生きてさえいればベーグル食える
なんにもなくたって人は生きていていい。
取り柄、特技、生きがい、趣味、あったら生きやすさにつながるが、実は何もなくたっていい。
そんなはずなんだけど、どこかそう思えない自分がいる。一方で、生きるのに理由はいらないことを完全理解している自分も確かに存在している。
対極の考えを持つ二人の自分に、長い事振り回されている。
そしてこれを書く私はきっと三人目の自分か何かだろう。
この至ってシンプルな論争を、殊更厄介にさせてるのが、週5日の8時間という生活の大半を占めている「仕事」の存在だ。
私は、なんとなく勤めている仕事を結構一生懸命に頑張ってしまい、なんとなく生きていいと思えてしまっている。
「仕事は生きがい!」
そんな風に思える場合、間違いなくその人にとって仕事は良い作用をもたらしている。
だが、私の場合はなんとなく生きていていいかもレベルに過ぎない上に、なんとなく就いてる仕事で、手っ取り早く生きていていいを獲得しようとしている。そして無駄に疲弊。
そんな自分の現状に気付くたびに、このまやかしの「生きていていい」という肯定感の実態のなさにがっかりするのだ。
だけど、やっぱりなんとなくでも生きていていいと思えちゃってるから、仕事は無意識に頑張ってしまう。責任感とかもちょっとある。
やりたいことを見つけるため、行動とか人生にある程度の納得感を得るために、高卒の道を選んだ。学びたいことが特段ない状態で、高いお金を払い、大学に行くのはしっくりこなかった。いまでも間違ってなかったと思う。
そんな私は今、生きていくために登録した派遣会社を通じて、なんとなく巡り合った会社に派遣され、なんとなく労働している。
仕事をしていると、会社という組織の力を借りて社会の一員に慣れたような顔になれてしまう。それで、「生きていていいかも」などと、錯覚でも思えるような気がして、頑張ってしまう。
結局それが、一番遠回りであることに薄々気付きながら、今週もがっつり5日間頑張ってしまい、くたくたになってる。
自ら、「人は何もなくても生きていていい」という本質的な考えから遠ざかる。
「こんな今週だったけど、生きていていいんだよ」
実際声がするわけじゃないけど、どっしりと奥底に存在する何人目かの私が今週もそうやって正当化してくれ、華の金曜日を迎えることができた。
できるだけ、なんでもない生活を送る。毎日生きることはなんでもないの積み重ねだと思う自分と、一度きりの人生を少しでもいいものにしたい自分とがぶつかることはないものの、何度もすれ違っている。
最近、朝ご飯にパンを食べ始めた。パンは、謎の拘りから10年くらい食べていなかったが、思い切って拘りを棄て、踏み切った。これも、なんでもない生活の一環だ。
朝ご飯をパンにしてから、起きるのが楽しみになった。自分にがっかりすることよりも、今日はあのパンが食べられるという楽しみが勝るのだ。
パン、パン、といってるが、正確にはベーグルにハマってる。いつか自分でも作りたいけど、まだベーグルにおける真の好みが、自分でも分かっていない。
研究のためにしばらくはまだ、市販のを食べていようと思う。
ブルーベリーベーグルの朝
レーズンカンパーニュの朝
くるみいちじくベーグルの朝
かぼちゃベーグルの朝
紅茶のホワイトチョコベーグルの朝
夫作ドーナツの朝
ついに作った自作ベーグルの朝
米粉で非常に簡単に作れるレシピがあったので、ついに自作した。
初めての割に美味しかったのは、レシピの作者が神様であるという証明である。
米粉はg単位で質感が変わるらしいので、ここから自分のベーグルを探求でもしようかな。
今就いてる職がなんとなく就いた仕事だとしても、高卒で自分のやりたいことを見つけられてなくても、生きてさえいればいいじゃんか。
生きてさえいればベーグルが食える上に、なんと作れもするのである。なんだっていいんだと思う。
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