとか。

あらすじはこう。

夏の間、アリたちは冬の食糧を蓄えるために働き続け、キリギリスはヴァイオリンを弾き、歌を歌って過ごす。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、最後にアリたちに乞い、食べ物を分けてもらおうとするが、アリは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだい?」と食べ物を分けることを拒否し、キリギリスは飢え死んでしまう、というもの。

この話は後に、食べ物を分け与えることを拒否し、キリギリスが飢え死んでしまうのではあまりに残酷ということで、アリは食べ物を恵み、それを機にキリギリスは心を入れ替えて働くようになる、という展開に改変されたそう。(ここまではWikipediaより引用)

僕が幼い頃に読んだ絵本は、確かこちらの結末だったように記憶している。


創作なのかどうか定かではないけど、この話には実は3つ目の結末が存在しているらしい。

食べ物を恵んでくれと告げたキリギリスに対し、「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだい?」とアリが言い放つところまではオリジナルと一緒だけど、最後にこれに対してキリギリスが一言言い残して終わるのだそう。何と言ったか。


『歌うべき歌は、歌いつくした。私の亡骸を食べて、生きのびればいい。』


この3つ目の結末を知った時、

「キリギリスかっこいい!けど、性格の悪そうな虫だ」と思った。


この物語に登場する2種類の虫には、どちらも良いところがある。どちらか一方が正解ということはないと思う。


米コーネル大学の研究によると、人は死ぬ前に「理想の自分として生きることができなかったこと」を最も後悔するらしい。


アリのように、先々を見越し蓄えを備える、用心さと勤勉さは見習うべきだ。

しかし、キリギリスのように、自分が夢中になれるものを見つけ、燃え尽きるまでそこに魂を注ぎ続けることができれば、幸せな死を迎えることができるだろう。



責任や立場、未来にばかり気を取られて、今という時間を蔑ろにしてしまえば、いつか後悔する日がやってくるかもしれない。過ぎ去った時間は二度と戻ってはこない。

好きなことに没頭できた方がきっといいけど、同時にしたたかな一面を持ち、そこから副次的に何かしらの蓄えが得られる道筋を選べたらスマートだ。



もし蓄えを築くのであれば、生活に不足してきたものを自給できる技術であったり、何もないところからお金を生み出せる能力といった、不測の事態にも対応できる柔軟性を磨くことの方が賢明だと僕は思う。これが余白力だ。


好景気真っ只中で作るビジネスや暮らしよりも、不景気真っ只中で作るビジネスや暮らしの方が骨太であるように、今、自分にとっての理想の生き方を探っていくことは、逆にチャンスであるとも言えると思う。


未来に対するイメージを空白から余白に変え、今この瞬間に自らが手にしている余白を、どう充実したものに変えて過ごしていけるかを考え続けていきたい。

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