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合理性を超えた肩入れとしての「好き」

・ブラタモリの京都特集を見たときに面白いと思ったのでした。京都の東部と西部の地形差と文化差の呼応、実際歩いてみたいものです。
・youtubeで米村でんじろう先生の3分動画をよく見ます。科学実験と動画は相性いいですね。「包丁はなぜ引いて切るのか」が、そこが理由だったのか、と驚きました。
・同僚が日常の中でラップとヒップホップを口ずさみます。勧められて以来時々聴きます。ライムとリリックでバイブスを上げていくんですよね知らんけど。

これ全部面白いなぁ、という話なのですが、「それならもうちょっと深めてみようかな…」と続いて考えたのは3番目のラップだけでした。鎮座DOOPNESSのPVとか見るとこまでは来ました。

面白くても「ほー」となって終わるときと、「それならもうちょっと…」と続けてアクションに移るときの違いはどこなんだろうか。大切だからかどうか?いや、同程度の大切さのものでも分かれる気がします。暇があるから?多少はあるでしょうけれども、暇があってもやることとやらないことがありそう。実際、その気になれば暇を作ってでも行動に移すはず。日常を乗り越えてでもやってしまうかどうか、分けるのは一体何か。

知的好奇心が向くのか向かないのかは完全に偶然なのか、それとも何かしら傾向があるものなのか。先日読んだ「感情論の視点」における体験選択、それが発生することに傾向はあるのか、という問いに置き換えられます。でも、主体が合理的に選択することよりも前に、主体を経由せず選ばれている行為であるわけですから、「傾向」などという合理性を無理に読むことのほうが難しそうです。偶然のほうが近い、と言えそうです。

それでも、偶然の発生率を高めることは出来うるようにも思います。
元・立命館大学で家族心理学を研究された団士郎先生が、その著書『木陰の物語』で、「好きになる力」というエピソードを語っておられます。

「好きになる力」とか「能力」とかいう表現には少し力み過ぎの感もあります。それは差し置いて、動画の中の「考えてみれば、何かを好きになる能力は、合理性を超えて肩入れする力だ」という表現が頭に残ります。合理性を超えた充足があることを経験として知っているかどうかが、次の行動を左右するわけです。それはもはや「能力」とも見えるわけです。何ならそれはバタイユのいう「消尽」の領域ですらあるかもしれない。そこに生の全体性がある。

興味関心をどう育てるか、に対して小手先を考えることが多いわけですが、「合理性を超えた肩入れ」の土壌がどれだけ豊かになるかを考えることのほうが目的に資するかもしれません。あんまり「飛び込め!やってみろ!」ばかり言うとハイデガーになってしまう気もしますが(バタイユとの線は何処で引けるものか…)。

ソシャゲをやり込む人たちが、それほど「好き」とか「面白い」と思っている姿に見えないときが多くあります。彼らは妙にハマる理由を語れてしまう。キャラが可愛いとかストーリーがアツいとか。大衆が興じられるように設計されたものを、品評しながら時間をかけているようにも見えます。品評している限りにおいて、あまりのめり込んではいない。

周囲が何でそんなものを…というようなものに、合理性を超えた肩入れをしていく「意味のわからない楽しさ」、これを知らない人に教えてくれるのは、その人の生活の外部からやってきた存在なのかもしれない。突然やってきて、魅了してしまうようなもの・こと。一度もそれを経験死たことない人への最初の一撃をどう生むかが、「好き」という短い音節の言葉の中にある神秘の領域に思えてきます。


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