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子猫ちゃん、どこイクの?[SF小説]#5

※はじめにお読みください

 次の日、カナエはみんなより2時間ほど遅れて作業部屋に入った。入るとすぐにみんなの視線が彼女の頭に集中した。最初にマミが口を開いた。
「うわぁ。遅いと思ったら、んなことしてたのかよ」
「髪を染めたんだね。カナエちゃんっぽくなった」アイが言った。
「にしてもすごい色だね。なんでそんなシマシマにするんだか」サトが言った。
「え? いいじゃん。イケてるだろ?」カナエが自分の頭をポンとたたいて言った。彼女の美意識がまわりに通じないのは昔からなので反応は特に気にならない。「個注してたのがやっと来たからさ」
 ヘアカットの機械は築6に備えつけのものがあるので来てすぐに短くしていたが、髪を染めるには専用のキットを別に注文する必要があり、金額も高いし配送も遅いので頼む者はめったにいなかった。そのかわり博多に開いている店じゅうを探しても無いような高度な髪染めを簡単にできるキットを手に入れられる。CCC関連業務施設に入るメリットの一つでもある。
  カナエは自分の椅子に座るとまだ起動していないモニターに映った自分の髪を確認した。ツンツンと毛先が尖ったショートカットの髪は頭頂から毛先に向かってオレンジと紫色が放射状の縞模様を作っている。完璧な仕上がりだ。
 頭を作業モードに切り替え、画面を起動するといつもの専用メニューが現れたが、カナエはすぐに迷いなくメニュー画面の何段も奥に置かれたオプション項目を操作してクシナダの警備員から手に入れたデータの探索に切り替えると、ミカが死んだ日のパトロール映像を探索する作業に没頭していった。
 作成したフィルターを通していたので確認するものは格段に減ってはいたが、それでも膨大なデータ量があった。すべての映像に死亡した当日のミカの姿がタグ付けしてあったが、たいていは画面にごく小さく写っている状態である。カナエは目を細めたりモニターから体を離したりしながら、それらの映像をかなりのスピードでチェックしていった。ほとんどの映像で彼女が地下街や駅の周辺を1人でぶらぶらと歩いているのが写っていた。
 まずは地下街の防犯カメラの映像からチェックすることにした。その日のミカはエキケイの事務所を昼過ぎに出たあと、博多駅や地下街を歩き回っていたようだった。パトロールドローンの映像にくらべると駅や地下街のカメラ映像は解像度も高く確認しやすいが、それでも大量のタグ付けされたミカの動きを追っていくのは骨が折れる作業だった。地道で退屈なその作業に早い段階でうんざりして疲れたカナエが椅子の背にもたれて天井をあおいでいると、アイがすこし気兼ねした様子ながらカナエのモニターをのぞいて「何してるの?」と声をかけてきた。
 カナエはミカの死亡当日の映像を調べていることをみんなに話した。アイが「あたしも手伝う」と言うと、自然な流れでみんなもそれに追従した。マミまでが「いつもやってる作業と同じだなっ」と嬉しそうに言ってきた。
 マミの後ろではユウが1人おもちゃで遊んでいたが、それに飽きると珍しく集中して作業している母親の服をひっぱり、彼女の座っている椅子が後ろにずれた。マミはモニターから目を離さないまま、黙って足で椅子を前に動かして元の位置に戻った。するとユウはよくわからない叫び声を上げながら今度は力を込めてマミの椅子を後ろにひっぱった。ギーッ!と音を立てて1メートル近くマミが椅子ごとテーブルから離れると、彼女は立ち上がってユウに近づき、黙ったまま子供の頭をパシッと叩いた。ユウは「ウワーッ!」とさっきよりもさらに大声を上げて涙を流しだした。
「もうっ! ヤル気になってんのに! 邪魔すんな!」マミも負けじと大声でユウにどなったが、立ち尽くして泣くユウの声はさらに大きくなった。
「ほら……泣かしてないで、あんた親だろ? ちゃんと抱っこしてあやしなよ」見かねたサトがマミに言った。
「こいつが悪いんだ……」マミが指さして言ったが、ため息をつくとしぶしぶながらユウを抱き上げた。
 しばらくマミが抱っこして座りながら揺らしていると、ユウが泣きやんできてグズグズと鼻を鳴らす音とキイキイと椅子が軋む音だけになった。
「……そんなに子供が嫌いなのに、なんで作っちゃったんだよ?」作業する手は休めずにカナエがマミに聞いた。
「パコったら勝手にできたんだ。パコったらできるなんて知らなかったから……」放心した顔でマミが答えた。
「マジで?」カナエがモニターを見つめながら呆れた声を出し、冗談のように言った。「じゃあ、赤んぼはどっから出てくると思ってたんだよ?」
「いや、腹から出てくるのは知ってたよ?」マミは真顔になって答えた。「ただ、パコっただけでできるとは思わなかったんだよ。病院に行ってカネを払わないと作れないんだって思ってたから。じゃなきゃ、なんで絶滅するって騒いでるんだ?」不思議そうな顔をしてマミが言った。
「あんたねえ……だったらここにリョウがいるわけないだろ? あたしが高い金を払って病院であの子を作ったと思ってたわけ?」サトも呆れたようにそう言った。
 アイはこれらの話には加わらずに黙々と作業をしていた。今日のアイはいつもよりさらに静かで、顔つきは無表情だったが、なにか思い悩んでいることがありそうな雰囲気だった。その彼女がモニターからパッと顔を離して横に置いた自分のモークス端末に手を伸ばした。何か連絡が入ったようだ。
 アイは端末を手に取ると手慣れた様子でそれをサッと顔に付けた。しばらくは無表情なままで黙っていた彼女が「えっ……」と大声を上げたので、みんなが作業の手を止めてそちらを見た。アイは端末を半ば外すと、呆然とした顔でユウを抱いたまま立っているマミの方を向いた。
「シンゴさんが……ひどい怪我で……」
「怪我ぁ? なんで?」マミが大声を上げたのでやっと落ち着いたユウがビクッと体を固くした。
「よくわかんないけど、オヲハでもめごとがあったみたい」困惑した顔でアイが続けた。
「リョウと、リョウが学者さんって言ってる人とで中洲の別の場所に移したって……死にそうだからとにかくすぐに来てって……」
 みんなが固まって顔を見合わせた。アイがマミに言った。
「あたし……案内するから、一緒に行く」
「あたしも行く」カナエがスッと立ち上がって言った。「ここにある薬で、使えそうなモンを見つけてくる。それから行く」ドアに向かいながらアイに言った。「着いたら連絡して。シンゴの状態を教えて」彼女は上階に向かって去った。
「……じゃあ、あたしも行く」サトも顔を上げて珍しくそう言った。他のメンバーよりだいぶ年配な彼女はこれまで口だけは相手を心配したり世話をやいたりするようなことを言うものの、他人のために時間を取り体を動かすような行動はほとんどしてこなかっただけに、これは相当なことだった。サトはマミに近づいてまた愚図りだしたユウを引きはがして抱きかかえると、呆然としたままのマミの腕をゆさぶった。「ほらっ、早く行くよ」
 マミとアイは端末からのリョウの案内で中洲のビルの一つにたどり着いた。ユウをかかえたサトはやや遅れて到着した。普段なら絶対に立ち入らないような廃ビルだが、2人は足早にビルの2階まで階段を駆け上がった。不安そうな顔のリョウが廊下で待っていて、シンゴが寝かされている階段のすぐ横の狭い部屋に招き入れた。小さな窓のそばには《学者さん》であるホーランが所在無さげに立っていたが、マミもアイも彼の存在は気にしていなかった。
 シンゴは全身に怪我を負っているようで、あちこちの皮膚が腫れて黒ずみ、一部は裂けて傷となり、服にも血が着いたままだった。右のこめかみにも乾いた血のりが貼りついている。胸が軽く上下に動いて浅い息はしているが目は固く閉じていて、意識があるのかどうかはわからなかった。ホーランがそっと「手持ちの傷薬は使ったんですが……」と言ったが、誰も返事をしなかった。
 マミはシンゴのわきのあたりに立ったまま彼を見下ろしていた。そうしているとやっとユウを抱いたサトがぜいぜい言いながら部屋に入ってきた。彼女を見てリョウが「……母ちゃん」とひとことつぶやいた。またみんなが沈黙した。それからシンゴを見つめていたマミが絞りだすように言った。
「さんざんあたしを苦しめやがって……あたしの人生ボロカスにしやがって……このゴミクズ野郎が……」
 マミは後ろにいたサトの方を向くと、ほとんど奪うようにユウの体をつかんでしっかりと抱き寄せた。ユウは急に腕で締めつけられて苦しかったのかまた少し暴れたが、諦めたようにマミの腕におさまり、下をのぞきこんでシンゴを見た。「おとしゃん?」とユウがつぶやいた。
 マミの両目から涙が流れ出した。立ったままシンゴをじっと見すえると、震えながらさらにこう言った。
「このクソ野郎っ……ガキだけ作って……何もしないで……自分だけ先に死んで……あたしを苦しめるばっかで……」
「あの、まだ死んではいないですよ」ホーランがシンゴの胸に手を置いて、おずおずとマミに声をかけた。「ちゃんと息はしてますから」
「今、カナエちゃんが薬を選んでるんだけど……」アイが誰にともなく言った。「何を持って行ったらいい?」ホーランがアイを見て答えた。
「医者に見せたほうがいいでしょうね。内蔵がどうなってるか、スキャンしないとわからない」
「CCCに連れてけないか?」リョウがホーランに聞いたが、彼は首を振った。
「それは無理です。CCCには所属員しか入れません」
「じゃあ、学者さんが知ってる医者に連れてけないか?」リョウがさらに聞いたが、ホーランはまた首を振った。「アウトに医者の知り合いはいないんです。すみません」
「……こいつチェイナ-かよっ。ぜんぜん使えねぇじゃん!」マミが涙のあとを顔に残したまま荒々しく言った。
 アイが端末越しのカナエに困ったように言った。「……どうしよう。ひどい怪我みたいだけど、医者に見せないとわからないって」
 カナエは築6の上階の資材置場に居た。やりとりを聞くと、ため息をついてアイに言った。
「モークスの医療セットを使うから、そっちも接続して」アイの端末と共有すると、外傷向け医療セットのリストから適切そうなものを選択した。「こっちで操作するから、言われたとおりにやって」アイに言うと、医療セットがシンゴの状態をビジュアルで確認する。それからセットの指示に従って体のあちこちを押したり服を脱がせたりしてさらに確認が続いた。脇でリョウがシンゴの体を触りまくるアイの手の動きを見て引いてる気配がしたが、気にする余裕は無かった。
 やがて医療セットがカナエが並べた薬の中からいちばん適切そうなものを選択したので、「これからそっちに行く」とアイに告げてモークスアウトした。
 駆け足でビルに向かい、みんなが居る暗い部屋に入った。マミはシンゴの横にぐったりした様子で座り、ユウはさっきまでの緊張が溶けたのか、はしゃいで部屋を歩き回っている。アイはユウの後を追って大人しくさせようとしていた。サトとリョウは部屋の隅で向かい合って座っていたがお互いに会話は無く、ホーランは居心地が悪そうに窓際に立って外を見ていた。
 カナエはハァハァと大きく息をつきながら横たわったシンゴに近づいて座りこむと、適当な袋に突っこんできたいくつもの薬を取り出して床に放り投げた。密閉された注射のような器具も取り出して封を開ける。器具には融解液が充填されていて、床に置いた薬を順番に開けて決められた手順で液に溶かしこんだ。器具を激しく振ると、血のついたシンゴの服をめくりあげて左腕のひじの上まで露出させ、勢いよく器具の先端を突き刺した。それを見ていたマミが疲れた顔で聞いた。
「それ、やべぇ薬じゃねえだろうな?」
「さあね」カナエが答えた。「築6にあったんだから、大丈夫だろ? 効くかどうかはわかんないけど。医療セットが『ビジュアルモニタリング診断では脳損傷の可能性以外の重症度は低い』って見立てだから……」
「他にやりようが無いんだから、しょうがないだろ?」サトがマミに向かって後ろから言った。
 それから30分ほどみんなでシンゴの様子を見守っていたが、目は開かないものの、顔つきがおだやかになり、呼吸も楽になってきたようだった。
 サトが立ち上がりながらリョウに向かって言った。
「そろそろあたしら帰らないと、エキケイが出てきて面倒になるよ。あとはあんたがここで様子を見るでしょ? 何かあったらまた連絡しなさい」リョウは短く「……わかった」と答えた。さっきから彼はこの事態にかなり動揺しているようで、いつもの気楽な調子はすっかり影をひそめていた。
 マミは意識の戻らないシンゴにまた悪態をついていたが、部屋を出ていく前になるとリョウに「じゃあ、よろしくな」と声をかけた。
 女たちが部屋を出ていき、元のように男3人が残った。そのとき、窓際にいたホーランが開いたドアを凝視してつぶやいた。
「美しい……」
「ハアッ?」リョウがぎょっとして言った。
「あの人。ピンピンした縞々模様の髪の彼女。とても美しい……」ホーランがうっとりした様子で繰り返した。
「あぁ、カナエかぁ……。まあ、顔は美人だと思うけど。体もまあイケてるけど……」リョウがそう言って、さらにつけ加えた。「アイの方がずっとかわいいと思うけどな」
「カナエさんと言うのですね。あんなに美しい女性は見たことがありません。まるで東南アジアの森にいる絶滅危惧種の鳥のようです。こんな運命的な出会いがあるなんて……」ホーランはリョウの意見は無視して惚れ惚れとそう言った。
「《恋》したってことか?」とリョウが言った。意外にもホーランはこの言葉にはやや不満そうな様子で、こう返した。
「恋? ……そうですかね? その場合は再定義をする必要が出てくる……」
「それはいいんだけどさ、俺ちょっと……」ホーランの言葉をさえぎり、そわそわした様子でシンゴとドアの外を交互に見ながらリョウが言った。「ちょっとだけ出てくるから、兄イを頼む」サッと身をひるがえしてすごい勢いでリョウがビルの階段を駆け下りていったので、ホーランはぽかんとした顔で見送った。
「アイ!」後ろから追いかけてきたリョウの声に振り返ると、びっくりした様子でアイが足を止めた。他のみんなもいっせいに振り返ったが、そのまま2人から離れて行った。
「何してんの? シンゴさんを見てなきゃダメでしょ!」アイがとがめるように言った。
 アイの前に立つと、気まずそうに少し目をそらしながら、リョウが言った。
「俺……オヲハをやめる」
「そう……」下をむいてアイが言った。
「つくづく嫌になった……あんな奴ら……兄イにあんなことしてさ。……目が冷めた」
「……それは良かったけど、あたしじゃなくてサトさんに言いなよ。すごく喜ぶよ」アイがぼそっと言った。
「でも、アイは俺の彼女だし!」アイの目をまっすぐに見ると、リョウが言った。
「……それだけど」アイもリョウの目を見つめると、とまどった様子で言った。
「あたし……やっぱり、彼女っていうのは違うかなって。だから……もう止めようかなって」
 2人の間で3秒くらい、時間が停止した。
「いや……いや……ちょっと待て」リョウがあわてたように言ったが、アイはさらに続けて言った。
「あたし……リョウのことは家族みたいに思ってたし、好きだって思ってたけど、よく考えたら……彼女とかそういうのは……だって、そういうのって、いつか子供ができるかもしれないじゃん? あたし、そういうのは嫌だから……」
「コドモ? ……いや……ガキとか……まだヤッてもねえのに……そこまで考えることか?」リョウがそう言うと、アイはサッと表情を変えてそれをさえぎった。
「だってそうじゃない! ヤりたいって思ってるでしょ? 違うの? ヤッたら、もしかしたら子供ができるかもしれないんだよ? 子供ができたら、あたしはどうなる? ……何も考えてないでしょ? ノマちゃんが今どうなってるか、あんた知ってる? マミちゃんがあんなに大変そうなのに、あんたとシンゴさんはオヲハでチンピラごっこしてた! ……あたし、もう男の人には振り回されたくない。小さいときからずっとそう。男って、あたしが嫌なことしかしない……。男と女は一緒にいない方がずっといい。子供なんて生まれないほうがずっといい。……人間なんて絶滅しちゃえばいいんだよっ!」
 リョウが絶句して何も言えずにいると、アイが静かにつけ加えた。
「……だから、リョウのことは好きだけど、もう彼女じゃないから。弟……そう、弟みたいなものだから」
 アイはそこまで言うと、リョウの返事は聞かずに足早に彼から離れて行った。
 築6ではもうカナエたちがミカの映像を調べる作業に戻っていた。5分ほど遅れてアイが帰ってきたとき、彼女の顔を見てサトが声をかけた。
「どうした? 顔が赤いよ」
「……なんでもない」アイはそう言って自分の席に座った。モニターを操作しだしたが、やがて顔を上げてサトに向かって「リョウがなにかしたわけじゃないから。……大丈夫だよ」と言った。
「……うちの子バカだから。あんたいろいろ大変だろ?」サトが言った。
「リョウはアイがここに来たときからずっと大好きだもんなぁ」マミが少し柔らかそうな表情になって言った。「バカかもしんないけど、あんなに好かれてたらいいんじゃないの?」
 アイはこの言葉に意外そうな顔になってマミを見た。
「好きになってくれれば、それでいいの?」
「好きじゃないよりは好かれてた方がいいだろ? でもこっちからは惚れないほうがいいね。テダマに乗せて転がすんだよ」マミが手のひらを上に向けて前後に動かして見せた。
「……あたしはうっかり惚れちゃったけど」マミがついでのようにそう言った。
「そういうもんかなぁ……」アイは小さくつぶやいたが、すぐに目をモニター向けた。それからはほとんど会話らしい会話もせずにみんなが作業に集中していたが、マミはまたユウが服を引っぱったり膝に乗ろうとして仕事にならず、やがてユウに与えるものを見つけるために2人で5階に上がっていった。
 マミとユウが部屋を出たり入ったりしてはいたが、6時間後くらいにはミカが路上で倒れる前の路上での行動を映した映像をほとんどピックアップすることができた。そのデータを目視で確認していく。プログラムによってミカの姿はラベルで示されているが、映像に映る他の人間の姿や動く物体なども一つ一つじっくりと見て行った。
「やたらと駅のまわりを1人でウロウロしてるね。外になんの用事があるんだか」サトが言った。
「買物する店も無いし……危ないのにね」アイがつぶやいた。
「あたしらみたいに仕事してないから暇なんだよ。ジュカが甘やかすからさ。いっつもブラブラしやがって……」後ろからマミが覗きこんで言った。
「地下街から路上に出た映像も、ぜんぶ1人で映ってるっぽいね」カナエが言った。路上の映像データも地下街のものほどではないが大量にあり、彼女はそれを細かくチェックしていた。しばらくしてから、また言った。
「死体の発見場所の映像がぜんぜん無い」
「あの公園の横の道? そういえばそうだね。その場所はぜんぜん映ってないみたい」アイが言った。「……それって、どういうこと?」
「地下街ほどではないけど、駅周辺のカメラ映像もかなりたくさんあった。複数のドローンが空撮してるし、実際に他の場所だとそれなりにミカが動いてる映像が見つかってる。なのに公園周辺の映像はぜんぜん残ってない……」そこまで言うと、カナエはしばらく考えこみ、さらにこう言った。
「無いんじゃなくて、残って無いんだ。……ミカをラベリングして抽出したのに死んだときの映像が出てこないのは、フィルタリングから漏れてるってことだ」
 カナエはさらに考え、モニターに向かってデータのフィルタリング設定機能を表示した。ラベリングしたミカを抽出条件から外し、マップメニューから公園とその周辺、ミカが死んだ当日の日付を条件に設定した。そしてもう一度フィルタリングを実行する。けっこうな量のデータリストが積み上げられた。
「なんだ、あるじゃん」カナエがつぶやき、そこからまた細かく条件を設定していく。しかしミカに関係する条件を加えると、とたんにリストが《0》になってしまった。
「あーもうだめだっ」カナエが机をバンと叩いた。「……こうなったら手作業で見て行くしかない」
「マジか? 面倒そー」マミが口を出した。
「手伝うよ」アイが言うと、サトもしぶしぶながら「しょうがないね」と言った。
「でもさ……今日の作業がまるまる金になんないよ?」カナエが顔を上げて言うと、2人は顔を見合わせた。アイが言った。
「これを調べてなにかわかったら、ジュカを納得させられるんでしょ? そしたらノマちゃんがここに戻れるんだよね? だから手伝うよ」
「……ありがとう」カナエが言った。
「あたしはやんないよ。こいつを寝かせるから」マミがユウを抱き上げて言った。ユウは何も言わずに頭を揺らしていて、確かに眠そうな感じだ。
「いいよ。あんたはゆっくり寝ておいで」サトがそう言った。
 夜0時まで3人で作業を続けたが、データのチェックはやっと3分の2ほどが終わったくらいだった。
「続きは明日やろう」とカナエが言って、3人は上の寝場所に引き上げた。
 1時間ほどして、みんなが寝静まったころ、カナエはそっと起き上がり、あくびをしながら気だるそうに作業部屋まで下りて行った。部屋の明かりをつけ、自分の席に座るとモニターを起動し、無言のままで作業の続きをやり始めた。
 ……時をさかのぼって、カナエたちが出ていった後の中洲。
 ホーランは熱心にシンゴの横にかがんで彼の様子を観察していたので、リョウが部屋に戻ってきたのにしばらく気が付かなかった。後ろにいるのに気づくと興奮した様子で振り向いて、「シンゴさんの意識が戻りそうですよ!」と言った。
 リョウは無言でホーランの反対側に回ってシンゴのかたわらに座った。まだ目を閉じたままだが、シンゴの口が少し開いてその動きから自発的な息をしているのがわかった。たまにかすかなうなり声を上げている。手先も軽く握ったり開いたりしていて、体の状況が良くなってきているのがわかった。リョウはシンゴの顔に自分の顔を近づけ、少し涙声で言った。
「兄イッ……アイが……彼女やめるって……そんなの許せねぇよなぁっ……」
 数秒後に、シンゴがうっすらと目を開けてリョウの顔を見た。それから絞りだすようにゆっくりとこう言った。「ハァ……?……なんの……話だ……」
「だからっ……」リョウの顔の前にホーランが手を出して、それ以上しゃべろうとするのを制した。
「シンゴさんはしばらく意識が無かったんですから、急に今の話をしても理解できませんよ。良ければその話は私があちらでお聞きします」
 ホーランがそう言うと、リョウもこぶしの背で顔を拭きながら「そっか……じゃあ、あっちで……」
 そう言って2人が立ち上がろうとしたところ、シンゴが少し首を振りながら弱々しく言った。
「待て……床が……冷たくて……体が痛い……もちょっと柔らかいとこで……寝たい……」
 そう言われて2人は初めてそれに気づいたといった様子で、慌ててシンゴを寝かせるのに都合のいいものが無いかとフロアの部屋を探しだした。マットは見つからなかったがつぶしたダンボールの束と裁断された紙が詰まった袋がいくつか見つかったので、それらを組み合わせて柔らかいと思われる寝床を作り上げ、脇をホーラン、足をリョウがかかえてシンゴを寝かせた。
 しばらく様子を見守っているとまたシンゴが眠ったようなので、2人は少し離れた場所に座り直した。
 眠ったシンゴに配慮して、というよりはいつになくリョウの元気が無いせいで、ぼそぼそした小声でアイとの顛末をホーランに話した。2人の関係性についての補足情報をつどつど要求することもあってリョウの話はかなりの長さになっていったが、ホーランは生真面目な様子で熱心に聞いていた。彼にしてみれば若いホームレスアウターの生活実態における繁殖活動の貴重な当事者証言なのだから、情報収集に熱心なのは当然だったが。
「だからっ……俺は何も悪くないだろ? アイの言うことなんて、納得できないよなっ?」リョウはそうホーランに同意を求めた。
「なるほど……リョウさんは話し合いを要求したものの、アイさんは一方的に2人の関係に《セックス》が入りこむのは容認できないと断言した……それは納得できませんね……」
「だっよっなぁっ! やっっぱっりっ!」リョウが思わず大声で言い、アッと気づいた顔でシンゴを見たが、彼は相変わらずすやすやと眠っていた。
「……いよいよ、《刷りこみ》の出番かもしれません」うなづきながらホーランがそう言ったので、リョウは彼の方に顔を向けた。「スリコミ……」リョウがその言葉を繰り返した。スイッチが入ったように、ホーランはまたとうとうと話を始めた。
「そう……以前、オヲハで《恋》について話したでしょう?
 あのとき私は、恋は人類が一夫一妻制を維持するために必要とした刷りこみという脳の機能であると話しました。そして刷りこみは《学習》の一種だと説明しました。学習とは、端的に言えば外界の刺激によって脳のシナプスのネットワークが変わることです。
 過去には刷りこみは生まれてすぐから幼少期の間にのみ起こる学習であると思われていました。しかし、ある特定の状況と条件で継続的な行動変容が起きるならばそれは刷りこみであり、それには《ドーパミン》が関わっていることがわかってきました。
 これまでは男性も女性も自然に恋をして繁殖活動に向かうことができていました。しかし、さまざまな要因によって、適切な条件下でドーパミンを分泌して刷りこみを完了させるという機能がうまく働かなくなっていると思われます。ですから《恋》ができなくなった女性に対して、手助けをする必要があるんです」
「女が恋できない? なんで?」リョウが口をはさんだ。ホーランは嬉しそうでいて悲しげな、複雑な表情でリョウを見た。
「原因はよくわかっていません。人類絶滅予測がからんでいることは間違い無いと言われてますが。CCCの研究者が重点的に調べているのはゲノムであり、人類の急激な不妊化にはゲノム配列の問題があるのだと言われています。その一方で、われわれ社会学者を中心に、女性が男性に恋をしないという問題も言われるようになっています」
「だから、なんで?」リョウが少しイライラした様子になって聞いた。
「わからないのですが……」ホーランがとまどった様子で言った。
「私が参加しているコミュニティでは、女性が恋をしなくなったのは、自己保存に対する過大なリスク評価が原因であるという話が出ています。
 性と自己保存は生物において根源的な活動ですが、この2つはそもそも矛盾しています。自己保存とは自分という個体の生命を維持することですが、繁殖活動には自分を危険にさらすリスクがつきものです。
 このあいだ私はヒトの女性の繁殖リスクについて話しましたが、男性だって、男性同士の繁殖競争によって自分の生命維持活動に対するリスクが生じますよね。ですからヒトの文明は男性の競争を暴力から経済活動へとシフトするものであるという話をしたのですが……そういえば、そのときは居ませんでしたね。
 ですから、もともと繁殖することと自分の生命を守ることには利益相反の関係があるわけですが、生物システムはそこをうまくバランスを取って存続してきたわけです。
 しかし、現代のヒト女性においては、おそらく過剰な社会の情報化のせいで、繁殖活動が自己保存を損なうという危機感が大きくなり過ぎているようなのです。
 ……しかし、私には秘策があります」
「ヒサク?」また言葉の意味がわからず、リョウが繰り返した。
「……簡単なマジックで、アイさんの心を取り戻せるということです。これは、人類絶滅問題への対応という点でも重要なソリューションです」窓から弱い西日がさしこみ、座って話している2人の体の輪郭がわずかに明るさを増した。部屋の奥で眠りこんでいるシンゴの暗い影はより濃さを増した。
「……何を言ってるのかぜんぜんわかんねえけど、なんとかなるってことだよな?」リョウが興奮した様子で聞いた。
「……では、私にまかせていただけますね?」ホーランがそう言うと、リョウは彼の手をぐっと握って言った。
「学者さん、頼んだっ!」

 今回のレポート進捗会合も不穏な始まりとなっていた。前回と同じようにニナヤの機嫌がたいへん悪い状態なのだが、今回の場合その理由ははっきりしていた。バーバラが新しいメンバーを連れて来ていたのだ。
 ティエン・グァンは居心地が悪そうな顔で席に座っていた。もちろんニナヤには前もって彼の参加について了承を得ていたのだが、実に険悪な雰囲気だ。
 バーバラは相変わらずレポートの役に立ちそうな情報を求めてモークス内を探索していたのだが、そのうちに同じ性淘汰についての講座を受けてレポートを提出していた彼と知り合ったのだった。ティエンはバーバラの父親の専門である宇宙生物学に強い興味を持っていて、2人はその話題でおおいに盛り上がった。
 そのあとバーバラはティエンをニナヤとの会合に誘ったが、彼は2週間後、直前になって参加OKの連絡をしてきた。バーバラはあわててニナヤに連絡し彼のプロフィールを送った。すると彼女もそれに興味を持ち、すぐに参加OKと返答してきた。だからバーバラは3人で話し合えるのを楽しみにしていたのだが、始まってみるとどうしようも無いほどの雰囲気の悪さで、バーバラのテンションもどん底だ。
 もともとニナヤの機嫌が悪そうなのに加えて、ティエンの態度もいまいちな感じだった。彼はセットにあらわれてテーブルの席についたものの、一言もしゃべろうとしないのだ。バーバラが2人をそれぞれ紹介したあと、ニナヤは愛想の無い調子ではあるもののティエンに対して挨拶をしたのだが、彼はとまどった顔をして何も言葉を返さない。最初は丁寧な対応をしていたニナヤもみるみるうちに彼に対する怒りが表情に現れるようになっていった。
 どうにも気まずい雰囲気の中で、やけに甘ったるく情緒的な音楽が流れていた。カラヤンとウィーン・フィルのザルツブルクでの『トリスタンとイゾルデ』第1幕の前奏曲だ。
 なんだか暗い音楽だなあと心の隅で思いながら、なんとか場をとりしきろうとバーバラは2人の間で彼らを交互に見ながら言った。
「……彼のレポート、すっごく面白いの」しかしティエンが焦ったようすでまわりを見まわす姿に、彼はまだ話す準備ができていないことを悟った。しかたなく彼女はこう続けた。
「……あー、でも、ティエンはまだすっごく緊張してるみたいだね? だから、先に私のレポートについて話をするってことでいい?」
 バーバラがそう言って2人を見ると、両方とも暗い表情ながら反対する様子では無かったので、バーバラは自分のノートを開いた。この雰囲気に影響されて彼女のやる気もかなり減退していたが、熱心に作成したレポートの結論を発表しようと思ったとたんに、いつもの彼女のエネルギッシュな明るさが戻ってきた。
「聞いて! なぜヒトの女性の陰核亀頭は膣から離れた場所にあるのか……オリジナルな理由を見つけたんだ!」
 ニナヤとティエンが目を丸くした。ニナヤはバーバラを凝視し、ティエンは顔を赤らめて下を向いたが、バーバラは熱心にノートを見返していて2人の反応などどうでも良くなっていた。
「そう……問題は《思春期》だったの。……ちょっと待って、話をまとめるから。アイデアを思いついたばっかりで……
 こないだまでニナヤに話していたように、最初は一夫一妻制とか排卵隠秘とか女性のオーガズムが受精成功率に与える影響とか、そういうことを調べていたわけよね。でもなんかとっちらかっちゃって、ビビッとくるような説とかは探し出せなかった。
 それで、ふとひらめいたんだけど……もしかしたら、今まで陰核亀頭の位置が《繁殖》に関係するって前提で調べてたんだけど、そうじゃないのかも? って思ったわけ。
 陰核亀頭はオーガズムを生み出す器官として膣の内部にあるのが大事なはずなのに、内部じゃなくなったのはなぜなのか? っていう問題意識で調べてたわけよ。でも、そうじゃなくて、ヒトの女性にとっては外部にあることこそが大事なんじゃないかって。
 もっといえば、陰核亀頭が《自分で触れる場所にあること》が重要なんだよ。つまり、男性と同じように女性がオナニーできるようになるってことがね」
 早速ニナヤが疑わしそうな顔で横やりを入れてきた。
「……どういうこと? まさか、人類がフェミニズム的な概念を理解していくなかで男女が同じように自分自身の快楽を追求できるように進化したとか、そういう話じゃないよね?」彼女はさらに呆れた様子で言った。「さすがに私でも、そんなバカな説は考えつかないけど」
「もちろん、そんな話じゃないよ!」バーバラは少しむきになって言った。
「……だから最初に言ったように、《思春期》が問題になるんだよ。人類は約7万年前くらいに脳の前頭前野のブロードマン10エリア……前頭極といわれる部分の上部が極度に肥大するように進化した。それは神経細胞の発達遅延、つまり生まれたあとでゆっくりと神経細胞が発達することで巨大化が可能になったってことは知ってるでしょ?
 前頭極の巨大化によって前頭前野のネットワークに《メタ認知》的機能が加わって、人類の想像力や抽象化能力が拡大する要因になったって話だよね。
 ただし、神経細胞の発達遅延はデメリットももたらした。前頭極の神経細胞は思春期が始まるまではひたすら発達して数を増やすし、神経細胞同士の接続であるシナプスの数も増大する。でも思春期になると今度は《シナプスの刈りこみ》と呼ばれる現象が始まる。
 シナプスの刈りこみはそれまでの脳に記録された経験や価値判断のデータと照らし合わせて不必要な接続を消去していく作業で、25歳から30歳ごろまでずうっと続く。
 つまり、思春期が始まる年齢から30歳近くになるまで、ヒトの脳では前頭極と前頭前野の各部位をつなぐシナプスの刈りこみ作業が行われ、その間ずうぅっと、脳では経験や価値判断の記録のどれを残してどれを削るのか、試行錯誤の接続が発生する。
 これが、思春期になったヒトが10代と20代にバカなことを考えたり無茶なことをやったりすることの要因ってわけ。
 それで……そうやって進化した前頭極上部がうまく機能するようになればいいんだけど、シナプスの刈りこみ作業が始まるときには脳のネットワークがすっごく不安定な状態になるんだよね。それがなぜそうなのかはまだちょっとわかってないみたい……セロトニン受容体やドーパミン受容体が関係あるみたいだけど。
 進化人類学によると、ホモ・サピエンスというのは他の類人猿にくらべて精神障害を起こす確率が高いらしいんだよね。その精神障害は思春期の始まりから悪化していく場合が多い。それはちょうどアイデンティティが芽ばえるのとも関係しているようだし、性ホルモンが急激に脳に影響を及ぼしだすのも関係していると言われている。
 前頭極の刈りこみ現象が生殖機能の発達と関係しているかどうかはわかんないけど、そういった複合的な要因で思春期からの脳はとても危機的な状態になるみたいなんだよね。
 それでっ! ちょうど思春期で精神不安定と同時に性欲も出てくるようになる。性欲が出てくるのも精神不安定の一要因かな? まあ、どっちにしても、そういうときに男性はペニスで、女性は陰核亀頭でオナニーすれば、快楽を味わって精神不安定の状態を麻痺させられる。一種の麻薬みたいなもんだよね。そうこうしてるうちに危険な前頭前野のシナプスの刈りこみを乗りこえて、通常の生殖活動に入って子孫を作り、生活をしていくようになるわけよ。だからオナニーってすっごく大事!
 これまでの学術界では、なぜ生殖に必要ないのに女性にもオーガズムが存在するのか、その理由がよくわからなかった。それで進化の痕跡だとか、ちょっとだけ受精の確率が上がるとか、そういったもやっとした話しか出てこなかったんだけど、私の仮説では男女ともにオーガズムに重要性があるってことになるから、すっきりした説明でしょ? だから、たぶんきっとそういうことだよ!!」
 バーバラは2人の反応を見るために自信に満ちた顔を向けたが、彼女が思ったよりも彼らの表情は微妙だった。ティエンの表情には羞恥心があふれていたので、話が届かなかったという可能性は無いようだ。ニナヤはぽかんとした顔をしていたが、それからしばらく真面目に考える様子になり、やがてこう言った。
「まあ……面白いけど、それを実証するには思春期からオナニーしてない人たちを集めて、精神障害になった率がオナニー群よりも有意に高いってことを調べる必要があるよね。でもそれって因果関係が逆の可能性もあるわけで……」
「そりゃあ、まだまだこれからの仮説よ? でもインパクトがあっていいじゃない?」
「仮説が正しいかどうかにインパクトは関係ないでしょ」ニナヤが渋い顔になって言った。
「……じゃあ、次はティエンのレポートの話をする? 準備はどう?」自説を発表して満足したバーバラがティエンに向けてそう言うと、彼は2人に向かってうなずいたので、やっとマトモな対応ができるようになったらしいとバーバラは安心した。すると次の瞬間、2人の女性の前にティエンのレポートのテキスト画面が表示された。それが何なのかを理解したニナヤがバーバラに向かってそっとつぶやいた。
「……彼、もしかして喋れない?」
 バーバラもとまどったように答えた。
「……いや、こないだ会ったときはたくさん話したんだけどなぁ。本当はすっごい内気な子なのかも……」
 当惑している2人の様子を見てもティエンが何か言う様子は無かった。しかたなく、2人はそれぞれ表示されたティエンのレポートを読むことにした。
 バーバラは読み始めてすぐにそれが性淘汰や有性生殖とは関係が無さそうだと気づいたが、それでもどこかでその話に繋がるのではないかと思いながら熱心にテキストに目を通していった。個人的な覚書のような文章で、前後の脈絡に気を配っていない、雑然とした文章だ。
『主小惑星帯(メインアステロイドベルト)の核酸痕跡
 人類は有史以来、『地球以外の星に生物がいるかどうか』という問題に関心を持ってきた。
 1877年のスキアパレッリによる火星の《溝》の発見は一種の誤解により火星に知的生物が存在するという熱狂的な期待を集めたが、科学的にはまったく生物痕跡の証拠となるものでは無かった。
 しかし太陽系の惑星や衛星に生物痕跡を探すミッションはその後も続き、宇宙探索技術の進展により、さまざまなデータが集まるようになった。
 生物探査の初期に《生物がいそうな星》とされたのは液体の海がある星であり、木星の衛星エウロパ、カリスト、ガニメデ、土星の衛星エンセラダスとタイタンなどが可能性がある環境として注目された。
 しかし探査が進むにつれて、太陽系内には地球と同様の環境を持つ星は無いことがわかり、我々ヒトと同様の大型生物はいないらしいこともはっきりしてきた。
 人類はそれまでヒトのような生物を地球外で探していたが、1990年代に地球の極限的な環境で生きる細菌や古細菌などの微生物が発見されたことで、ヒトが生きる環境とは違う極限環境生物が注目されるようになった。それによって宇宙の同様の環境でも生物が生息している可能性が考慮されるようになり、ふたたび太陽系の生命探査活動が活発化した。
 火星は2000年代になってから創成期には海があり、火山活動など地殻運動によって現在よりも気温が高く、大気も存在した可能性が生まれ、また極地生物学の知見から現在の火星の地表環境でも微生物が生息できることがわかった。また木星と土星の衛星群についても新たな視点で生命探査が考えられるようになり、JUICEなどの探査計画が進んだ。
 しかし、21世紀の初頭から世界人口が90億に迫ろうとするなかで気候変動など地球環境状況が悪化していき2030年代からは国家体制や経済状況などにも大きな混乱が見られるようになっていった。
 そんな中、2051年の《人新世人類絶滅予測》によって人類社会は決定的な打撃を受けることになった。それまで最先端の科学技術開発を担ってきた先進国各国の国家体制が弱体化し予算と体制の縮小に見舞われ、宇宙探査計画のような莫大な予算や人員を必要とするプロジェクトはつぎつぎに中止となっていった。
 そんな中でも研究者たちは宇宙生命探査の研究を続けるために必死の努力をした。
 彼らが目をつけたのは地球に落ちてきた《隕石》だ。
 それまでも《隕石研究》は太陽系の成り立ちや生命の起源について調べるための大きな柱のひとつであったが、経済情勢の悪化によって宇宙に探査機を飛ばす希望が叶えられなくなった今、太陽系の生命を追う宇宙生物学者にとっては地球に降ってきた隕石を手がかりにすることがほとんど唯一の研究手段となったのだ。
 地球の隕石の多くは主小惑星帯(メインアステロイドベルト)からやって来る。
 主小惑星帯は火星の軌道と木星の軌道の間に広がり、最大のセレスが直径940キロメートル、ベスタ、パラス、ヒギエアが500から400キロメートルの直径であり、それ以外はすべて200キロメートル以内の大きさである。
 これらの小惑星が2.1から3.3天文単位の幅で広がり、太陽のまわりを公転している。
 主小惑星帯の惑星群は組成によっていくつかのグループに分けられる。C型、S型、M型など。
 これらの小天体は過去の探査によって熱によって溶解したことが一度も無いと判明しており、原始太陽系円盤から太陽と惑星群が作られるときに、大きな惑星になることが無くとり残された惑星の材料成分だと見られている。
 このうちC型は炭素が主要な成分であり、2020年に日本の探査機《はやぶさ2》が主小惑星帯とは別の公転軌道を持つ小惑星リュウグウから持ち帰った組成物から《核酸塩基》のウラシルとビタミンB3が見つかったことで、C型の小惑星には生命の前段階の有機多分子が形成されていたことがわかった。
 核酸塩基はリン酸と糖と共にヌクレオチドを作りDNAやRNAを構成する有機化合物である。
 地球の歴史上で数回、主惑星帯からの隕石が集中して降ってくる現象が起きたことが知られている。そのうちでいちばん有名なのは41億年前から38億年前に起こったとされる《後期重爆撃(LHB)》である。
 研究者たちは、このような地球への大量の隕石衝突によって核酸塩基やアミノ酸などがもたらされたことによって生命の誕生につながったのではないかと推定している。
 さらに最近、一部の研究者によって主小惑星帯ではRNAそのものまで形成されていたという主張がされるようになった。これも隕石の研究によって明らかになったことだが、隕石に残された有機物の痕跡を解析することによって、地球のウィルスと似たものが存在した可能性があると……』
 ティエンのレポートのこのあたりまで読んでいると、急にニナヤが声を上げた。
「……それだ」
 バーバラはニナヤのほうをちらっと見たが、彼女の表情にギョッとしてむきなおり、まじまじと見つめてから言った。「何が? どうしたの?」
 ニナヤは異常に興奮しているようだった。彼女は顔を上げてぎらぎらした鋭い目つきでバーバラを見るとゆっくりとだが強い口調で言った。
「思ったとおりだった……やっぱりそうだったんだ。それで繋がった!」
「だから、何が?」バーバラがまた聞いた。
 ニナヤはティエンを指さした。そして言った。
「彼は《エイリアン》だ!」
 数秒間、全員の動きが止まった。ゆっくりと、だんだんはっきりと『トリスタンとイゾルデ』の『愛の死』のフレーズが聞こえてきた。女性の叫びのようなバイオリンの高音のうねり。部屋の中で時間が囚われたような沈黙と休止だった。
「はぁっ?」バーバラは急に大きな声を出した。指を差されたままのティエンはとまどったようなよくわからないような顔で黙っている。ニナヤはまだバーバラを見すえていた。彼女は笑っていた。愉快そうでいて不快そうな変な笑い顔だった。それからさらにこう言った。
「……大丈夫、頭がおかしくなったわけじゃないよ」ニナヤは興奮ぎみな様子のまま、言葉をかみしめるようにゆっくりとそう答えた。彼女はさきほどのバーバラと同じように、いや、それ以上に確信に満ちた表情をしていた。
「じゃあ、これから私のレポートの話をするね。有性生殖と多細胞生物の起源について……」
 ニナヤはあらたまった調子で、まるで演説でもするように語りだした。
「正確には……彼のゲノムのY染色体の中に有る、男を作る部分が《エイリアン》ってこと。
 こないだスノーボール・アースの話をしたよね?
 20億年前に細胞共生から真核生物が進化し、10億年前くらいに多細胞化が始まったけど、しばらくの間は単細胞の真核生物の個体が集まっていただけだった。
 でも6億年前のスノーボール・アースの時代が終わると、それまで凍った海の底にいた多細胞真核生物の体に急激な《機能分化》が起こり、オルドビス紀やカンブリア紀の多種多様な生物群に進化した。
 あの後さらに調べたんだけど、2度のスノーボール・アースが起こる前に、きっかけとなるような出来事があった……
それが《8億年前の隕石爆撃》。
 8億年前、地球と月に、大量の隕石が落ちてくる出来事があった。
 21世紀のはじめ、日本のJAXAの研究チームが送った月の探査機《かぐや》が撮影した月面写真の研究によって、月のクレーターの多くが8億年前にできたものだということがわかった。そして月に降りそそいだのと同じように地球にも隕石群の大量爆撃があった。
 研究チームはその証拠として、地球の8億年前の地質の調査を行って、あるときから急激に《リン》の含有量が増加してることをつきとめた……
 つまり、大量の隕石によって地球に《リン》がもたらされたってことがわかった。
 8億年前の隕石爆撃によって地球の大気に大量の微粒子がまき散らかされ、平均気温は急激に低下し、それが2度のスノーボール・アースへ繋がった……6500万年前の恐竜絶滅のときよりももっと激しい環境変化が起こったのは、そのときよりもずっと多くの隕石が降ってきたからだったってわけ。
 ……やがて、凍った海の底でも活動していた海底火山の影響で地球の全表面を覆っていた氷が溶けると、大量の隕石がもたらしたリンを使って、生物が大量増殖を始めた。
 ……でも、隕石がもたらしたのはリンだけじゃ無かったんだ。
 地球に落ちる隕石の多くが主小惑星帯からやってくる。
 その主小惑星帯に存在していたゲノムが、隕石と一緒に地球にやってきたとしたら?
 隕石の奥にひそんでいたゲノムが、地球にたどりついたあと、地球の生物に組みこまれたのだとしたら?
 それが進化の途中にあった多細胞真核生物だったとしたら、そのあとの急激な進化は、その《宇宙ゲノム》が関係してるってことじゃない?」
「……ちょっと……ちょっと待って!」バーバラがやっとのことで口をはさんだ。
「さすがにそれは……ぶっ飛びすぎだと思うよ! もし……そんな隕石由来のゲノムがあったとして、それがウィルスみたいに真核多細胞生物のゲノムに組みこまれたとしても、そのせいで多細胞生物の進化が一気に進むとしたら、それはそのゲノムが都合よくすごく適応的な発現をするってことでしょ? でも地球生物のゲノムは長い時間をかけて地球環境や他の生物との競争関係に適応していくことでゲノムを変えていったのに、そんなふうに別の場所にあった関係無いゲノムがいきなり入ってきて、地球の生物に適応的な形質を発現して広まるっていうのはおかしいんじゃないの?」
 ニナヤはバーバラのこの発言をまるで待ちかまえていたように、柔らかな笑顔まで浮かべて聞いていた。それからさらにこう話しだした。
「……と思うよね。でも、《侵略的外来種》が生態系にどういう影響があるかを考えたらわかるでしょ?
 ある環境の中の複数の生物種は、その環境をふくめてお互いが相互作用をしながら自己保存と自己複製をめざすので、結果的に一定のバランス状態の《生態系》ができあがる。
 捕食や寄生、エネルギーや資源や居住空間の取りあい……そういったさまざまな要因が複雑に影響しあい、わずかな隙があればそこに既存の種から別れた新種が入りこんだりして、環境を埋めつくすように、長い時間をかけて生態系が作られる。そこでは《一人勝ち》をするような種は存在せず、絶妙なバランスで多様な種が存在するように《自然に》成っていく。
 でも、そこに急に新しい《外来種》が入ってくると、その種がその環境に適合していれば、そのたった一つの種が爆発的に増殖する。その外来種に対しては捕食者や寄生者がいなかったり、それまでに無かったやり方でエネルギーや資源を利用するので、在来種が対抗できないことが多いから。それでその生態系のバランスは崩れ、侵略的外来種だけが一人勝ちをするような状況になる。これは別にその外来種が侵略しようとか一人勝ちしようなんて意図があるわけじゃなくて、システム的に《自然に》そうなってしまうわけ。
 そして、知ってると思うけど、21世紀のゲノム関連研究において、生物種で起こるこのようなことが、《遺伝子》とその集合体である《ゲノム》でも起こるということが明らかになっていった。
 20世紀の生物学者リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』で書いたように、生物の個体を自己保存や自己複製に向かわせているものの本体はタンパク質をコードする《遺伝子》なんだけど、遺伝子はDNAの核酸配列の並び、つまり《情報》だということだよね。たとえばヒトのゲノムの中にはその情報が3万程度存在するんだけど、問題なのは遺伝子のまわりに、その遺伝子をどのように発現させるかという《修飾子》である《エピゲノム》が存在するってこと。エピゲノムは真核生物が核ゲノムを持つようになってから登場し、真核生物の進化の最大要因だとも言われている。
 DNAの中でエピゲノム的部分がどんどん増えていって、タンパク質のコード部分を修飾することで、生物の形質の多様性が急激に増大した。それが3回めのスノーボール・アースが終わったあとに地球の生物に起きたことだったわよね。
 これも知ってると思うけど、地球のウィルスは寄生する相手の細胞に侵入したとき、《逆転写酵素》を使って細胞のゲノムにウィルスのゲノムを組みこむことができる。私たちヒトを含めて、生物種のゲノムには過去に侵入してきたウィルスのゲノムの痕跡がたくさん残されている。
 《内在性ウイルス様配列(EVE)》と呼ばれるゲノム内のウィルスのゲノムはウィルスを生産することは無くなるけど、その生物の遺伝子を修飾するエピゲノムとなる場合があることが知られている……
真核生物が生まれた20億年前から、細胞共生だけじゃなくて、ウィルスがゲノムに入りこんでエピゲノム化することもずっと起こっていた。ウィルスのゲノムが寄生主のゲノムに入りこむのは自分自身のゲノムを増やすためなんだけど、寄生された真核生物側もそれを制御する方法を身につけていった。そうじゃなきゃ細胞はタンパク質を作れなくなって崩壊しちゃうからね。
 そうやって12億年間、真核生物のゲノムの中ではウィルス由来のEVEと元々のタンパク質をコードする遺伝子とが共存し、EVEをエピゲノムとして利用することで真核生物は新しい機能を獲得して進化することができた。
 でも、8億年前の隕石爆撃で《宇宙ゲノム》が飛来したとしたら、その宇宙ゲノムが地球のウィルスがやったのと同じように真核生物のゲノムに侵入したとしたら、それは《侵略的外来種》として、自己の増殖だけを優先するように動いたでしょうね。
 そして……私が思うには、この宇宙ゲノムが真核生物に入りこんだせいで、ミトコンドリアとの共生関係に問題が生じたんじゃないかってこと。それまでミトコンドリアとの共生によって酸素を利用できるように進化していた真核生物にとって、宇宙ゲノムの侵略によってミトコンドリアが体内から排除されてしまったとしたら、生命を維持できるかどうかの大問題だよね。
 もしかしたら、この侵略によってそのまま絶滅してしまった真核生物もたくさんいたかもしれない。でも、もしかしたら別の一部は、宇宙ゲノムに侵略されていない個体に自分の配偶子を融合させることで生き残りをはかったのかもしれない。……結局はそういう生物が今も生き残ってるわけだから」
 ニナヤはそこまで一気に話すと、ここでフッと息をついだ。
「そう……それが《男性》っていう存在なんだよ」
 頭の中にあまりにも大量の思考や感情がうずまいていて、バーバラはまったくそれを言葉にすることができなかった。ティエンも呆然とした顔で黙っている。それでもなんとか反論しようという気持ちが彼女の口を開かせた。そして、喋りだすと自分でも不思議だが勝手に言葉がどんどん出てきた。
「でも……でもさ。結局は、すべての多細胞生物の細胞にはミトコンドリアが有るじゃない? だから、その話は変だよ。ニナヤが言うように宇宙ゲノムが細胞からミトコンドリアを追い出したとして、ミトコンドリアを失った個体の配偶子がミトコンドリアを持つ個体の配偶子に寄生する……でも、結局はミトコンドリアはすべての真核生物の細胞に存在するんだから、宇宙ゲノムはミトコンドリアを追い出せなかった。……ってことになるよね? ……何も問題無くない?」
 まだ頭が混乱している様子のバーバラの言葉に、ニナヤはゆっくりとため息をついて、こう返した。
「そう……結局は、多細胞の真核生物にとってミトコンドリアは必須の器官だったから、体細胞から失わせるわけにはいかなかった。だから卵子のミトコンドリアが全細胞に行き渡るようなシステムにしたし、そういった意味では宇宙ゲノムの侵略の影響は小さかった。
 でも、さっきも言ったように、宇宙ゲノムは地球のゲノムに含まれる遺伝子たちが30億年もかけて作ってきたバランスを無視した存在だってことが問題なんだよ。
 侵略的外来種が別に自分たちだけが一人勝ちしようと意図していなくても、生態系を破壊してしまうから問題視されるのと一緒で、宇宙ゲノムは、それが地球では無い別の環境で進化してきたものがいきなり飛来して組みこまれてしまったこと自体が問題なの。
 《それ》に侵略しようとか自分たちだけが広がろうとか、そういう意図が無いとしても、結果としてそうなってしまう。
 ……人類絶滅予測ではヒトのゲノムに絶滅を誘引する何かの問題があるってことはわかってるけど、それが何かはまだわかってない。……つまり、そういうことよ!
 これは、私だけの妄想ってわけじゃない。CCCの内外でそういう考えが広がってきてるんだよ。私たち《NSO》は……」
 ニナヤはそこまで言うと、まだ呆然としたままのティエンを指さしながら、彼をにらみつけて言った。
「《男性》には宇宙ゲノムの特徴がはっきりと現れてる。
 彼らは女性の卵子に寄生し、多くの女性に自分の精子をばらまいて広がろうとし、新しい環境に侵略していき、資源の総取りをしようとし、私たちの共生を破壊する……
 ……私たち《NSO》は……Non-Sexual Orientationは……男性という存在を排除し、多細胞生物の生殖について科学技術を使って改変を行い、人類を新しい方向へ導いて、絶滅から救う……
 宇宙ゲノムから地球生物を救うんだ!」
 ニナヤがそう言ったとたん、バーバラの視界が急に真っ暗になった。そして体に何か強い衝撃を感じた。激しいめまいを感じて固く目を閉じ、しばらくの間は身をすくめていることしかできなかった。
 それからやっと意識が戻ってくると、彼女はそっと目を開けた。
 そこに見えたのは、真っ白な壁の彼女自身の部屋だ。
『……モークスアウトしたんだ。でも、なんで急に? 私は何もしてないのに?』
 バーバラは端末を操作して、またモークスインしようとした。しかし端末は何も反応しない。こんなことは今までで初めてだ。CCC内で支給される彼女のモークス端末がこんな風に急に壊れるなんて有りえなかった。心臓の動悸が激しくなった。寒いわけじゃないのに体が震えてきた。
『何が……何が起こった?!』

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