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当麻の記憶#3 東地区の昔話と蛇にまつわるお話

原口博己さん(昭和13 年5月13日生)は、6歳の時に当麻町中央3区から当麻町東1区に移り住みました。おそらくですが、太陽が昇る位置に地域があるため東区と呼ばれるようになったのだと考えられます。
今は町内の小学校は当麻小学校と宇園別小学校の2校ですが、昔は各地区に小学校がありました。東地区にも東小学校があり原口さんが引っ越した頃は40人ほどの生徒が通っていたそうです。当麻中学校の分校としても機能しており、中学2年まで校舎で勉学に勤しんでいました。東小学校は複式学級だったことから、一つの教室で違う学年の生徒が学習をしていました。教科書も上級生が使ったものを引き継ぎ使用していたそうです。学校のそばには防空壕があり、上級生が役割分担し避難した記憶があると話して

当時の東小学校


小学校の跡地には東地区の公民分館がある


屯田兵入植当時、当麻村は永山村に属し、隣村である旭川村(後の東旭川村)との境界線が牛朱別川でした。牛朱別川から東に位置する中央4、5区と東地区は旭川村に属していましたが、地域に教育施設がなかったことから明治43年、住民の寄附により「東旭川村第五教育所」が開校。大正4年に当麻村に編入となった後は「当麻東小学校」として地域の教育を支えてきました。
昭和43年に当麻小学校に統合されましたが、「先祖代々の建物だから大切にしよう」と門柱はそのまま残されました。東小学校があった場所には現在、東地区の公民分館があり入口には、今でも当時の門柱が残っています。


今も残る東小学校の門柱


原口さんによると廃校となった翌年に当麻町武道館(町4東3)が完成しており、この建物の一部には東小学校体育館の木材が使用されているそうです。

武道館には東小学校体育館の木材が使われているのだとか…


山間部にある東地区。原口さんが子どもの頃は山で木の実を採ったり、川に飛び込んで泳いだり、魚釣りもしたそうです。自動車の無い時代だったので冬には高台にある学校から道路を横切り、田んぼへの斜面を使ってスキーを楽しんだそうです。
東地区には「東墓地」があります。昔はここに火葬場があり“○○せいじろう”さんと言う方が火葬を行っていました。せいじろうさんは蛇採りの名人だったそうで、蛇が多かったこの地域の蛇をボランティアで捕獲し、地域の人から感謝されていたそうです。そんなことから蛇の“へ”の字をとって“へいじろう”さんという愛称で親しまれていたそうです。

東墓地。ここには昔、火葬場もあった


蛇にまつわるお話をもう一つ。原口さんのお父さんは蝮まむしの焼酎漬けを作っていたそうです。この焼酎漬け、足に塗るとスカッとして足が軽くなったように感じることから、運動会になると地域の子どもたちに塗るように勧めていたそうです。本当に足が速くなったかどうかはわかりませんが…

今も東地区公民分館の横には小学校グラウンドの名残がある