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2024 国公立大「国語」並べ読み

 私は「大学入試(一般選抜)の国語の現代文の問題を並べて読む」というアホな趣味を持っております。これまで数回、ある年の国公立大学の国語の現代文の文章をとりあえず読み、バラバラに出されたように見える入試問題の背景に通底する「時代の問題意識」を読み解こうとしてきた過去があります。

 入試問題とは、無限とも言うべき数存在する書物から恣意的に選ばれ、この春に大学生になろうとする18歳以上の人々に、「これを読め」と課されるものです。
 総合型選抜の割合が増加し、学部学科独自の課題文が出題されることも多いのですが、それらはその学部学科の学びを先取りする観点が強く、出される必然性が明白です。それに対し、一般選抜の問題はその後の学部と多くは紐づかないため、ある種「何でもいい」ものが求められます。
 そんな「何でもいい」文章たちが、なぜか一定のメッセージを共通して持つ時があります。各大学が選んだ恣意的なはずの文章から、通底する問題意識が見えるときがあります。この趣味を始めたのは2016年でしたが、2015年の「大学の文系学部廃止」という言説に対抗するように、2016年の入試問題は「反知性主義」で埋め尽くされたのでした。そういう瞬間が面白くて、このアホな趣味をやめられないのです。

 東京大学は小川さやか『時間を与え合う』から、贈与交換を出してきました。タンザニアの行商人の姿から、市場交換で説明のつかない贈与交換を読み取るもので、「贈与」に造詣があれば読みやすいものでした。「贈与」は必修科目「公共」(現代社会から改変)で扱われるテーマとなっているのですが、この概念を操作できるということは、資本主義とは異なる交換様式を内面に構成しうるということであり、けっこう鍵となる概念だと思っています。

 京都大学が奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』で、語学を学ぶ中で「突然思いもよらない恍惚とした感覚」を得た姿を出題。主体を超えた脱自の体験であり、これは「習得」といった成長発達のモデルとは一線を画す感覚です。この概念を操作できるということは、有用性を獲得する発達とは異なる価値領域を内面に構成しうるということです。

 この時点で既に、「経済合理性からそぎ落とされた世界を内面に構成する」にまつわる出題が続きました。今年そういうのが多いのではないか?
 と思ったら、九州大学が『争わない社会』を使って、個人主義と主体的な協力とは異なる「依存関係」の在り方を問うものを出してきた。福沢諭吉以来、「独立した個人」というあり方が理想視され、教育においても「主体的で合理的な個人どうしが協力する」というあり方が社会の理想であるかのように語られています。それに対して、私達がどれだけ個人となっても、基本的に「依存関係」を形成しているという事実に立ち返らせる(しかもそれが「争わない社会」につながるとする)文章を出してきています。

 合理的で主体的な判断を行うことが価値だと思われまくっている現状において、それとは別の価値世界に居場所を見出す思考が、気づけば問題として選ばれている点に興味を惹かれます。支配的な言説に画一化されることに対するアンチテーゼが理解できなければ、これらの大学に入りにくいわけです。

 相変わらず、合理性そのものの前提を掘り崩すような出題も好まれています。広島大学は知覚や感覚が習得によるものであることを、大阪大学は自然科学に因果を見出す人間の「物語り」への言及を、それぞれしていました。

 大学入学共通テストの問題が、思考力を問うと称して、実際は画一的な情報処理能力を問うものと化してきているのに対し、そこで捨象された世界への気づきを求めるような傾向性があると見えたのが、2024年の印象でした。
 そうだとするならば、これが「現在地」であるわけです。ここからどうするかを考える年度であるわけです。

 あらゆる学習を、単なる有用な能力を習得する過程としてみなすことへのアンチテーゼを、いかに教育そのものの中に残置させるか。このことと、学校が豊かになることとは、まっすぐつながったテーマになりそうです。

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