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5月15日

いつまで続くかわからないが日記を綴ってみることにする。
私はこういった日記などは3日坊主、続いても1、2週間しか持たない人間である。さぁ、この日記はいつまで続くであろうか。

私は現在、自分の甘さや情けなさに絶望している。

生まれてこの方自分で言うのもアレだが流れに身を任せのほほんと生きて来て、今は都内のそこそこの大学に籍を置いている。
お金に困らず生きてきたし、結構なんでもできるような環境が整っていた。

自分から見ても、人から見ても、恐らくそこそこ順風満帆だと言えるようなこれまでから、ちょっと病みを拗らせている現在の状況を述べていくこととする。

小学校高学年の頃、ちょっとした悪さがカッコイイと感じる、いわゆる反抗期であったため、先生に軽く反発したり、挑発的な態度をとったことがあった。だから、自分は先生にあまり好かれるようなタイプではないと感じこのまま中学に進んで内進を稼ぐのは自分には向かないと思った。また、周りも塾に通っている子が多かった。したがって、小学校6年生の時、中学受験の勉強を始めた。そして、第一志望の中高一貫校に合格することができた。

中学の最初は恐らくみんな勉強してないなか勉強していたため成績は良かった。中学校の半ばから高校にかけては、中だるみはあったものの、試験の前に配られるプリントや授業のノートなどを暗記したら定期試験はそこそこの点数が取れた。授業中に居眠りをしていたり、聞いていないことも多々あったが、試験前一夜漬けで諦めず丸暗記をすればどうにかなるのである。

そして高校2年生になる前、文系理系を決める際、学校では2回の調査があった。ここはとても悩んだ記憶がある。私の学校は6割ちょっとが理系に進む。数学や理科が得意な人は理系に行くイメージがあったので最初は理系に進もうかと考えていた。しかし、理系に行って医者になりたい、とか化学や物理などの特定の科目が好きというわけでもなかったため文系に進むのもありだと思った。

このころから感じていた。私は本当に好きな教科、得意な教科がなかった。そのため「好きな教科や得意な教科は何?」という質問に対して困った。
人間同士の会話なら「ありません」と正直に答えることもできるが、マークシートの調査などでは「なし」という項目がない。だから適当に答えるほかなかった。

このような感じで自分では決めきれなかったので、両親や学校の先生、恩師からはアドバイスをいただいた。
父からは、自分が製薬会社に勤めているのにも関わらず今まで何も興味を持たなかったよね、といわれた。
学校の先生からは、将来を考えても文系の方が働き口が広い、と言われた。
恩師からは、どっちでもいいと言われたが文系もいいと言われた。
したがって、文系を選択した。数学などの理系科目に当時は苦手意識を感じていなかったため、国公立受験を目指して勉強を始めた。国公立を目指せば私立にも受かると思っていた。
そして予備校にも通った。
当時私は定期試験は点数が取れるものの模試の成績はそれに比べると悪かった。また、周りの子が部活を引退し勉強をし始めどんどん抜かされていたため、自分は容量のいいタイプではないと感じた。なので、高3の夏休みには朝一番に予備校に乗り込み、夜も最後までいる生徒トップ5に入るくらいまで勉強していた。(予備校の先生の脅しもあって笑)
しかし成績はそんなに上がらなかった。でも受験生は最後で伸びると言われているし最後まで頑張ろうと思っていた。
まぁそんなこんなで勉強していて秋頃を迎えたある日、指定校推薦の話が出てきた。今まで定期試験で成績を稼いできた分5段階評価はそこそこ良く、私立のいいところが狙える位であった。しかし私は、今まで困難なことに立ち向かったことがない、苦労をしたことがない、国公立を一応目指している、などから指定校推薦は取らないと決めていた。
また、私の高校は先生が推薦を進めてくることもなかったし、どちらかといえば反対していた。
そして指定校推薦の紙の提出期限一日前、家で夜に勉強していたところ母親に推薦をとってくれないか?と声をかけられた。祖父が入院し余命宣告を受けていることやチャンスなんだから受けときなさいと言われた。私は国公立を目指し受験という壁を乗り越えたいため嫌だ、と断ったが結構頑なに言われたため指定校推薦の紙を提出することに決定した。
まぁ薄々、私もこれではなかなか志望校の合格が厳しいだろう、とちょっとは感じていたこともあってか、推薦を取ると決めたら真剣に受かろうと思った。

少しのドキドキ感の中、無事指定校推薦に合格した。この頃、周りの子は勉強の佳境に入っていたためその雰囲気を崩してはいけないし、みんな受験で合格できるか不安なのに私だけ合格してて何だか申し訳ない、と思っており、予備校には冬まで通い続け勉強をした。

そんなこんなで大学生になった。指定校推薦の面接の試験場で大切な友達ができた。また、すぐに辞めてしまったがサークルでも大切な友達ができた。
その友達と結構遊んだ。この頃も中高の時も、友達と会うのは少し疲れるけれども楽しいし別に一緒に住める、とも思っていた。

そして最初の方はサークルに所属していものの、順調な大学生活を送った。
自分にもそこそこ自信があった。

大学2年に入るとコロナになり、色々な状況が重なって摂食障害を発症した。この頃から友達と会うのが直前になって億劫になったり、自分なりの食事のこだわりから遊ぶ頻度が減っていった。そして、精神科に通うこととなった。医師からは、バイトもできるだけやらない方が良いといわれバイトもやらなくなった。やめてから2ヶ月位はまだ働けるぞ、とも思っていたがバイトをやらない期間が伸びれば伸びるほど別にやりたい気が起きなくなった。今思えば、そんなにやりたくもないバイトを、「辞めた方がいい」と言われたことを言い逃れにしてやらなかったと思う。
家族には食べ物を強要するようになり、かなりの迷惑をかけたがある程度根気よく付き合ってくれた。少しでもいい方向に改善してほしいと思ったからであろう。

大学2年の夏休みには親に勧められ内観というものに行く。
6畳ほどの和室の中の畳一畳半に屏風を立て、両親や祖父母などの自分に身近な人に対し、していただいたこと、して返したこと、迷惑をかけたことを思い出すのである。食事の時間、寝る時間、トイレと入浴の時間以外は屏風に囲まれた狭い空間にいた。達観することはできなかったが、自分がさまざまなことをしていただき、いかに迷惑をかけたかを改めて実感し感謝もした。また、この内観中、自分の養育費を計算した。常識知らずで見当違いの算出となっていたが、自分が恵まれていることも実感した。でもそれと同時に今あるこの強い気持ちはいつまで続くだろうな、とも思った。案の定思った通り徐々にこの気持ちは薄まっていった。

大学の授業はオンライン授業が中心なこともあり単位を落とさない程度にやっていた。私の大学の単位は文系の学部ということもあり、単位は降ってくるとまでは言わないが、基本的に簡単に取ることができた。

そんなこんなで大学3年生を迎え周りの子は就職活動を始め自分も始めることとした。まず始めは何をしていいかわからないため、就職のコーチングを頼むこととした。そのお金は親が払ってくれた。
就活は友達と情報共有してやるのが良いと言われていたものの、食事のこだわりから人と気軽に会うことができなくなっていたため、そのコーチングの指導を頼りにしたり、また他の媒体などを使って行っていた。

そして、3年の冬になると今後就職活動が本格化するにあたり、体力をつけなければいけないと感じる出来事が多々あった。したがって、自分で食べるようになった。
1度食べると止まらなくなった。
3月になり名目上、選考情報の解禁とともに距離を置くようになった。
以前もそうであったが、より一層食べ物のことで頭の中がいっぱいになることもあった。そして、食べれば食べるほど見た目はどんどん変化していき抑鬱状態となることが多くなった。
変化していく見た目と同時に、何もしていない自分のことを考えると死にたくなった。この頃から外に出て人に会うことが嫌になり、食事を買いに行ったり食べに行ったりする以外は比較的家にいるようになった。
相手は自分が考えるほど他人のことなんて気にしていないと分かりつつも、自分のこの変化した姿を見られるのが嫌だった。



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