【備忘録】「ギブ」っていうより「シェア」って考えると少し楽になると思った話

私が感じていた「ギブ」に関する印象と、最近出会った「シェア」という言葉のありがたさについて、未来の怠惰な自分に思い出してもらうために書こうと思いました。

いつか読んだ本で、人間の幸せに関する研究が紹介されていました。
人と人とのやりとりの間には「ギブ」と「テイク」がなされており、行動の傾向によって、「ギバー」「テイカー」「マッチャー(中間)」など定義づけられる。
では、その中で誰が一番幸せになれるのかという話です。

「ギバー」や「テイカー」の定義は簡単には下記のようなものです。
ギバー:相手が求めていることを注意深く考える人
テイカー:相手が望んでいることよりも自分の利益を優先する
マッチャー:ギバーとテイカーの中間

ギバーにも2種類あって、自己犠牲によるギブをしてしまう人と双方の利益を生み出すためのギブをする人の2つがあります。

この中で最も幸せになるのは、「双方の利益を生み出すためのギブをするギバー」になる。という研究結果が出ているようです

じゃあ、みんなギバーになればいいじゃないか、と思うのが理屈ですが、そこで壁にぶち当たったのが「私が何をギブできるのかわからない」という思いでした。

私が勝手にプレッシャーとして感じていたのは、「自分にしかできないサービスを作らないといけない」「自分にしかできない付加価値を作らないといけない」というようなことで、ギブ的な行為を諦めていたフシがあります。

そこで最近「シェア」という言葉に出会いました。
捉え方の話でしかなくて、雰囲気の違いでしかないのですが、「ギブというよりはシェアしよう」という話を聞いて少し感動したのです。

下図が私の感覚を簡単に図式化したものです。

上の図でいうところのギブって、人生においていくらでも大事な場面があると思うんですよね。
恋人や友達とのやり取りとか、お手紙書いたり、お客さんを満足させたり。
そのギブの過程において、よっぽどギブすることが習慣になっている人だったら、自分なりの付加価値だったり・自己表現だったりを通してのギブができるんだと思うんだけど、僕だとそれが上手にできないな、と感じてしまったのです。

誰かが気づいてくれる”かも”っていう世界観の中で、みんなに発信した方が、なんとなく自己表現が気楽になると思ったんです。
興味がない人はスルーしてくれるし、興味を持ってくれる人は暖かく受け入れてくれる。
なんとなくネットを前提にした世界観だとこういう自己表現も許されるのかもな、と今更ながらに感じたのでした。

なので、幸せになるために「ギブ」を捨てていいかというとそんなことはないんですけど、「シェア」を通して「ギブ」の練習ができたり、精度を上げられたりするのかも、って思ったのです。

だから、自分の知識・感じたことなどわかりやすくシェアしてみる、っていうのを目指して、日々の情報収集をできたらもっと幸せの「幅」を広げられるかも、と思い至り投稿しようと思いました

サポートなんていただいてしまったら、奮起してもっとたくさん投稿してしまいます!