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進路指導は見守りじゃないだろ

 2021年の怪文書シリーズ、探したらたった2つで自然消滅していました。様々な媒体で言葉を散らして、定まらない道のりを歩いてきました。2つ目は2021年10月に書いたものです。謹んで供養します。
 これは、とある「準備室」において進路指導について議論していた時に、敵対していた相手の案に猛然と反論したかったのに、立場の問題でその機会が封殺されたとき、腹がはち切れそうになったので一気に書いた文章でした。感情が乗ると文章ちょっと見ただけで当時の気持ちを思い出すものですね。

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 あと9週間でお正月です。来年の話をしてもそろそろ鬼も笑わずにいてくれるころになってしまいましたね。5か月前に一度書いたこの「怪文書」,2通目はこのタイミング。というのも,とある理由で「教育について考えていること」を言葉にせざるを得ない状況に追い込まれたからです。せっかくなので書き尽くそうと思っています。
 とある理由の詳細は伏せて申し上げます。「進路指導って,生徒が選んだものを,教員は見守り確認をすることだよね!」という提案に対して,意見を求められるというイベントが発生した,程度にお考え下さい。

 「進路指導は,生徒が選んだものを,教員は見守り確認をすること」。私はこの文言を見るだけでも,全力で心の底から「違うわ!」という叫びがこみ上げてきます。この「違うわ!」の背景を書き連ねるのが,今回の目的です。
 もちろん,この提案も,決して理由がないわけではありません。旧来行われてきた指導を「受験を目的とした生徒の振り分け」としてとらえる発想があるのでしょう。偏差値●●なら国公立行け,お前の成績で就職はもったいない,★★学部はお前のような人間が行くところじゃない,とかとか。もちろん,この手の“はめ込み指導”が存在してきたのは事実ですし,それは克服すべき問題です。
 でも,だからと言って,教員の仕事が「見守り・確認」で終わるのか,という話です。進路に限らず。

 これまで行ってきた進路指導とは生徒への面談を主軸とし,生徒の志望の根底にあるものを深耕することを通じて,あいまいで漠然とした彼らの希望を,自分の人生を貫く明確な意志へと転じていくことに力点を置いてきたといえるでしょう。その前提には3つがあります。
 ・生徒が最初に考えるのは「あいまいで漠然とした希望」である
 ・それらは経験と対話,そして日々の学習を通じた試行錯誤,さらには言語化と振り返りを通じて,「人生を貫く明確な意志」へと変容していく
 ・この変容には生徒の3年間を通じた成長が必要である

 そのため,指導においては,生徒が最初に示してきた漠然とした想いに対して,「それが本当にやりたいことなのか」などと教員が問いかけ,揺さぶるわけです。生徒からすれば,外部からやってきた問いかけに対して,戸惑います。戸惑いながら応答をしようとします。考えて調べて言葉を尽くして応答しようとしたときに,自分がまだ深めてなかったことがあると気づき,その不足に対して向き合う努力が始まります。
 当然,この過程を通じて生徒は志望を変えたり,迷ったり,とらえ方を変えたりするかもしれません。でもそれは,特定の価値観に生徒を誘導することにはならないはずです。

 この指導の根幹にあるのは,生徒に「知らない」ということを自覚させ,それまでは考えていなかったことへの意識を向けさせることを通じて,生徒の変容を求めることにあります。
 生徒は多くの情報や機会に触れたからといって,ただちに成長するわけではないはずです。その情報や機会,経験を通じて学んだことを,“血肉として”活用できるのは,生徒が学んだことを消化し,捉えなおすための振り返りの後です。生徒に適切な言語化・内面化を経験させることで,ただの情報が生徒にとって意義ある経験へと変貌を遂げるわけです。
 もちろん,こうした指導は進路に限った話ではなく,あらゆる教育の根本でしょう。日々の授業や行事,部活その他すべての学校での経験は,生徒に成長=変貌を促すための揺さぶりと内面化で満ちています。生徒が選択したものを,教員がただ受け取るだけでは達成されない。成長とは,成長するまでは考えもしなかったような状況に自己が変容することを指すのであり,変容した後の姿は成長する前では想像もつかないものであるはずです。想像もつかない未来への期待こそが生徒一人ひとりが持つ可能性であり,これは商品の購買のように自分に必要なものを選択して獲得するような行動とは質が異なるわけです(内田樹先生の発想をそのままパクった発想です)。
 私はこれが教育の根源に近いものだと考えており,こういう教育を十全に実現しようと日々奮闘している,という程度の自負はあります。課題は多いですが。そんなときに,「教員は見守りと確認を!」と言われるなんて,怒髪冠を衝くってもんです。髪の毛そんな無いけど。
 
 また,「見守りと確認」の指導を高校生が求めている,とも思えないでいます。
 学校なんか来ないで社会で遊べば,結構多様な経験ができます。それにもかかわらず,彼らは授業にやってきます。コロナ時代の一斉休校に戻りたい,なんて声はあまり聞かない。また,今年面識のない生徒からも面談を希望されることが増えました。彼らは考えるヒントや視点を求めていて,「情報が得られる場だけ教えてください」と言われることはありません。
 自分自身が何を悩んでいるのか,経験だけでは学びきれなかったことを,生徒たちは教員との対話を通じて言語化・内面化していく。そういう対話を生徒たちは期待して,様々な教員との面談を申し込んでいるのでしょう。生徒は自己変容につながる新しく,また粘り強い指導を求めています。

 もしも民間でこういうサービスを購入したとしたら,と想像してみましょう。生徒一人ひとりの様々な環境に応じて,3年間専任のコンシェルジュが,人生の伴走者として寄り添う。3年間トータルでいくらでしょうかね。これが公教育として安価に普遍的に行われている。これが市民の負託に応えた教育公務員の役割なんだろうなあ,と心底生真面目に考えたくなります。

 もちろん,これで残業代は月4%に定額で使い放題,さらに給与カットされているわけですから(注:当時は財政難だとして給与カットの憂き目にあっていた。今でも許していない)。

 というわけで,気持ちが迸った一日でした。

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