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子猫ちゃん、どこイクの?[SF小説]#3

※はじめにお読みください

 今日もカナエたちは築6ビルの3階奥の小部屋で仕事をしていた。誰もそうとは言わないが、小さなユウがマミのそばをウロウロと歩いたり大声を出したりすることが他の女性たちには自分の仕事と邪魔と思われて冷たい扱いを受けるため、サトやアイが気をきかせてこの小部屋にマミを誘ったということらしい。
 カナエが以前このビルから出ていく前にはマミが入居してきていたが、その当時はカナエはマミの存在にはうっすらと気がついていたものの、ほとんど気にしてはいなかった。カナエ自身も築6ビルの中で小さな人間関係しか築かずに生きていたのだ。実際、カナエは4階の大部屋にいる女性たちのほとんどの顔はわかる程度で、いちども交流した覚えが無いし、交流したいと思ったことが無い。カナエが4年前に最初に築6に入ったときに知り合ったのがノマで、しばらくはノマとだけつきあっていた。それから2年後にアイが入ってきたが、彼女は少し頑固な部分もあるが落ちついていて世話好きな性格で、すぐにノマと仲良くなり、カナエとも話すようになった。前から居たサトともアイ経由で話すようになったのだ。
 そう考えてみるとアイとサトの親切心の強さには呆れるくらいだ。しかしさらに考えると、サトも以前はリョウという息子を連れて生活していたが、リョウはもう13歳くらいになっていたからいつもみんながいない部屋でひとりで過ごしていて、誰からも気にされていなかった気がする。サトは当時リョウの存在が築6の仲間やエキケイの気に障らないように、かなり気を使っていたようだ。そんなサトにとってマミの境遇が自分に近く、ほっておけなかったのだろう。
 みんながゴーグルを着けて熱心にモニターを追いかけて首を動かしているしんとした部屋で、マミが急に椅子の背にガシャンと身を投げ「あ~だりぃ、やる気が出ねえ」と大声で言った。ゴーグルを下にずらして身体を反らせ、ほとんど板で塞がれた窓の小さなすき間に目をやると「こんなドン曇りじゃあやる気なんか出ねえよ」とまた言った。
「そんなこと言って、いつもやる気無いやる気無いって言ってんだから、天気なんか関係ないだろ」サトがとがめるように言った。
「……だいたいあんた、具合が悪いんじゃないの? 体がガリガリすぎだし肌も汚くなって、見てらんないよ。ユウにおっぱいあげてるし、夜泣きで眠れないんだろ? そんなんじゃ頭も回らないし、フラフラになるよ。だから仕事もうまくできないんだ。」サトがさっきよりもずっと感情のこもった様子でそう言い足した。
「……んなこと言ったって、どうしようもねえよ……」
 そう言ってマミがため息をついて仕事に戻ろうとゴーグルを戻して身体を起こしかけたとき、何かに気を取られたように彼女の動きが止まった。マミはしばらくその変な体制でじっとしていたが、ハァーとため息をついてまたゴーグルを外し、こんどはそれを手に持ってじっと見つめ、言った。「あのバカ、会いたいとか言ってきやがった……」それまで隣でモニターに向かって黙々と作業していたアイがふり向いて「シンゴさんが?」と聞いた。マミは「ああ」とつぶやき、「あたしとユウに会いたいってさ。ほんと、バカじゃねーの」と続けた。
「会ったらいいじゃん。ユウの父親だろ?」サトが言った。
「あいつ、こっちに来れねーし。ジュカに嫌われてるから、エキケイに会ったら何されるかわかんねーし」マミが言い返した。
「市役所前なら昼間は安全だけど、あんなとこまで歩くのカッタルイしなあ」
「あたし、付いて行こうか?」アイが言った。いつの間にかユウがまたアイの膝に抱きついていて、アイは彼女の背中をなでている。
「あたしがユウちゃんを連れていくから」
「ぇえー、面倒くせえ……あたしだけで行くって。ユウまで連れてくのは……」マミが心底だるそうに言った。そのときカナエがモニターから目を離し、マミに言った。
「あたしがジュカに話をつけるから、ここの下で会えばいい。そんで、あたしがユウを連れていくから。それなら安全だし楽だろう?」マミは驚いた顔で聞いた。「……それでいいけど、なんであんたが……」
「ミカが死んだ件について調べなきゃいけないからさ。ジュカが『オヲハが怪しい』って言ってるから、シンゴに話を聞いてみようかと」
「あぁ、ジュカがそんなこと言ってるんだっけ。はぁ……バッカみたい……」マミが吐き捨てるように言った。「ジュカはただオヲハの連中が嫌いなだけだろ。あいつらずっとジュカに近づこうとしていろいろ仕掛けてきてるけど、やり方がアホすぎてうざいし、あいつら相手にしたってジュカには何のメリットも無いってわかってないんだから……シンゴだってミカのことは何も知らねーと思うけどな」
「あたしもそう思うけど」カナエがそう返した。「でも、こっちも事情があって、やってるとこは見せないといけないんだ。だからいちおうシンゴに話を聞く」
「わかったよ……じゃあそれで」マミが疲れたように言った。
 カナエは早速モークス端末を使ってジュカに連絡をとった。
「シンゴか……まあ、しょうがねえな。たしかに、あいつらにはロクに話を聞いてない」カナエからひとしきり経緯を聞いたジュカが念を押すように付け足した。「あいつと話したら、ちゃんと殺ったことをゲロらせろよ?」
「まあ、それは話してみないとわかんないよ。とにかく、殺人事件の捜査は関係者にいろいろと話を聞いてみるもんなんだ。昔あたしが読んだ小説ではそうだった」あきれる気持ちを隠しながらカナエが言った。
「ホントはまとめてシメあげて吐かせたら良かったんだけどな……あいつら最近はこっちに寄りつかなくなってるし、エキケイの数も減ってるからなぁ」
 オヲハの連中が駅周辺に近づかなくなったのはミカの件で疑われてるのを察知したからだろうし、エキケイが減ってるのはジュカが自分勝手なルールをふりかざして気に入らない相手を排除しまくるからだろうとカナエは思ったが、素知らぬ顔をしていた。
「じゃあ、そういうわけだから」カナエはジュカのまわりにいる男たちを見まわした。「シンゴがビルを出入りしても手出ししないように頼んだからね。これはミカを殺した犯人を上げるために必要なことなんだ」
 シンゴはビクビクした様子で築6ビルに現れた。玄関前にいたエキケイの男らから少しちょっかいを出されたようだ。それでも2階のフロアで待っていたマミとユウを見つけたとたん、緊張がゆるんだようだ。
「よぉ、マミ……元気か?」弱々しい笑顔でシンゴが言った。
「元気なわけあるか!!」マミがどなった。「こっちは毎日ずっと仕事しててクタクタなんだよ! あんたみたいにブラブラしてんのと一緒にすんなっ」
「べつに俺はブラブラしてるわけじゃ……」シンゴが不満そうに反論しようとした。
「はぁ? エキケイできなくなって、中洲なんかでぶらついてんじゃん? オヲハみたいなチンピラグループに入りやがって。こっちは仕事とガキの世話でクタクタだってのに、ホントにあんたは何やってんだか……」
「あーもう、うっせぇなぁ。俺だって稼ごうと思ってがんばってんだからよ、もうちょっと待ってろっての。それより、ユウをこっちに寄こせ。ユウ、パパだぞー」
 ユウはマミの顔を見てシンゴを指さし、「パパ?」と聞いた。それを見たシンゴは狼狽してマミに言った。「おい、パパ?って聞いてんじゃん。どういうことだ? 俺の子で間違いないんじゃ無かったのかよ?」
 マミは心底うざそうに答えた。「たまにしか見ないから、あんたの顔を覚えてないんだよ。バカじゃないの? この子2歳だよ?」
 フロアの隅に立っていたカナエがユウに近づき、ぎこちない手付きで彼女をかかえると、シンゴの前まで連れていって下ろした。それからシンゴを見上げて「よぉ、ひさしぶり」と声をかけた。シンゴはまたビクついた顔に戻ってマミに聞いた。
「さっきからこいつが居るの気になってたけど、なんで居るんだ?」
 マミがほこりだらけのソファに座りこみながら答えた。「ちょっと前にミカが死んだじゃん。あのことを調べてるんだってさ。ジュカに頼まれたんだって」
「ミカが死んだのは、俺は何も知らない」シンゴは即座に答えた。
「まあまあ」カナエが顎でソファを示しながら言った。「そう即答しないでさ、もうちょっと考えようか? みんなでそこに座ってさ」
 シンゴはユウを抱き上げると、黙ってソファまで行ってマミの隣に座った。ユウを抱えたままで彼がドッと腰を下ろすと白いホコリが暗い部屋の中で激しく舞った。カナエも静かに3人と離れた場所に座った。
「……で?」シンゴが言った。
「ジュカの話だと」カナエがそう切りだした。
「2月22日の夕方、メイジ公園前の道の上でミカが倒れてるってクシナダ経由で警察からエキケイに連絡が来たって。そこの道は狭くて人もあまり通らないけど、クシナダの防カメが生きてるしドローンのパトロールコースだから死体はすぐに見つかったらしい。ミカの身体に外傷は無かったそうだけど、それまでは元気でピンピンしてたから急に死ぬのはおかしいってジュカは言ってる。ほんの20分前くらいまでミカはジュカと一緒にいて、ちょっといなくなったと思ってたらそうなってたらしい。
 ジュカは警察に調べろって言ったけど、まあ、警察に言っても無駄だよね。ジュカはクシナダにもグシカイにもコネを持ってるから、カメラとドローンの記録も調べてもらったし、グシカイに頼んで周辺の奴らにも聞いたけど、誰もミカが倒れるまでの様子を見てなかったし、映像記録にもミカが一人でいるところしか写ってなかった」
「……じゃあ、誰も関係ねぇじゃん。ジュカが勝手に殺されたって言ってるだけだろ」シンゴが言った。
「そうだな」カナエが答えた。シンゴの膝の上に前向きで座っていたユウが身をよじって立ち上がり、父親の肩を超えてソファの背に登ろうとするのをシンゴが手で抑えた。「こいつ、ウンコ臭え」と彼が言ったが、マミは放心したようにソファにもたれて黙っていた。カナエが言った。
「……ミカもかわいそうだな。いきなり死んで、死因もわからなくて、気にしてるのはジュカだけで。まあ、たしかにあいつは嫌なヤツだったけど」
「姉に似て嫌なヤツだった」シンゴが言うと、マミまでが口を開いて「死んで良かったとまでは思ってないけど……わがままで嫌なヤツだったのは間違いない」とつぶやいた。
「ジュカはオヲハが関係してるって思ってるみたいだ」シンゴの顔を見ながらカナエが言った。シンゴはすぐにビックリした顔になって「はぁ? なんで?」とカナエに聞いた。
「おまえらがジュカのまわりをウロウロしてたからだろ? ジュカの話だとミカが死ぬ前までメンバーがとっかえひっかえエキケイの事務所に近づいてはガラスに石を投げたり、ジュカやミカの後をつけまわしたりしてたってな? ミカが外に出てるときにヒロが近づいて、わけのわからん話をしてきたことも何度かあったって」
 シンゴはユウを抱えなおしながら空を見つけて深い息を吐いた。
「ヒロはジュカと繋がりたいんだよ。ジュカがグシカイの誰かと繋がってるらしいって話を俺がしたから、ジュカからグシカイに繋げてもらおうと思ってるんだ。ヒロはグシカイに入りたくてたまんないのに、あっちからはほとんど完全に無視されてるから」
「……でも、オヲハはグシカイの手伝いをしてるんでしょ? だったら繋がりは持ってるんじゃないの? あんたそう言ってたじゃん」マミがシンゴに聞いた。
「……手伝いったって、《廃品回収》の売上げを収めたり、この辺に転がってる死体を拾って港に捨てにいく仕事を勝手にやったりしてるだけだし。顔を合わせるのは港にいる《回収屋》くらいだし、あいつらだってグシカイの下っ端かどうかも怪しいしな。
 ……そんな感じで、ヒロは何年も中洲でウロウロしてんのに、グシカイにくいこめないからイライラしてんだよ。俺とリョウを置いてるのもジュカと話ができると思ってるからだし、とにかくあいつの頭ん中はグシカイのことでいっぱいだな。……それと女」シンゴは一息つくと、続けて言った。「ここの女らのことも狙ってると思う」
「チビで頭の悪いチンピラのくせに、バッカじゃないの」マミが言った。
「……とにかく」シンゴが手足をばたつかせて暴れるユウを床に下ろしながら言った。
「ミカを殺したらジュカが怒るんだから、そんなことはしねえよ。どんだけヒロがバカでもそれくらいのことはわかってるって」
「だろうね」カナエが答えて、ソファから立ち上がった。「……じゃあ、あたしはもう上に行くよ。帰るときは気をつけてな」
 部屋に戻るとアイとサトがシンゴとマミの様子を聞いてきたが、カナエには言えることがほとんど無かった。どちらも良く知らない人間なのだ。椅子に座りながらカナエは自分の感想をぼそっとつぶやいた。
「なんであんなしょうもねえ男とガキなんか作るんだろ?」
 アイとサトは無言だったが、しばらくするとアイがこれまたぼそっと答えた。
「好きになっちゃったからじゃないかな……」
「……くだらねえことで人生が決まっちゃったんだな」カナエが言った。
「子供がいるのはそんなに悪くはないよ」サトが静かに言った。それから短くため息をフッとついて、また言った。「でも、男がちゃんとそばにいて、働くなり世話するなりしてくれたら、もっといいんだけどね」
 カナエは何も言わなかったが、自分のまわりではそんな男は見たことが無いと思っていた。彼女もどこか別の場所では男女が一緒になって子供を育てていることもあるとは知っていたが、それは《マトモ》な人間の話で、《マトモ》な人間なんてずっと自分のまわりにはいなかったし、これからもたぶん現れないだろう。でもそれは自分自身が《マトモ》では無いからで……
「あーだりい。だるかったなー」そう言いながらユウを抱っこしたマミが部屋に戻ってきた。
 サトが「どうだった?」とマミに聞いたが、マミは何もいわずに不機嫌そうにドッと自分の椅子に座ると、ユウを床に下ろした。それからまた「だりい」とだけ言った。サトはもう何も言わなかった。それからみんなは黙って仕事を始めた。
 いつもと同じように3時頃にカナエはノルマを終わらせたが、マミはまだ全然進んでいないようだ。シンゴと会っていた時間の分を損したと言いながらモニターにかじりつく彼女をサトとアイがなだめていたが、カナエは「お先」と言って仕事部屋を出た。ドアを開けたときに部屋をぐるぐると走っていたユウが廊下に飛び出したが、カナエは彼女を追いかけて後ろから身体を抱えると「他の場所に行くといじめられるから、ここに入ってな」と言って部屋に戻し、ドアを閉めた。
 エキケイの事務所に行くと珍しくジュカがとりまきと一緒にフロアにいた。彼らは新人のエキケイ候補者を品定めしてる最中で、新人の若い男はソファに座ったジュカたちから少し離れて立っていた。カナエはそれが終わるまで玄関の近くの壁にもたれて様子を見ていた。
「……だから、その辺では負けなしだったってことよ」若い男はそう言っていたが、カナエが見るかぎり彼はやせ細っていて、ケンカが強いようには見えない。ジュカたちも疑い深そうに彼を見ていた。もう結論は出ていたようで、ジュカは静かな声で「出て行け」と彼に言った。
 てっきり採用されると思いこんでいたようで、若い男はビックリしたように身体をよじった。
「はぁ? いや、だから俺は……」
「出て行け」さらに強い口調でジュカが言った。「おまえよりマシなやつがいくらでも来るんだよ」
 それを聞いて若い男は目の前のローテーブルを蹴り上げた。テーブルがガタッと音を立ててジュカの方に動いた。「ふざけんな!」男が言った。それからジュカのまわりにいる男たちをぐるっとにらみつけた。
「だいたいなんで女がいちばん偉そうにしてんだよ? おまえら頭がおかしい。こんな女ぶっとばしてやりゃいいじゃねぇか」ジュカを指さしてそう言った。彼女はやや怒りをこめた表情で言った。
「あぁ? じゃぁぶっとばしてみろや? ほら」そう言ってジュカは立ち上がり、ローテーブルを足で押して若い男に近づくと、両腕を後ろで組んだ。「ほら、こうして立ってるから、ぶっとばしてみろ」
 若い男はとまどったようにまわりの男たちを見た。男の1人が無表情でうなずいた。ジュカはややがっしりした体格だが、若い男よりはずっと小柄なので、いけると思ったようだ。彼はいったんズボンのポケットに手を入れると、すばやく拳をふりあげた。キラッと何かが光ったので小型のナイフでもつかんだのだろう。カナエが息をのむ間に拳がジュカのみぞおちに当たるボンという音がして彼女の上半身がやや後ろに傾いたが、腰から下はまったく動いていない。まるでデモンストレーションのようにジュカが自分で衝撃を受けたような動きをしてみせた感じだった。首が下に振れたついでのようにジュカは自分に当たった部分を見つめた。そこはわずかにへこんだようだったが、すぐに何もなかったように鈍い光を取り戻した。男を見ると、ジュカに拳を当てた衝撃で彼の方が後ろに引きずられ、ややふらついて右足を半歩後ろにずらしていた。若い男はそこでようやくジュカが着ているスーツの機能に気がついたようだった。「何だ、それは?」体制を立て直し、拳をふりあげたままそう聞いた。
「これは《コンニャク》だ」ジュカが笑って言った。「防御にはめっぽう強いが、攻撃もそこそこいける。こんなふうに」そう言うと思いきり身体をひねって右ひじを上げ、身体ごとぶつけるように若い男にひじを当てた。男はロビーの端のほうまでふっ飛び派手な音を立てて床に叩きつけられた。音は数秒間も部屋じゅうに反響しながら続いていた。全員がその男を見つめるなか、しばらく彼は動かずにそのまま寝転がっていたが、やがて腹を押さえながらよろよろと起き上がった。痛みからか、顔からは汗がどっと吹き出し額にしわが寄っている。荒い息を吐きながら立ち上がろうとするが、足がよろけてうまく立てないようだ。
「骨を折ったか?」ジュカが聞いた。それからまわりの男たちに「歩くのを手伝ってやれ。もうこのあたりには近寄らないように言っとけ」と言うと、男たちのうち2人が立ち上がって無言で若い男の両腕をひっぱって立たせ、そのまま外へ引きずって行った。
 カナエは彼らが玄関から出て行くのを見送ると、ジュカの方に近づいた。ジュカは右の手首のあたりの匂いをかぎながら言った。「このスーツ、どういう素材でできてんだろうな? ずっと着てんのにぜんぜん臭わねぇなぁ」
「さぁ」カナエが答えた。「CCCが開発した超素材じゃないかな」2人とも立ったまま、カナエは手短かにシンゴとの話を伝えた。それから「オヲハは関係ないと思うよ」と言ったが、ジュカは固い表情になり「そんなわけはねえぞ」とぶっきらぼうに答えた。
「ちゃんとシンゴから話を聞いたのか? あたしよりおまえの方が頭がいいと思って任せてんのに、何もできてねえじゃねえか……」ジュカはイライラした様子でそう続けた。
「そりゃどうも」カナエは言ったが、内心では不快感と焦りが生まれていた。ミカがどう死のうがどうでも良かったし、自分が調べたからといってこれ以上の事実がわかるとも思わなかったが、ノマの待遇を変えてもらうためにも、ジュカの気がおさまるようにしなきゃいけない。
「オヲハがエキケイに戦争やらかそうって計画の話は聞いたか?」ジュカがそう言ったので、カナエは心底から意外な顔で「いや?」と答えた。ジュカはバカにしたような調子で「おまえ、何も聞けてねぇじゃん」と言った。
「シンゴがマミにその話をして、マミがあたしに教えたんだ。オヲハなんてバカの集まりが何を計画しようが別にどってことないけどさ。あいつらはあたしを狙ってるんだから、ミカのことだって狙ってたに決まってるんだよ。」
 カナエは心の中でため息をついた。シンゴの話とジュカの話とはまったく食い違ってるが、マミだってあの場では知らん顔をしてた。たいした知りあいでもない自分に何でも話すとはもともと思ってなかったが、それならあたし抜きでやればいいじゃないかとジュカに言いたくなった。
「とにかく、シンゴ以外のやつらとも話してこいや。ぜったいにあいつらの誰かがミカをやったんだ」ジュカは重ねてそう言った。カナエは慎重に言葉を選びながら彼女に聞き返した。
「あのさ……ミカって死んだときに目立った傷なんかは無かったんだよね? だったらどうやって殺されたのかな?」
「知らねぇよ。だからそれを調べろっつってんじゃん」ジュカが強い口調で答えた。カナエはため息をついた。
「……あいつらがこっちに仕掛けてくる前に、1人ずつ捕まえてボコってやる」ジュカはさらにそう言った。「このあたりでやればエキケイの仕事ってことで、殺したって何も問題ない」
 ……もう答えは出てんじゃん。ミカ殺しの犯人が誰だろうと、オヲハのメンバーは全員殺すって。カナエは心の中でジュカにそう話した。こんな探偵ごっこをこれ以上続けても何も解決しなさそうだ。……よくよく考えてみると、ジュカを説得してノマを築6に復帰させたとしても、あの様子だと前のように働くこともできないだろう。ノマの以前の働きだってかなり怪しい状態だったのは確かで、彼女の生活をここで成り立たせるには他の方法を考える必要があるだろう。……こうなったら、自分が覚悟を決めるしかない。カナエはほとんど無意識的にではあったがそう結論を出した。とはいえ、ジュカを無駄に怒らせるわけにはいかない。「……もうちょっと調べてみる」カナエはあいまいにそう言って事務所を後にした。

 同じころ、博多駅からすぐの公園のベンチにシンゴが座っていた。前かがみになってだらんとした両肩の先の手を上着のポケットに突っこんでいるので上着が足の間にまっすぐ垂れている。彼はその状態で20分近くもただそれをぼんやりと見ているようだった。たまにあくびが閉じた口を不明瞭な形に開けさせる。1人の男が近づいて来るのが見えたので、彼は体を起こした。
「まったく、クソつまんねえことで呼び出しやがって」まだシンゴが何も言ってないのに男はそう言った。彼はいつもジュカのそばにいる取巻きの1人でユキという名前だ。ユカは30代半ばの歳でエキケイ歴は長い。シンゴのこともよく知っていて、お互いに嫌いあっている仲だ。お互いになんで今こいつと話さなきゃいけないんだと考えているのは間違いなかった。シンゴはぼそぼそとユキに話しだした。
「こないだの、ヒロが言ってた話だけど……」
「あのチビで顔つきも頭も悪そうな奴か? あいつヒロっていうのか?」ユキはすぐにシンゴの話をさえぎって言った。
「そう、そのヒロが言ってた……」言いながらシンゴは首をすくめてあたりを見回し、さらに小声になって続けた。「ジュカの件だけど……考えてくれた?」
 ユキは1歩シンゴに近づくと、こちらも小声で答えた。「ジュカを消そうなんて考えはやめとけ。おまえだってわかってんだろうが?」
「俺は……わかってるけど、ヒロたちがなぁ」シンゴは言った。
「ヒロはエキケイと繋がったらグシカイとの世話はしてやるって」
「マジか? ヒロってのはどんだけ頭がやべぇんだ?」ユキはこみあげる笑いを押し殺しながらそう言った。「普通に考えて、ジュカ消してそっちと繋がって、俺らになんの得があるんだ? おまえだってそれくらいわかんだろ?」シンゴをバカにしたようにユキが言った。
「ヒロは……自分なら女たちをもっと好きに使うって」渋々とそうシンゴが答えるとユキは真顔になって重い調子で「女?」と言った。
「……たしかにジュカは女についてはうるさい。だいたい女たちはエキケイに守られてるからあそこで働けてるわけだ。ちょっとくらい手ぇ出したってどうてことないはずなんだよ。おまえだってマミに手を出してジュカに追い出されたもんな」
「……まあね」
「おまえだって知ってんじゃねぇか? ジュカはエキケイには女に手ぇ出すのを制限しといて、働きのダメなのはグシカイに渡してるって。それであいつはグシカイとのパイプを繋いでる。マジ悪だ、あいつは。……消せるもんなら消してぇけどなぁ」ユキは下を向いてそうつぶやき、顔を上げてシンゴを見た。「……でも、やっぱ無理だろ。コンニャクが……」
「……まあ、そうだよな」シンゴも顔を上げて言った。

 中洲の大型ビル内のオヲハのアジトでリョウとホーランが話していた。ヒロとモンタはビル内にいるものの2人でどこかに行ってしまっていて所在不明であり、つかまえたところでホーランに敵対的なモンタが話をさせてくれない。ノブとヨーフィは雨以外の日は常に旧繁華街を歩き回って仕事をしていて、ついて行かなければ話ができないし、ついて行ったとしても話を聞き出すのはとても手間がかかった。ホーランは研究のためになんとかこれらのタスクをこなそうとはしているが、今日はちょっと疲れているのでいちばん話しやすいリョウに話を聞くことにした。
 リョウは自分が築6で育ったこと、そこで女性たちに囲まれていたものの誰とも親しくなれずに孤独でいたこと、そんなときにエキケイ時代のシンゴが目をかけてくれて話し相手になってくれたこと、自分の兄貴分だから彼を『兄イ』と呼んでいることなどをホーランに話した。
「シンゴさんはなぜエキケイをやめたのでしょうか? エキケイは博多駅周辺の自警団的な組織でクシナダからの支援もあり、ここに居るよりは良いと思われるのですが」ホーランが聞いた。
「もちろん兄イはエキケイでいたかったと思うよ。俺だってやりたかったし。やっぱカッコいいじゃん? ピストルはジュカが認めたやつしか持たせてもらえなかったけどさぁ」リョウが言った。
「……結局はジュカなんだよ。兄イは築6のマミってやつを孕ませてユウが生まれたんだけど、しばらくは別になんとも無かった。でも兄イが仕事でやらかしたのがきっかけでジュカが怒ってさ。急に駅ビルの仕事してる女を孕ませたらダメだとか言い出して。
 ジュカはコンニャクっていうすげえスーツを持ってて誰でも簡単にボコれるし、バックにクシナダとグシカイがついてるから勝手なことばっか言ってても誰も文句が言えねぇし。
 そんで、兄イがマミを孕ませたのが悪いってなって、ジュカに追い出されちまった。俺もそろそろエキケイの仕事をやろうかなって思ってたんだけど、ジュカの機嫌が悪くて認めてもらえなくってさ! そんで、兄イに呼ばれてこっちに来たってわけ。マジでジュカにはむかつくわー」
「そのジュカという人のことは知っています」ホーランが目をしばばたせながらそう言った。
「天神から戻ってこちらに来る前に、CCCを拠点にしばらくこのあたりを調査したんです。フィールドワークに適しているかどうかをね。博多駅にはCCCの外部受託設備があるということで治安情報が豊富だったんですが、アウト社会の研究としてはふさわしくない。中洲地区は都市社会の典型的要素が多くあるうえに天神のヤクザ支配地域よりは治安が良いので、研究対象に決めたんです」
「そういえば、学者さんはグシカイのアジトにいたんだよな? どうだった? やっぱおっかないよな?」リョウが聞いた。
「《おっかなかった》です」真摯な態度でホーランが答えた。「私に対しては決して敵対的では無かったのですが、率直に言って、彼らの生態を観察するのは精神的危険を感じることが多かった……」
「やべえな……」リョウが真剣な顔になった。「俺の彼女も、親がグシカイの幹部でさぁ」
「アイさんですか?」ホーランが聞くと、リョウが嬉しそうにうなずいた。
「そう。アイは親父がグシカイだからずっと天神で育ったんだけど、すっごくヤクザが嫌いでさ。15のときに逃げ出して築6に来たんだよな。そんとき俺は13だったけど、見た瞬間に『カワイイ!』ってなってさぁ」リョウの顔がでれでれしだしたが、すぐに少し真顔に戻ると、考えるような様子で言った。
「でもなぁ……アイって、なんかいまいちノリが悪いっていうか……兄イはアア言うけど、ぜんぜんセックスにイける感じがしねえよ……どうやったらメロメロに持ってけんのかな?」
「……それについては専門外ですが、私にも独自の考えがあります」ホーランが生真面目にそう答えた。
「へえ?」リョウがあいまいに聞き返した。そもそも、彼には《学者さん》の言うことがあまり理解できていなかった。それでもホーランが真摯に受け答えする様子には好感を持っていたし、彼なりの好奇心で《学者さん》の知識を吸収したいという欲求があったので、よくわからないながらもさらにこう聞き返した。「考えってなんだ?」
「アイさんに《恋》をしてもらうということです」
「コイ? ……でも、俺がアイのこと好きだって言ったら、アイも俺のこと好きだって……」リョウがそう返すのを右手を前に上げて制止しながらホーランが言った。
「もしかしたら《好き》という言葉の意味を共有できていないのでは無いでしょうか? アイさんはリョウさんに対して《メロメロ》にはなっていないということですよね? アイさんにとっては、リョウさんへの気持ちはまだ《恋》では無いのではないですか?」
「ふぁっ?」リョウが変な声を出した。それから彼の顔がやや赤くなり、弱気な声で「じゃあ……どうすりゃいいんだよ?」と言った。
 ホーランはリョウの方に突き出した右手をそのまま指先だけ変えて、人差し指で彼を指し示すと、指先を上下に軽く降った。それから手を下ろしてスーッと息を吸うと、とうとうと話しだした。
「……説明しましょう。私たちヒトは早い段階から一夫一妻制だったと考えられています。それはチンパンジーなどとくらべて繁殖頻度が高い、つまり短いサイクルで子供が生まれるということと関連して進化したと言われています。母親が小さな子供を複数かかえていたら、自分の生存のためにエサを探すことが難しいですよね? でもオスが特定のメスに継続的に食料を持っていけば、メスは複数の子を育てながら生存でき、オスはその子たちの確実な父親になれるわけです。
 一夫一妻制においてはオス間の競争がやわらぐためオスは余剰の力を妻子の世話にふりむけることが可能になり、子の生産率と生存率が上がることでそのようなオスの適応度も上がり、その形質が種内で増えていきます。
 だとすると、もともと《恋》はオスを1人のメスにつなぎとめるための機能として進化したと考えるのが自然です。オスという存在はもともと、より多くの子孫を残すために精子をばらまくようにセッティングされているので、繁殖相手のメスを固定することはその基本設定を上書きする必要があります。だから一夫一妻制になるために1人のメスにこだわる《恋》が脳の新しい機能として進化することになった。しかしメスにはそのように強制的に本来の性質を変えるような進化的な要請は存在していない。メスは乱婚制にしろ一夫一妻制にしろ生殖については受動的立場で、食料を運んでくるオスを性的に受け入れるために恋をしようがしまいが、オスは勝手に……まあ、アレですね。
 しかし、人類の文明社会が急激に発展し、西洋の啓蒙主義思想などの影響で男女はお互いの意志によってのみ繁殖行動をするという規範が求められるようになってきて、改めて《恋》の機能がフォーカスされるようになったわけです。
 ヒトの行動がある程度ゲノムによって決められていることはあなた方もご存知でしょうが、エピジェネティクス学の進展により、ゲノムにはその発現をコントロールする部分が大量に存在し、それによって同じようなコード配列であってもヒトの行動は大きく変わりうることがわかってきています。行動の進化がほんの数十年単位で起こりえるということは過去の進化学では信じられていませんでしたが、現代では受け入れられ主流の概念となっています。現代の社会学ではこのような知見をもとに社会の変化がどのようにヒトの行動に変化をもたらすかを研究するわけです。
 一夫一妻制との関連では脳内物質の《バソプレッシン》が有名ですよね。人類においてバソプレッシンは受容体の多型がある……あっ、遺伝子多型はわかりますかね? 基本的に遺伝子はタンパク質の元となるアミノ酸の並びを記録していますが、その配列が一つでも変化するとタンパク質が合成されなくなるような遺伝子の場合は淘汰されて失われていきます。しかし一つが変化してもタンパク質の量が変化するくらいであれば、その変異も集団中に残っていきます。そして環境の変化によって変異体をもつ個体の方が有利になればその変異が広がっていきますが、有利でも不利でもない場合は通常体と変異体はそれぞれが生き残ることになります。これが遺伝子多型の基本的な概念です。
 もしオスが好きに行動できるなら、オスはどのメスもレイプしてまわるでしょうが、他のオスも同じようにするでしょう。こんな状況ではメスは落ち着いて出産して子供を育てることができないということはわかりますよね? だから、そんな行動をしたオスの子孫はほとんど残らず、特定のメスのそばにいて自分の子供が殺されないように守ったオスの子孫が増えていったんです。それがヒトの一夫一妻制の起源だと言われています。つまり、一夫一妻制は純粋にオス同士の性戦略の結果として存在するのです。
 しかし、もともとの進化的定義からオスは《ばらまく性》なので、一夫一妻制というのは本来《性に合わない》ものです。そんなオスが特定のメスの元に居続けるには、新しい仕組みが必要になります。それが《恋》という機能です。
 21世紀初期にハダカデバネズミの複数の種による研究で、一夫一妻制の実現にはバソプレシンという脳内ホルモンが関係することがわかりました。ゲノムのわずかな違いでバソプレシン受容体の量に差が生まれ、特定のメスに対するオスの行動が変わります。バソプレシン受容体が多いと特定のメスに執着し、少ないと複数のメスに同等に求愛をするのです。これはバソプレシンが扁桃体に作用し不安をかきたてることで特定のメスに執着する作用があるということです。
 ヒトでも同じような作用があることがわかっていて、バソプレシン受容体の多型はちょうど半々の割合で男性が一人の女性との継続的な関係を好むか、あるいは多数の女性との関係を望むかどうかを決めるようになっていることがわかっています。
 動物行動学や遺伝行動学、神経科学などの研究により、哺乳類はおろかヒトでさえも、無意識のパターン的な行動に支配されているということがわかってきました。それまではヒトだけは高度な理性をそなえ、自由意志によって自分の行動を決められると思われていましたが、そうでは無かったんです。だからわれわれ男性がどのように女性に恋をするのかもゲノムに含まれるバソプレシン受容体の多型に影響されているということなんです。
 ……このようにヒトの男性の大半は一夫一妻制のために恋をするようになったのですが、その生化学的なしくみとしては、扁桃体と海馬のシナプスにドーパミン回路が形成されることによって可能となります。
 これは一種の《刷りこみ現象》として理解されています。
 《刷りこみ》について知っていますか? 知らない? 動物行動学者のコンラート・ローレンツが1949年に『ソロモンの指輪』で書いた有名なエピソードで知られるようになった概念なのですが。鳥のガンのひなが卵からかえって最初に見たものを母親だと認識して、ずっとその後をついてまわるようになるというような現象を表す言葉です。
 刷りこみは脳内で一瞬で起こる特殊な学習だと言われています。
 学習そのものは単純な生物にもある神経機能ですが、通常は繰り返しの条件付けが必要となるものです。パブロフの犬とか、ウミウシに痛み刺激と筆でこするのを同時にやるとこすっただけで体をひっこめるとか、知っていますか? 知らない?
 刷りこみの場合は、ある条件が揃うと学習されてしまう。生存に適した規定された行動があって、その条件だけが後から入力されるみたいな感じですね。ゲノムに元からプログラムされている本能的行動と後から学習する行動の中間のような機能だと思うといいのではないでしょうか。
 刷りこみと言われているものの一つに性に関係したものがあるのですが、知らない……ですよね。おおまかに言うと、動物園で飼われている動物が自分と同じ種ではなく別の種しかいない環境で育つと、その別の種に求愛するようになるという話です。これは子供の頃の生育環境で何が《異性》であるかという認識が決まるということなんです。
 ここからが本題ですが、《恋》も一種の刷りこみ現象として考えられるんじゃないかと思うんです。『一瞬で恋に落ちる』って言いますよね? 生殖相手を捕まえるのは生物としての本能的機能ですが、どの相手と生殖するかは生まれた後で決める必要があります。動物園の例から考えると、子供の頃に近くにいた相手は自分と同じ種である確率が高いから、それを繁殖相手にするという刷りこみが起きると考えられます。
 特に哺乳類の男性と女性では繁殖にかかるコストに大きな差があり、人類が進化的に一夫一妻制に適応したゲノムを持つようになったとしても、男性ほどには簡単には女性は恋に落ちないのです。
 女性の場合には《恋》は特定の男性との繁殖に向かうための動機づけとして理解できるでしょう。一夫一妻制の鳥類でもメスはオスに対して厳しい性淘汰を行い、自分のゲノムと組み合わせてもいいと思うゲノムを厳選するのです。脳が巨大化したせいでヒトの女性は非常に難産であり、文明化以前のほとんどの時代において出産は命がけでした。男性の繁殖は余分の労働とひきかえの賭けですが、女性の繁殖は自分の人生を左右する賭けです。ですので、女性は特定の男性に《恋》することによって、命がけの出産に挑む賭けに出るのです。
 男性にとっては多くの女性に精子をばらまく本能を、女性にとっては自己保存の本能を抑えなければヒトとして繁殖ができないので、脳の刷りこみ機能によってそれを無理やりに実現するのが《恋》なのではないかというのが私の仮説です。
 ……ということで、リョウさんが言う『メロメロにさせる』というのはアイさんに《恋》をしてもらうということになりますが、それはリョウさんに対してアイさんに《刷りこみ》が起こることと同義なんです」
 ここまで一気に言うとホーランは自信ありげにリョウの顔を見た。リョウは両の目を丸くしてホーランを見つめていたが、その顔はまったく話を理解したという感じでは無かった。彼は残念そうな様子で、絞り出すような声で言った。
「女をメロメロにすんのってそんなにややこしいのか……なんか無理な気がしてきた」

[フィールドノート]
 今日はシンゴが「ヤボ用」で外出すると言うので、同行できるかと聞いたら断られた。帰ってからどんな用事だったか少しでも聞きたいと言ったがそれも拒否されてしまった。その後リョウがシンゴの事情について語ってくれた。(映像記録リンク)
 リョウの話は脱線も多くわかりにくかったので、概要をまとめておく。
 シンゴはオヲハに入って1年5ヶ月ほどである。その前は《エキケイ》と呼ばれる仕事に就いていたとのこと。博多駅周辺のビル群にCCCが業務委託する個人の就業スペースが整備されていて、そのビル群の内部と周辺はハカタCCCが管理する防犯組織である《クシナダ》の管轄であるが、《クシナダ》がさらに外部の個人に治安業務を委託する人々の集まりが《エキケイ》ということである。
エキケイがどのように運営されているかについてははっきりしないが、できれば今後さらに調べたいと思う。
 オヲハの中でもシンゴとリョウは私が最も話しやすい相手であるため、よく彼らの近くに居て聞き取りや観察をするようにしている。
 私の感覚では、オヲハグループの青年たちはヤクザ組織のグシカイの平均的な構成員とくらべて知的レベルがさらに低いように感じられる。シンゴとリョウは他メンバーよりも知的レベルが上に思えるが、それでも日本のアウターの平均値よりも下ではないだろうか。
 しかし、グシカイのメンバーと比較して彼らの普段の対人態度は善良でつきあいやすい。オヲハの他メンバーは私に対してやや攻撃的ではあるが、それでもグシカイの天神のアジトで味わった緊張感にくらべればこちらのほうがはるかに居心地がいい。
 上記のとおり、シンゴとリョウは私がオヲハに来てから最も取材・観察し映像記録も多い対象であり、彼らの普段の生活については映像記録も蓄積し取材・観察もできていると思うが、取材によって彼らの現在の生活にいたる背景を知ろうとする試みはあまり成功しているとは言い難い。それは彼らの知的レベルにより自分自身の状況をうまく説明できないということもあるし、シンゴは寡黙な性格であること、リョウは多弁であるが衝動的・願望的な発言が多いことなども関係している。またシンゴは発言するときはやや知識を必要とする内容を披露することが多く、最初は知的レベルの高い人物かと思ったが、実際の行動を見ていると意志力が弱く相手に強くでられると自分が損するようなことでも従ってしまうということが多い。リョウよりさらに衝動的で、局所的な思考が強いようにも思える。男性集団において最も下位に扱われるタイプのようである。ただし女性や年下の少年などには面倒見が良く慕われるようでもある。
 本人も自分のそのような性格を自覚しているらしく「俺はクズだから」というのが口癖となっている。
 リョウの話によるとシンゴには妻子がいて、今日はその妻子に会いに行ったということである。アウトにおける家族関係にはたいへん興味があるので詳しく知りたいが、シンゴ自身の口から聞くことは難しそうだ。これから彼らとの信頼関係をさらに築き、もっと話を聞けるようにしていきたい。
 また、リョウについては彼が恋人であると主張している女性についての話を聞いた。彼女は博多駅周辺のCCC委託業務を行う施設で働いていて、彼の母親がそこに在籍していることから彼も一時期そこで暮らしていた。その間に彼女と知り合ったということである。リョウは陽気で他者に対して好意的でオープンな性格であるが、自己の欲求に関しては短慮で衝動的な部分もあり、話を聞く限りではその女性とのつきあいに関しても彼の思いこみによる関係の行き違いがあるように思われる。私は年長の知識が有る者として彼に恋愛についての生物学的な話をしてみたが、彼には理解が難しかったようである。
 アウターは全体の傾向としては生活形態や人間関係において衝動的かつ刹那的であると強く感じるが、詳細に見ていくと個々人には性格による対応の違いがあり、シンゴには人間関係に対する嫌気やあきらめのようなものをやや感じるが、リョウはまだ若く、他者との継続的な関係性を希求しているようである。ただ、社会的能力は年齢相応よりも稚拙という印象を受ける。それはアウトの環境によるのか、あるいはアウター的性質に起因するのかは今後の検討事項である。
[日時:2075年03月20日21時23分、記述者:ホーラン・ジン]

 バーバラはモークス内のいつもの学生専用カフェにいた。しかし今日の議論の相手はニナヤでは無く、全員が年上の複数の大学生たちだ。彼らは全員が生物学関連を専門としていて、《有性生殖と性淘汰》の講座修了者である。バーバラは大きな楕円形のテーブルにずらりと並んだ彼らの間に座り、縮こまるような姿勢で黙って議論を聞いていた。このグループに参加が許されたときはとても意気込んで議論してやろうと思って来たのに、彼らの会話をしばらく聞いてみて、その内容の高度さにすっかり勢いをそがれた状態だ。斜め向かいに座っていた女子学生がそんなバーバラを見て助けが必要と感じたのか、話を振ってきた。「……じゃあ、《アストロサイトの両親対立仮説》について、あなたはどう思う? バーバラ?」
「えっとお……」もじもじした様子でバーバラは何かを言おうとした。いつもの調子はどこへやらだ。それを見ていた2つ隣の男子学生が、彼女の存在に今気づいたといった感じで話しかけた。
「君、高校生だよね? なんでここに来た? 議論についてきてないじゃないか」
「……大丈夫」バーバラはムッとして答えたが、彼女のピンクの頭飾りをジッと見て、彼はさらにこう聞いてきた。
「その頭のかぶりもの、それって何? なんかの宗教?」
「宗教? やめろよ、ここで宗教の話なんか……」遠くから苛立たしげに誰かがそう言った。
「私は《ダーウィン教》だよ! ……宗教があったって別にいいでしょ?」バーバラはさらにムッとした様子で声を強めて誰ともになく答えた。実際は彼女自身と両親は無宗教なのだが、母方の祖母は古くからの宗教を熱心に信仰していたので、わずかでも侮蔑的な発言は許せなかった。両脇に垂れ下がったピンクの飾りの左側に手を当てて持ち上げると、さらにこう言った。「これはウサギの耳で、ウサギは進化の象徴なんだよ。ウサギの進化的価値は大きくて……」
「そんな話は初めて聞いた」最初にバーバラに話かけた女子学生の隣の男子学生が面白そうに話に加わってきた。勢いで言ったものの、真正面から受け止められたと思ったとたんに自分の発言が幼稚だったと感じて急に恥ずかしくなったバーバラは「私がそう思ってるだけ……本当は、ただカワイイから……」と小さな声で答えた。
「ダーウィン教なんて、ここにいるみんながそうだろ。もうちょっとひねりが有ったほうがいいな」男子学生が笑ってそう答えた。最初に話しかけた女子学生がバーバラのプロパティを確認すると言った。
「あなた、レポートのテーマについて何か聞きたいことがあるんでしょ? ここにいるのは進化学をそれなりに学習してる人たちだから、あなたのレポートの助けができるかもよ? 何を聞きたいの?」
「あのう、それが……」そう言われるとバーバラはまたしどろもどろに戻ってしまった。実際にテーマについて聞きたいと思って来たのだが、高度な学問的議論をしている少し年上の男女の集団を目の前にして、レポートの内容として女性器の話を切り出すのは、あけすけな性格のバーバラにとっても難しいと感じてしまっていた。そこで彼女は少しオブラートに包んで質問することにした。
「私は……ヒトの性的適応戦略について調べていて……特にヒト女性の生殖器の進化に性淘汰がどう関わったのかという問題を知りたくて……」
「ヒト女性ね、オーガズムの話?」女子学生が即座に聞き返した。「生殖にまったく関係なくなっているのにヒト女性にオーガズムが有るのはなぜだ? って昔から人気の研究テーマなのよね」彼女は少し呆れた調子でさらにそう言った。
「あ、それと関係あるんだけど、ちょっと違うくて」バーバラがやや明るい顔になって答えた。やっと自分の知りたいことに近づけそうに感じたからだ。
「そういう話だったら、この部屋ではふさわしく無いな」隣の男子学生がやや冷たい調子で言った。「ここでは今、人類絶滅予測とゲノムインプリンティングの関連性についての議論をしているわけだし。君に別のセットを紹介するから、そっちで聞いてみな」彼はそう言うと、バーバラに向かってセットの入室キーを送ってきた。
 彼にそう言われると、ここのみんなにとって自分は場違いで邪魔者なんだという気がしてきた。少し前向きになった気持ちがまたシュッとしぼんでしまった。しかたなく、バーバラは彼に手短かに礼を言うと、すぐにもらったキーのセットに移動した。
 次の瞬間、彼女はセットの入口らしきドアの前に立っていた。キーを使ったら中に入れるものだと思ったら、入ろうとしてるセット《プッシーキャット・アンダーカット》にはクリアしなければならない規約がいくつかあって、ドアの前でそれが確認されるのだ。
『ここって本当に議論用のセット? 変なセット名だなあ……』最初にバーバラはそう思ったが、とにかく規約のチェックに取りかかった。
 《規定以上の学習レベル》は問題無くクリアしている。《人類絶滅予測を性淘汰の側面から議論する関連行為のみを承認》セット名のイメージに反して、どうやらここではそれなりに高度な議論が行われているらしい。バーバラはまた気持ちが盛り上がってきた。《年齢制限:16歳以上》はちょうど2日前にクリアしたばかりだ。念のためこのセットが外部に提供している《議論履歴》のネットワークをざっと見てみると、いちばん大きなノードが《人類絶滅予測》となっている。『セット名はヘンテコだけど、中身はちゃんとしてるっぽい。……あそこの大学生が紹介してくれたんだし』とバーバラは思った。彼女は表示された《規約承認:入室》を選択してセット内に入った。
 議論中心のセットということからいつも行くセットと同じようなカフェテリア風の場所に入るのだろうと想像していたのだが、一見した雰囲気はかなり違っている。暗い空間の中に大小のカラフルな光が点在していて、その光の集団の間にはやはり色とりどりのラインが引かれている。さっき見たネットワーク図とそっくりだ。『……なるほどね』バーバラはすぐにピンときて、嬉しさがこみ上げた。要するに、このセットでは人々の集まりや議論がそのまま抽象的なネットワークとして表象されているということのようだ。《プッシーキャット・アンダーカット》はモークス内で学生専用以外ではかなり珍しい、一般ユーザー向けのかなり本格的な議論専用セットだった。セットのメニューを出してみるとわかりやすい項目は何も出てこないが、用語検索によってそのトピックが議論されているノードが重要度順に近づくような設計になっているようだ。バーバラはためしに《人類 性淘汰》と検索してみた。光の集団の中でも大きく目立つ薄ピンク色に輝くノードが彼女に迫ってきた。
「ワァオ、大きいなぁ! 調べるの大変そう。もうちょっと分類しないと」わくわくした気分でつぶやき、彼女はまた検索メニューを選択した。追加する言葉をどうしようかしばらく迷ったが、周辺に表示される関連項目を眺めていると《思春期》という言葉があったので、なんとなくそれを選択した。
 薄ピンクの大集団がサッと広がり、その中からやや青みがかった濃ピンク色の光が現れて強く輝いた。バーバラはそれを選択すると、次の瞬間にはどうやら中に入ったようで、まわりの色が明るいものに変わった。しかし、そこには議論する人々がいるものと思っていたが、やはり人の姿はまったく見えない。『どーなってんの?』とバーバラはとまどった。もういちどセットのメニューを確認すると、今度は《音声・テキスト》などの項目が現れていた。ためしに《音声》を選択すると、急にまわりが話し声だらけになった。『なるほど、そういう仕組みか』彼女はやっと納得した。しばらくするとがやがやした複数の話し声の中から彼女が興味を引くような話題の話が自動的に大きくなって聞こえてきた。
「……だから、男女が性的関心を持つようになる時期には年齢差がある。そこも問題だよね。他のことに関しては女性の方が早く認知的成熟をし始めるというのに、性的興味については男性の方が先なんだよね」
「それは問題ないんじゃないか? 単に男女の繁殖戦略の違いの現れなんだし。男性はなるべく早く繁殖すればメリットしか無いが、女性は自身の出産体制について考慮する必要がある。ヒトの出産が難産であることを考えると、そこは動かすべきじゃない」
「ハロー?」どうやら自分の存在が認知されていないようなので、まずは挨拶をしてみた。話し声が止まったので「私はバーバラ。議論に参加してもいい?」と聞いた。
 話していた2人の声が気にとめる風でもなく「もちろん、どうぞ」と同時に言った。彼らの姿は見えないが、テキストメニューをオンにすると《パセ》と《オドゥオール》という名前のみがセットの規約によって表示されている。向こうからすると彼女の存在も《バーバラ》という名前と声のみで認識されているだろう。
「ところで、ここって全然アバターが見えないみたいだけど、これがデフォルト?」バーバラが聞くと、また2人そろって「そうだよ」と返事があった。
「ここは議論が主体のセットだからね。ユーザーが表現できるのは音声とテキストのみ、視覚的には過去と現在の議論をネットワーク化したものだけが見える。娯楽的要素は何も無いよ。君、若い子みたいだけどここに興味があるわけ? 間違って入っちゃったんじゃないの?」《パセ》がそう聞いた。バーバラは憤然として答えた。
「私は性淘汰についてのレポートを書いてるの。難しい議論は大歓迎よ。今のあなたたちの話って、男女の思春期において性的認知に時期のズレがあるってことだよね? 私もそういうことに興味があるんだけど」
「ふーん? 具体的には、どんな?」パセが聞いてきたので、バーバラは少し考えて、こう答えた。
「えーっと……こないだ性淘汰についての講座を受講したばっかりなんだけど、その中で面白かったのが、思春期の女の子が異性に攻撃的になるのは性淘汰の一種だっていう話でね。
 人類は基本的に《一夫一妻制》らしいんだけど、ヒトの場合の一夫一妻制での良い夫の条件は《社会性の高さ》だっていうのよね。《社会性》ってのを具体的に言うと『どれだけ利他的行動ができるか』ってことになるらしいんだけど。
 ヒトの一夫一妻制は《食料運搬仮説》とか《子殺し防止仮説》とかが要因とされてるけど、何にしても、より《妻子に利益を与えるように行動できる》形質を持つ男性が好まれて進化してきたってことなんだよね。
 それで、思春期の女の子は無意識的に男の子に意地悪をして、それでも攻撃的になったり女性を嫌ったりしない男性を好きになるように進化したっていうわけ。つまり《試練》を与えて、それを乗り越えるかどうか試してるってことなんだよね。
 昔からホモ・サピエンスの社会性が増大したのは集団生活によってお互いがお互いに利他的行動を取る個体を選好するっていう《人類の自己家畜化》だって言われていたけど、それをヒトの性淘汰にも当てはめた説ってわけ。
 でも……進化の単位は《遺伝子》であるっていうのはもう決定的になってるけど、自己家畜化をした遺伝子が集団中により広まるっていうのは……なんか、同語反復(トートロジー)的じゃない?
 ……っていうか……思春期の話じゃ無くなってきた……」
 そこまで言ってバーバラは口ごもった。自分が何を言いたかったのかわからなくなったのだ。彼女は普段からこんな調子で思いつきを長々と話すことがあるが、彼らと話すのは始めてだということを思い出し、どこまで話を続けたものか、急に自信が無くなってしまった。そこで「……あなたたちは、思春期の何について議論をしていたわけ?」と聞いた。
「……もちろん、人類絶滅予測について我々一人ひとりが何ができるのかという話だよ。規約にそう書いてあるし」パセがそう言ってから、さらにつけ加えた。「君、ビジターでしょ」
「我々は現代の社会状況がヒトの生殖行動にどう影響してるのかを主に議論してる。そこで思春期の状況が特に重要なんじゃないかって話になった」オドゥオールが言った。
「人類絶滅予測が公表される前、先進国ではかつてないほどに女性の妊娠・出産に関しての状況が良くなっていた。出産までに複数の超音波検査があり、十分な栄養が取れ、出産時には医師や助産師が見守り、無痛分娩が選べ、それまでに無かったほど妊産婦が死ななくなったし、子供が死ぬ確率も最大級に下がった。
 それなのに、先進国になるほど女性は出産や育児を行わなくなっていった。……どうやらその原因は《情報》にあるらしい。20世紀の後半からオールド・ネットで《SNS》というものが流行して、世界中の他人が今何を考えているかという情報が大量に流通した。当時のネット技術はまだ未熟で、人々は《モニター画面》に表示されるテキストによって情報をやりとりしていた。SNSではユーザーが自分の考えをテキストで入力すると、それはいつでも誰でも見れるものとして蓄積されていったんだ。しかし多くのユーザーはネガティブなことをより多く共有する性質があった。子供たちはそれらの大量の《他者の人生の情報》から、自分の未来に何が起こるのかを詳細にシミュレーションするようになってしまった。
 未来の詳細なシミュレーションを持った状態ではヒトはチャレンジをしなくなる。青少年はもともと無知だからチャレンジをするし、結果的に失敗も成功もするんだけど、シミュレーションで失敗の可能性を知ってしまうとチャレンジを恐れるようになるんだよ。それが現象としての人類絶滅問題だと思うわけだ。
 その証拠に、CCCが作ったモークスではユーザーが他人の直接的な意見を知る機会を極力作らないようにしてるだろ? 《易化コミュニケーション》なんて言って言葉のやりとりを翻訳したりアイコン的表現にさせたりしてる。しかもユーザーの言語的やりとりをあえて記録しないで見返せないようにすらしている。これは過去のSNSの失敗から学んでわざとそうしてるんだよ。……それでも、CCCのやり方は人口減少を止めるためには全然ダメで、我々は憂慮してるわけだ」
「だいたい、人類絶滅予測を公表したのが間違いだ。これから人類は絶滅しますよって言われて、誰が子孫を残そうとするってんだ?!」パセが興奮した様子で言った。「CCCの連中は頭がおかしい」
「それは……対策するために必要だったからじゃないの?」バーバラが言った。「だって、何も言わないでCCCを建設したら、そっちのほうがおかしいじゃない?」
「だいたい、CCCなんて建設する必要があるか?」またパセが言った。「昔みたいに、世界中の大学とか研究機関で対策すればいいだけじゃん。なんで自分たちだけが居住するビル群を建築して閉じこもった?」
「それは……」反論しようとしたがバーバラにもその理由はわからず、言葉を継ぐことができずにそのまま黙ってしまった。
 しばらくシーンとした沈黙のあと、オドゥオールがさっきよりも優しい口調で言った。
「……とにかく、CCCの研究者は人類絶滅の要因が《ゲノム》にあるっていうスタンスだけど、現実の人間がなるべく多くの子供を作れば、絶滅する時期が遠ざかるのは確かだよね? だからそういう考え方をもとにした議論も必要だって言ってるだけなんだよ」
「それに、CCCの研究内容は思想が片寄ってるのが大問題だし」パセがそう口を出した。
「《思想が片寄ってる》?」バーバラはまた当惑して聞き返した。
「そう。奴らのやってることは矛盾してるから。人間の行動は生まれつきゲノムで規定されたニューロンのネットワークで決まるって前提なのに、個人の自由意志が尊重されるという思想を持ってるだろ? だから誰が誰と繁殖するかも個人の意思にまかせてるわけだ。でも人類のゲノムがおかしいんなら、そのゲノムで規定される脳で決まってくる意思もおかしいはずだろ? なのに、そういうことを奴らは意図的に無視してる」パセが苦々しい調子でそう言ったので、バーバラはびっくりして反論した。
「だって……確かに脳の基本的なネットワークはゲノムに規定されるけど、でもヒトの自由意志だって存在してるし。私たちの行動は全部が条件反射じゃ無いんだから、大脳には自由意志があって、双子研究から言っても……」
「いや、でも……」パセがさらに反論しようとするのをオドゥオールが「まあまあ」と押し止めた。それからバーバラに向かっておだやかに話しかけた。
「……思ったけど、君ってけっこう若いよね? まだ10代くらい?」それから、落ち着いた口調のままだがやや強く、さらにバーバラにこう言った。
「……このセットは基本的に男女の繁殖行動について議論してて……だって、そうしなきゃ人口は増えないわけだしね……でも《なぜか》男性のメンバーの方がずっと多いんだよね。だから、せっかく入室してきた人にこんなこと言いたくないけど、君みたいな若い女性とは話がしにくいんだよね……」
 そう言われて、バーバラもやや強い口調で言い返した。
「気にしないで。私はどんな議論も大歓迎よ。ちゃんと入室規約はクリアしてるし。男性が多いってことは、ヒトの性淘汰に関する男性固有の何か問題点みたいなものについてわかってるんじゃない? もしそういうのがあれば、教えてもらいたいな。確かに私は若い女性で、知らないことがいっぱいあるから」
「そう……有るよ。若い女性にはわからないだろうけど」皮肉めいた調子でパセが言った。
「こんな時代に、男がどれだけ女に苦しい思いをさせられてるか、君にはぜんぜんわからないだろうね」
「……何が苦しいわけ?」バーバラはとまどいを感じながらパセに聞いた。
「さっき君が言ったようなことだよ。女に気に入られるために、男には高い社会性が求められるって。ヒトは集団で生きる生物だから、集団内では利他的行動をできる個体が好まれる。女も自分の繁殖行動を成功させるために男に利他的行動を求める。
 でも、もともと生物なんて自己保存と自己複製をするための装置でしかない。《利他的行動》なんて生物の本質からいって矛盾してるんだよ。それでも大脳皮質を進化させて必死にそれに対応してきたのが俺たちってわけだ。《男》っていうのはそういう矛盾をすごく抱えこんだイキモノなんだよ。
 でも女やCCCは『人間なんだから理性的に行動するべき』みたいなことを平気で言う。でも本当はそれは『女や知的エリートに利益を与えるような利他的行動をしろ』っていう意味でしかない。つまり、利己的な理由で他者に利他的であれと押しつける醜い行為だ!」
「……なるほど」バーバラはパセの言葉を噛みしめるようにそう言った。
「すごーく……難しい話だね。……でも、脳に矛盾を抱えてるのは性別に関係無いんじゃないかな? 女性だって脳幹や大脳辺縁系の上に大脳皮質を持ってて、男性と変わらないし。女性だからって全員が利他的行動が得意なわけじゃないし……」バーバラはさらに、やや自信が無さそうに言葉を継いだ。
「……それに、歴史的に言えば、男性の方が女性や他の男性に対して『自分の利己的な欲求のために他者に利他的行動を求める』ってことをずっとやってきたような気がするんだけど……」
 そう言いながら、バーバラは自分の中にあった《利他的行動》や《人類の自己家畜化》についての概念についてチェックを始めた。彼女はもちろんそういった言葉について色々と学んでいたが、改めて考えると、これらの概念についてこれまであまり深く考えずに使っていた気がする。彼女は急に自分の母親にこの問題について聞いてみたいという衝動にとらわれたが、目の前で議論の相手をしてくれている2人にもちゃんと対応したかった。そこで、彼らにこのように言ってみた。
「……その問題については私のママはいい考えを持ってるかもしれない。ママはCCCでモークス社会学をやってるから……」言いだしたところでパセが話をさえぎった。
「ほぉ、やっぱり。母親がCCCの研究者」彼はやや声を高めてそう言った。「有名人? 誰?」
「おい、やめろよ」オドゥオールがこの発言を咎めた。「ここでは個人情報の共有はご法度だろ」
 そういえばそうだったっけ。ついうっかり母親がCCCの研究者であることを言ってしまいバーバラは少しあわてたが、別に知られても問題無いと思い返した。
「……名前は言わないけど、ママの研究は今の話とも繋がってると思うから、ちょっとだけ説明するね。私のママはおおざっぱに言うと《集団認知神経学》の研究者で。
 個人の認知と社会集団と自然科学的な枠組み、これは科学技術も含むんだけど、そういったものの相関関係で人類として脳機能がどう変化していくのかっていう感じのことを調べてるらしい。さっきの話の《人類の自己家畜化》もそういったことの1つだと思うけど。
 で、いろんな研究対象があるんだけど、ママはモークス内でのユーザー動態研究が専門分野なんだ。
 さっきの話にあったみたいにモークスではテキストベースのコミュニティはあまり育っていないけど、ママはユーザーの行動特性そのものをデータ化して研究してて、特に思春期の子供が仮想世界にいることで感情や認知にどう影響を受けるかっていうのをゲノムとの相関で調べてるんだって。AIを使って多数のユーザーデータの大規模解析をするんだとか。
 ……ほら、モークスはユーザー登録するときにゲノム情報をCCCに渡すでしょ。だからCCCは人類の個々人の巨大なゲノムデータベースを持ってて……」
 バーバラがここまで話すと、またもやパセが急に割りこんで言った。
「やっぱりそっち側の人間じゃん! 不必要になったアウターを淘汰しようとしているチェイナーだ。そのための手段を研究してるわけだ」
「……急になにを言ってんの?」バーバラは本気でわけがわからずにそう言った。「さっき、いろんな方向から絶滅の要因を考えるって話をしてたでしょ? ママの研究もその1つで……」
「いや、違う。チェイナーは……CCCは、アウターを絶滅させようとしてる。そのために閉じこもって研究してるんだ。それは、知的能力が低いアウターを《いらなくなった》とヤツらが考えているからだ!」
『ええぇ……!』と心の中でバーバラが叫んだ。やや不穏な空気は感じていたものの今までそれなりに穏やかに議論をしていたはずなのに、なぜ急にそんな展開になったのか全然わからなかった。たぶんもし自分の顔が見えていたら、口を大きく開けたマヌケな顔をしているだろうという考えがふと頭をよぎった。その間もパセが大声で話を続けていたが、衝撃が大きかったので後の話は脳をすり抜けていってしまう。しかもオドゥオールもとりつくろうように口をはさんでくるので、もう何がなんだかわからない状態だった。「あの……ちょっと……だから……」とバーバラが口を出そうとしたとき、この会話のネットワークから急に切断されてしまった。
 ああ……追い出されちゃった。バーバラはすっかり残念な気分になって、それ以上は他のノードを検索する気にもなれずに、この変な名前のセットから退出してしまったのだった。
 その後、パセが話していた陰謀論的な内容が気にかかっていたので調べてみた。CCC企業であるウェスタリーズ社がモークスでのデマやフェイクニュースが広がらないように管理していることもあり、彼が話していたような《CCCによるアウターを絶滅させる計画》のようなたぐいの話は何も見つけることができなかった。もちろん、バーバラはCCCがそんなことをしているとは全然考えていなかったが、CCCを敵視してそう思っている人々がいるらしいということが彼女にとってはショックだった。
『きっとママはモークスでそういう噂が広まっているのかどうか知ってるだろうから、次に会ったときに聞いてみようっと』とバーバラは思った。

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