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子猫ちゃん、どこイクの?[SF小説]#6

※はじめにお読みください

 午後3時の博多駅構内にはまだ活発な人の流れがあった。多くの人は緊張した顔でまわりを警戒しながら足早に歩き、目的の電車に乗るために駅を通り過ぎていく。4年前のグシカイの天神地下街占拠騒動のときに博多駅の商業ビルの店舗も暴動の被害にあい、いくつかはそのまま閉鎖され、替わりの店が入ることもなく長い間シャッターが下ろされている。それでも地下街よりはまだ地上部分は往時の華やかさが感じられる。
 リョウが駅に入ると、まわりの人流はあからさまに彼の進路を避けて近づかないようにしているのが感じられた。帰る家を持っている、郊外に住む《異世界》のやつらだ。そういった人々とは別に、ニヤニヤ笑いを浮かべた中年や老年の男たちもフラフラと歩いている。彼らの歩きぶりは帰る家がある人々とはぜんぜん別物だ。リョウもそっち側の人間だとまわりからは思われているだろう。
 50年以上も前に施工された黒ずんだ巨大な陶器柱の下にアイが立っていた。リョウが近づくと彼女はちょっとにらむような目で彼を見た。
「遅い」アイが言った。「そっちから呼びだしたくせに」
「あー……わりぃ」リョウは少し口ごもって言った。遅れようが遅れまいがどっちにしても怒ってんだろうなと思っていたが、やっぱりだ。
 リョウは後ろを振り向いた。ホーランがどこかにいるはずだが、姿は見えなかった。彼がそわそわとしてあたりを見回していて話を始めないので、にらんだままのアイがきりだした。
「ミカのことで話が有るんでしょ? 何か知ってるわけ?」
「ああ……そうだった」リョウは言ったが、まったく心がこもっていない様子で、上を見たり下を見たり、まったく落ち着きがない。アイが顔を近づけて、さらにこう言った。
「ミカが死んだことに、オヲハが関係してるの? 何か話を聞いたの?」
「ええっとぉ……」リョウはますます焦った様子でアイを見た。実のところ、ミカのことで呼びだしたのはただの口実で、何かを聞いたわけでもつかんだわけでもない。アイが来てくれそうな話題で思いついたものを選んだだけだ。リョウはズボンのポケットに入れてある、ホーランからもらったシールを握りしめた。
「アイ、手ぇ広げて。こういう感じで」リョウは言いながら自分の左の手のひらを上にして差し出した。
「はぁ?」かなり低いトーンでアイが言った。「なんで?」これも低い声だ。
「いいから。……メモだ! ……大事なことを紙に書いたから! それを渡すから!」なんとか理由を考えついて、そう言った。アイはいぶかしそうな顔をしながらも信じたようで、黙って両手をそっと前に差し出しながら、リョウの顔をじっと見つめた。その顔を見て、かわいいなぁとリョウは思った。
 それから《メモ》を渡そうと、握った右手を彼女の手の上にかかげた。そのまま3秒くらい時間が過ぎた。
「……やっぱダメだ。できねぇ」リョウが言った。
 アイはリョウの顔を見たまま黙っている。
 リョウは自分の右手を開いて持っていたものを彼女に見せた。
「……学者さんが、これを貼るとアイが《恋》をするって言うんだけど、なんかやっぱ……そういうのはダメだよな」
「ちょっとそれ、渡してくんない」急にカナエが声をかけたので、リョウはパッと顔を上げた。巨大な柱の向こうにいたカナエがアイの隣に並んでいた。彼女はもうリョウの手からそのシールを取り上げていた。
「たぶん、これがミカを殺した」なんでもなさそうにカナエがリョウにそう言った。
「殺した?!」リョウはあんぐり口を開けて反復した。「でも……だって……これは《恋》をするんだって」
「どうだかね」カナエはシールを指ではさんで自分の顔に近づけ、目を細めてそれを見つめた。それからアイに顔を向けてこう言った。
「クシナダのデータを調べたとき、ミカが死んだときの公園横の映像が抜けてたよね? それがなぜだかわかんなかったけど、怪我をしたシンゴを見に行ったときにチェイサーがいたから気づいたんだ。チェイサーなら自分が防犯ドローンの映像に記録されないように操作できるんじゃないかって」
「……そんなはずは無い」遠くから声がわりこんだ。5mほど離れた地下街への階段につながる壁からのぞきこむような形でホーランが3人を見ていた。「……いや、ドローンに映る私の姿を不審者としてタグ付けしないように手続きしたのはその通りですよ。アウトでフィールドワークする研究者はみんなそうしてますからね。でも私が渡したそれは、本当に女性を恋愛状態にさせるためのもので……」
「それはどうだか知んないけど、結局それでミカは死んだんだよ」カナエがやや大きな声でそう答え、ホーランに向けてシールを振って見せた。「ドローンの映像を手作業で調べたら、あんたがミカにこれを渡すシーンがばっちり映ってた。あんたが離れてからすぐにミカは倒れてたよ。まわりに隠してたみたいだけどあいつはずっとジャンキーで、あのときもクスリをやってたんだ。だからこれが最後の一押しになっちゃったのかもね」カナエはそこまで言うと、一呼吸おいてから、こうつけくわえた。
「ミカが死んだのを知ってたよね? なんで誰にも何も言わなかった?」
「それは……たいしたことじゃないと思って」ホーランはとまどったように言った。
「だってアウターですよ? 報告義務は無いかと……」
「……ミカが死んだのと同じクスリを俺に渡したのかよ? アウターだからどうなってもいいって?!」リョウが声を荒げて言った。
「いや……だから、それは本当に効果があるんですよ」ホーランが言った。「たまたまうまくいかなかっただけで……」
 それ以上は聞かずにホーランに飛びかかろうとリョウが駆け寄ったが、ホーランもその動きを見てさっと身をひるがえし、地下街への階段を駆け下りた。リョウが階段の入り口についたとき、ホーランは階段の中ほどから下へ駆け下りているところだったが、地下へ下りきったところで待ち構えていたエキケイの男に腕をつかまれた。後から追ってきたカナエとアイがリョウと合流したときには、ホーランはエキケイから身を離そうともがいていたが、つかまれた腕を引きずられて連れて行かれようとしていた。カナエに向かって男が言った。
「これがミカ殺しの犯人だな? ジュカさんのところに連れていくわ」
「そいつチェイナーだよ? 殺したりしたらややこしいけど、ジュカはわかってんのかな?」カナエが男に聞いた。
「むっちゃ怒ってるから、殺すんじゃねえの?」涼しい顔で男が答えた。それから小声でこう言った。「どうでもいいわ。相打ちしてくれたらその方がいい」
 2人の会話を聞いたホーランが怯えた顔で叫んだ。
「助けてくれ!」エキケイはそのままずるずるとホーランを引きずって連れて行った。
「やべえ。どうする?」リョウがカナエに聞いた。
「……あたしのせいだ」カナエがつぶやいた。「ジュカは駅地下だけじゃなくてこっちのカメラも監視してるんだ。だからすぐに話が伝わっちまった」それからリョウとアイに向かって言った。
「築5だ。築5の出口に回っといて。上から行ったほうが早い。あたしは事務所の前に行く」2人の返事も聞かずに彼女はすぐに駅の地上出口の片方に向かって走り出した。ああやって嫌がる人間を引きずりながら歩いたら時間がかかるから、まわりこんで追いつくことも可能なはずだ。
 筑紫口からさらにビルの間を左に曲がってエキケイの事務所前の地下街出口まで走った。地上と地下をつなぐ階段の出口まで来ると下を確認し、息を押し殺して整えながらエキケイとホーランが来るのを待った。わずかな時間の後で2人が階段の下に現れた。カナエはほとんど反射的に階段を駆け下り、途中からジャンプしてエキケイに上から襲いかかった。間違ってホーランに当たるかもしれないが、そこはもうバクチだ。
 体が浮いているときに何かが太ももに当たって小さな痛みを感じたが、それどころでは無かった。さいわい頭上から急に来るとは思っていなかったようで、避けられたりもせずにカナエの両膝がエキケイの背中にヒットした。上からの激しい衝撃でエキケイの男はホーランとともによろけ、3人はどっとその場に倒れこんだ。すぐに起き上がって男がホーランの腕を離したのを確かめると、カナエはその腕をつかんで引っぱりながら叫んだ。「逃げろ!」
 ホーランはやや呆然としていたが、男が立ち上がろうとするのを見るなり地下街の奥へと走った。カナエは男が立ち上がる前に上からのしかかった。
「なんで邪魔すんだよ!」男が大声で言った。
「チェイナー殺したらややこしいって言ってんだろ!」カナエはどなり返し、ホーランの姿が見えなくなるとすぐに彼から身を離した。さすがにこれ以上は自分の身が危ない。
 階段の上からわめき声を上げながらジュカが下りてきていた。カナエはその姿を見た瞬間にホーランが走って行ったほうへと体を向けて走り出した。自分でもなぜそうするのかよくわからないが、とにかく今はジュカの近くにいるのは危険だと判断した。ジュカも追いかけてきながら、ますます大声を上げている。走りながらホーランと同じほうに行くのはまずいのではという考えがよぎったが、一本道の地下道だから他に行きようが無かった。角を曲がったすぐの場所にホーランが立っていて、カナエが来るのを見たとたんに彼女にしがみついてきた。カナエはしかたなくホーランの腕をつかんで迫ってくるジュカから逃げるために彼と一緒に地下道の奥へと走った。
「カナエ……おまえそっち側になんのか? ……ノマのことはもう知らねーからな! 許さねーぞ!」
 後ろから追ってくるジュカが少し立ち止まってどなった。その怒声は地下道の狭い空間に反響して揺らいだ。
「あたしだって嫌なんだよ! でも目の前でパクられて……殺されそうになってたら……助けないわけにいかないだろ! ……ったく……あたしの見てないとこでやってくれたら良かったのに……」
 ホーランの服をつかんでひっぱって追ってくるジュカの反対側へ走りながら、カナエが大声でとぎれとぎれにそう言った。直線区間を走るとさすがに息切れがして、暗くなった角で2人は立ち止まった。
「こんなに必死に……私を助けてくれるなんて……やっぱり……あなたは運命の人だ。……私のことが好きですよね?」ホーランがぜいぜいと息をしながらもうっとりした様子で言ったが、カナエはすぐにこう答えた。
「……んなわけねーだろ? ……アンタやっぱり……頭がおかしい。……今の状況がわかってる?」
「大丈夫です。……私はトリプルサーですよ?」ホーランがまだ息を切らしながらもほほえんで言った。それから角の向こうをのぞき、ジュカが近づく様子が無いのを確かめると、さらに落ち着いた口調になって言った。
「警備部門に救助要請を出してますし、すぐに警備チームが来ますから。それにこのエリアはCCCの警備区域だから、パトロールドローンがいつも飛んでるでしょ? あれにはちょっとした攻撃機能が備わっているので、飛んできてすぐにあの女を殺しますよ。フィールドワークを始める前に調べたから間違いない」静まりかえった角の向こうをもういちど見ながらホーランはさらにこう続けた。
「CCC条約によって所属員には絶大な治外法権が認められている。私の安全はあらゆる手段で守られます。あなたはアウターだからCCCに連れて帰るわけにはいかないが、愛人になっていただけますか?」
「あぁ……理解した。話が通じねえやつだ」カナエが言った。
 ホーランはグラス式の携帯端末を顔に付け、パトロールドローンの状況を確認しようとしているようだったが、カナエはもっとジュカから離れようと彼の服をつかみ、さらに地下道の奥へと引っぱって行った。
 暗い地下道の奥に人影が見えて、カナエに向かって言った。「カナエちゃん……」やせ細ったノマがそこに立っていた。ホーランの服をつかんだまま、ノマの数メートル手前でピタッと歩くのを止めた。
「ここで何してる?」動揺してカナエが言った。彼女がいる区域には近づかないようにしていたのに、なぜか離れた場所にノマが来ているのだ。
「あたし……働こうと思って。だから、あたし……」ノマがおろおろした様子で言った。
「ノマ……今ちょっと面倒ごとが起こってるんだ。危ないから婆さんたちのいる場所に帰ってろ」
 ホーランの腕をつかみながらカナエが言った。そうは言ったが、今いるのは支道の無い一本道で、ノマの向かう場所はジュカとは反対側だ。ホーランをノマから離そうとするならジュカのいる方向に行くしかない。カナエは一瞬迷ったが、すぐにホーランを引きずってジュカがいる方へ歩きだした。当然ホーランはそれを察知して身をよじって暴れだした。
「そっちはダメです! あの女がいる!」
 カナエはそれを無視し、力を込めてホーランを引っぱった。しかし彼も全力で抵抗するので進むことがなかなかできない。やっと地下道の角の近くに来たと思ったら、向こうからジュカの声が聞こえた。
「ミカのカタキ、殺す!」
 もうどうしようもなかった。カナエは地下道の奥でまだ立ち止まって心配そうに見ているノマに向かってふりむくと、声を荒げて言った。
「早くあっちに行けっつってんだよ!!」
 それからホーランの腕を離すと、彼の背中をジュカの方へと押した。そのまま両手を上げて後ろ向きに歩きながら言った。
「悪かった……こいつは渡すよ。好きにしたらいい。ミカのカタキだ」
 ホーランは振り向いてカナエを見たようだが、グラス式端末を顔に付けたままなので目線はわからない。それでも口元の表情からは複雑な感情がかいまみえた。ただ、思ったよりも落ち着いた様子だ。あらためて注意すると、ジュカの後ろの天井からかすかな機械音と、チラチラしたうすい光の点滅があるようだ。パトロールドローンだとカナエは思った。
 ホーランはジュカに向きなおり、わずかずつ近づきながら慎重な様子でこう言った。
「確かに……ミカさんに薬を投与して死なせてしまったのは私です……でも私はトリプルサーですからね? 私には絶大な特権があって……」
「うっせえんだよ!」ジュカが拳をふりあげた。そのまま腰をかがめてホーランに向かって襲いかかろうとしたとき、急に彼が叫んだ。
「あーっ!!!」その声があまりに場違いだったので、ジュカが途中で立ち止まった。後ろ歩きでホーランから離れようとしていたカナエも驚いて彼を見た。ホーランはグラス式携帯端末の耳のあたりに右手を置いている。その場にいた全員がびっくりした顔で立ち止まっていた。
「ドローンが……そこにいたドローンが……急にいなくなって……」ホーランは頭から端末をはずすと、困惑しきった表情でカナエのほうを見た。「今、その女を殺すところだったのに、急に別の方角に向かって行ってしまったんです……何が起こったんだ……」
「まったく……何が起こったんだ……なんか知んねえけど、あたしは命拾いしたってことだよな? ……じゃあ、次はおまえの番だ!」ジュカが気をとりなおしたように言って、ふたたび拳をふりあげた。
「うわあー!!!」ホーランは叫ぶながらカナエの方に飛びかかるくらいの勢いで向かってきた。彼女はぎょっとしながら身をよじろうとしたが、後ろにいるノマに危害が向かわないよう、半狂乱のホーランの両腕をつかんで全力で彼を止めた。前のめりになるホーランの力で彼女の上半身がぐっと後ろにそった。そして、ホーランの頭の後ろからジュカが殴りかかろうとするのが見えた。思わずカナエはギュッと目を閉じた。
 ドンッと音がしたが、カナエが握ったホーランの両腕にはなんの変化も無い。その後ろにいたジュカの姿が消えて、地下道の隅の床に身を折って転がる彼女の背中が見えた。
 みんなはしばらくその姿を凝視していたが、薄暗い地下道の角からゆっくりと特急列車の鼻先のような流線型のものが激しく点滅しながら姿を現した。大きな機械が動いているのにそれからはまったく音がしない。角からこちらへは曲がらず、そのまままっすぐに壁まで進むと、角の壁の間際で止まった。激しい点滅がだんだんと遅くなり、それにつれて流線型の物体の姿がハッキリしてきた。
 みんながその物体に注目しているあいだ、いつの間にかホーランの後ろにも人が現れていた。
 エキケイと似たような黒ずくめのスーツを来た小柄な人物で、がっちりとはしているが体のラインが柔らかく、女性だと思われる。彼女も振り返って動く物体を見ているので、その顔は見えなかった。
 動きを止めた流線型の物体の真ん中あたりが割れて、中からまた別の人間が出てきた。こんどは大柄な男性だ。ホーランが感動したように言った。
「ああ! クシナダだ!」
 先に立っていた女性がくるりとふりむき、横に目をやってうずくまったジュカを見つめた。それから大柄な男性に言うようなぞんざいな口調で言った。
「あたしがこいつにコンニャクを渡してたの。女をボスにしてたほうがうまくやるかなって思ったんだけど、そうでもなかったね。でもまあ、うちらの仕事が減ってたのは間違いない……」
「終わったんならとっとと帰ろうよ」さらにもう1人の声がクシナダの車両の中から聞こえた。子供のような声だったが、顔をのぞかせたのはやせて髪の長い中性的な見た目の男性だ。彼はホーランを見上げると、無表情な顔で言った。
「どうでもいいけど、あんた、ウェスタリーズから解雇通知が来てるっぽいよ? CCCの所属権利も消滅だって、今こっちに連絡が入ったよ。だからもう警備作業も終わりぃー」
「そんな……そんなわけは」ホーランは急いでまた携帯端末を頭に付け直した。そのまましばらくすると完全に直立し両手をだらんと垂れた状態で固まってしまった。「そんな……」彼はつぶやいた。
「うーん……」そのときうずくまったままのジュカからうめき声が出た。彼女は上のほうの手をよろよろと頭に持っていったが、またそのまま動きを止めた。それを見てホーランがびくっと両腕を前に曲げた。そのまま彼はクシナダの車両のわきをさっと通り、地下道に足音を響かせながらすごい勢いで去って行った。
「それで、こいつどうすんだ?」ジュカを見ながら大柄な男性が小柄な女性に聞いた。
「エキケイは立て直しとかないと、こっちの仕事が増える。事務所に連れて行ってシメよう」女性はそう言うとジュカに近づき、腕をつかむと体を軽々と持ち上げた。それからカナエを見ると言った。
「こないだ話して思ったけど、あんた見どころあるわ。クシナダに入らない?」
「はぁ?」急な誘いにカナエは驚いたが、女性は気にするでもなく話を続けた。「CCCと一緒で、クシナダの所属も隊員の紹介制なんだよ。見どころある奴はどんどん入れてかないと、こっちの仕事が減らないからね。あんたの端末に連絡しておくから、もし入るなら返事を返しといて」
 まだぐったりした状態のジュカを連れた警備員たちがクシナダの車両に乗りこみ、また静かに姿を隠して去って行った。後にはカナエとノマが残された。
 ノマがおずおずとカナエに近づいてきて話しかけた。
「カナエちゃん……こないだは……ごめんね」
「……なんであやまる? ……ノマは何も悪くない」クシナダの車両が去った後の、何もない地下道の角を見ながらカナエが言った。
「でも……あたしがバカで、赤ちゃんができちゃって、赤ちゃんを産もうとしてるから……」そう言ってるうちにノマの目から涙が流れ出した。彼女のほうに振り返り、カナエはしばらくじっとその涙を見ていた。地下道には外から冷たい空気が流れこんできていて、薄着のノマは自分よりずっと寒いだろう。ずっとつらい人生を、これからも生きようとしているのだろう……
「思ったんだけど……あたしさ」カナエが話しだした。
「あたし……クソな家族がいなくなって嬉しかったけど……やっぱちゃんとした家族が……もういちど家族が欲しいなって思うんだよね。
 ……初めてここに来たとき、ノマが『大好き』って言ってくれて、すごく嬉しかった。そんなこと言われたことが無かったしさ。
 それで……あたしとノマと、その子と、みんな他人だけど……家族としてやっていけないかな?」
 カナエは2歩ノマに近づいた。
「あたし、クシナダに入って、家とか金とか作るから。だから、あたしの家族になってくれない?」
「でも……いいの?」涙目のまま、ノマが言った。「あたしバカだから……カナエちゃんの邪魔になるよ?」
「大丈夫。あたしは『見どころある奴』だから」カナエは笑ってそう言った。「さっきクシナダにスカウトされたじゃん? でも、クシナダに行ったって、目的も何もないと頑張れないじゃん。自分がただ生きるだけじゃ、やる気なんか出ねえよ。だから……ノマがいてくれると助かる。その子も、殺さないから……だから……」
「ありがとう……」ノマの目からまた涙があふれてきた。彼女の指がカナエの指にそっと触れた。「カナエちゃん……大好き」

 カナエがホーランを連れたエキケイの男を襲撃した場所にリョウとアイがやってきたのは、すでにそこから彼ら全員が去った後だった。2人はカナエたちがどこに行ったのかとあたりを見回したが、やがてアイが通路の端から何かを見つけて拾いあげた。
「……何だ?」リョウがのぞきこんで聞いたが、アイは困惑した顔で何も言わなかった。その小さなモノはパッと見るとただツルツルした表面の丸い物体だったが、よく見ると信じられないくらい精密な複数の羽根や極小のレンズのようなものがいくつもついた、とても小さな機械だった。2人にはわからないことだったが、それは機体への激しい衝撃によって機能を停止してしまったホーランの研究記録用の極小ドローンだった。
 それからリョウとアイはかなり長いあいだ地下街をさまよっていたが、やがてホーランたちを見つけるのを諦めた。2人はぐったりと疲れて誰もいない通路の奥に並んで座っていた。
「学者さん……大丈夫かなあ」リョウがつぶやいた。
「……あたしに変な薬をつけようとしたよね?」アイが少し怒りを込めた様子でそう聞いた。リョウは困ったような顔であたりを見まわしていたが、やがて覚悟したようにジッとアイの目を見つめた。
「マジで悪かった。……ごめん」つらそうな声で彼が言った。そう言われると徐々に怒りがおさまったようで、アイはしばらく黙って自分の膝を見ていた。それから声の調子を変えてこう言った。
「あたし……築6を出て行く」リョウが何も言わなかったので、アイは続けて言った。
「親父に見つかっちゃったから、もうここにいられない。だから出ていく。ずっと遠くに……ミヤザキに行こうと思ってる」
「ミヤザキ?」リョウが聞いた。
「うん。ミヤザキっていうのが九州のむこう側にあるんだよ。そこは人が少なくて、ヤクザもいないし、ここよりずっと晴れの日が多くて、地面で食べものを作ってるんだって。そういう話を聞いたから、行ってみようかなって……」
「俺も行く」リョウが即座に言った。
「でも……」アイが言いよどむと、リョウは体を動かしてアイから離れた。2人の間には1mほどの距離ができた。それから彼女に向き合って言った。
「……俺はガキだし、俺のこと好きじゃないかもしんねえけど……離れたくねえよ……」リョウは両手を床についた。すこし顔がアイに近づいた。
「……無理にチューとかしねえから。彼女じゃなくてもいいから……だから、俺も一緒に行っちゃダメか?」リョウは泣きそうな顔になって言った。
「1人で……そんな遠いところに行ったら危ねえだろ? 1人では行かせらんねぇよ」
「でも……サトさんと離れちゃうよ? シンゴさんとも離れるよ?」アイが言った。
「母ちゃんも兄イも好きだけど……でも……アイと離れたら……俺は本当にダメになっちまうんだよっ」リョウはアイにさらに近づこうとしたが、すぐに思いなおしたようにさっと体を引いてさっきよりも彼女から身を離した。
「暴力しないように、がんばるよ……アイを傷つけないように、がんばる……でも、それでも、信じてもらえないなら……」リョウがそこまで言ったとき、アイが急に彼に抱きついたので、彼はしゃべるのを止めた。しかししばらくして、リョウはまた口を開いた。「……それでも、アイを守ろうと思うから……」
 アイは何も言わずにリョウの背中に腕を回してギュっと力を入れた。それからしばらくして体を離すと微笑みながら立ち上がった。リョウもそれに合わせて立ち上がり、彼女に向き合った。アイは懐かしむような表情でリョウの頭から足までを見回し、また顔に視線を戻して言った。
「……大きくなったんだね。顔つきも変わったみたい。……前はヘラヘラした顔だったのに」
「……まあ、もう15だし。……もうすぐ16だっけな」リョウは少し考えてそう言った。
「そっかあ……」アイがしみじみと言った。満たされたような幸せそうなその表情を見て、リョウは急な高揚感を感じながら、こう思った。
『この感じ……もしかして、これが……《恋》?』

 ベイルートCCCの巨大な建築群の一角にある自室で、バーバラが1人呆然としていた。自分がモークスインできないのもおかしいし、ティエンに連絡をとろうとして何度アクセスしてみても、何もシグナルが返ってこないのだ。念のためにニナヤにも同様にやってみたが、やはり連絡が取れない。
 何か異常なことが起きているのは間違い無かった。
 恐ろしい考えが彼女の頭を不安で埋めつくしていた。
 ニナヤはさっきの誇大妄想のような話が自分のレポートに書くための仮説というだけじゃなくて、《NSO》という組織が存在していて、男性を排除する運動をしているのだと言っていたはずだ。
 もし本当にそんな組織があって、男性に対して排除するような活動をしているのだとしたら、あんな風に敵対的にしていたティエンに対してニナヤが何かを仕掛けてきた可能性がある。そう考えるとバーバラは落ち着いていられなかった。どうにかしてすぐにティエンと連絡を取らなきゃいけない。
『そうだ、パパに相談しよう!』バーバラはエジプトで隕石の調査中の父親のモークス端末に連絡した。さっきと違って今度はモークス端末が父親へのアクセスを繋ぐ応答を示したので、彼女の心は一気に盛り上がった。しかし娘からの連絡には必ず自動返答する父親のモークスが今はなぜかまったく何の応答も返さない。そんなことは有りえないのに、なぜか彼の自動返答プログラムがオフになっているのだ。ここでも何か異常事態が起きていて、バーバラのパニックはますます大きくなった。
『……まさか、世界中のすべての男性に対して、ニナヤの組織がこのタイミングで何かをしでかしたんじゃ……』そんな妄想までが頭に浮かんできた。……いや、さすがにそんなはずは無いだろう。でも、今が異常事態なのは間違い無い。
 バーバラは困ったあげく、今度は母親に連絡をした。母親はいつも多忙を極めていて、なかなか娘の連絡にすぐに応えられることは無いとはわかっていたが、もう他にどうしようもなかったのだ。
 すると、奇跡的に母親が連絡に応えて、端末が自動的にモークスインして新しいセット空間を作成し、バーバラと母親、2人の姿をそこに現した。
「ハーイ、久しぶりぃー」あぐらをかいてセットの中央に座っている母親がバーバラに手を振った。「ちょうど今、あなたのことを考えていたの! 連絡があって良かった!」
「ママ! 大変なことが起こった! ……聞く時間ある?」バーバラは母親のアバターに駆け寄ってそう言った。
「あらあら……そうねぇ、実は今、移動中で《クリック》が出したデータのチェックをしてたんだけど……まあいっか! もうやめるから。この作業つまんないし。後でやることにする」母親はそう言って笑った。
「ありがとう! ええっと……学習仲間のニナヤって子、知ってるでしょ? その子とレポートのことで話してたら急にわけわかんない陰謀論みたいな話になって……それで、一緒にいた、私が連れてきたティエンって男の子と連絡が取れなくなっちゃって、ニナヤがティエンに何かを仕掛けたかもしれないの! だからティエンの身に何が起きたのか、確かめなきゃいけない!」
 早口でまくしたてたバーバラをじっと見て、母親が言った。
「そうねえ……その子がどこにいるかはわかってる?」
「それが……端末の記録にあるんだけど、なんかはっきりした住所じゃなくて……」そう言ってバーバラはマップを表示させた。ティエンの住所を示すはずのそれは、バーバラがいるベイルートCCCから見るとユーラシア大陸の反対側の向こうにある日本という島国の、九州島の北端、《玄界灘》という名の海峡付近を示している。
 マップはその範囲までは絞れているのだが、ティエンの居住地についてはいくつもの海や陸の地点に《?》付きのポイントが立っている。ユーザー情報とモークス端末では居住地が絞りきれていないのだ。母親はバーバラが出したマップ情報を見るとすぐにこう言った。
「これは……アウターに有りがちな居住地情報だね。都市圏では一定の住所じゃなくて複数の拠点を移動しながら生活するスタイルのアウターの一群が有る。それでもたいていは移動のパターンがあって特定日時の居住地は予測可能だから、《?》が付くのは珍しいけど……」
「ママ、私すぐに彼の安全を確かめたいんだけど!」バーバラが勢いよく言った。「今、ベイルートCCCが持ってる高速移動機体のなかで私が使えるものに申請を出してるんだけど、ママの許可が必要なんだよ。ほら見て」マップ表示をいったん消去すると、小型音速旅客機の使用許可リストを表示した。
「SSS2.0?! ……あのねえバーバラ。確かにベイルートCCCはすごい機体をいくつも持ってるけどね。こういうのは研究者が大事な研究のために使うんだから、ただの学生が私用で乗って行くことなんてできないの」
「ママの力で、なんとかならない?」バーバラは甘えるように言ってみたが、母親は即座に言い返した。「ダメダメ。そんな力なんて有りません」
「……じゃあ、どうしようも無いの? 私が誘ったせいで、彼が大変なことになってるかもしれないのに……」バーバラが悲しそうに言うと、母親が言った。
「直接あなたが行くんじゃなくて、近くのCCCに応援を頼むことができるわよ。……ちょうどここにはハカタCCCが有る。警備部門には偵察用の小型ドローンがあるし、それくらいだったら私の力で緊急要件として扱ってもらえるし、時間のロスも無くすぐ対応できる。いま連絡してるから、もうちょっと待って」
「……すっごい、さすがママ」バーバラが瞬時に表情を明るくしてそう言って待つ間もなく、2人の前に立体映像が現れた。ハカタCCCの警備部門《クシナダ》から回された偵察用小型ドローンの1台が現地で取得しているアウトの映像だ。母親が操作すると立体映像は2人を包みこむように大きくなり、実際にその中にいて空中から見下ろしているような感覚になった。
「……悪いけど、ママ移動先に着いちゃったから、これからちょっと仕事の人たちと会議しなきゃいけないの。その後でまた時間作ってくるから、しばらく1人でやっててくれない? ドローンの操作の仕方はわかるよね? わかんなかったら自分で調べて。……念のためにちょっとした攻撃性能のある機体をハックしたけど、扱いには気をつけなさいよ」そう言うと母親はすぐにモークスアウトして行ってしまった。
 相変わらずママはせかせかしてて忙しいなあとバーバラは思ったが、それどころではなかった。彼女はすぐにドローンの操作メニューをひととおり調べ、さっき消したマップをまた表示させると、プロンプトを使ってドローンの現在の位置とマップの複数の《?》ポイント、入手できるティエンの情報のすべてを使って最も効率的に彼が今いる可能性が高い場所へと向かうための指示コードをドローンに入力した。(それをする前にドローンにオプションプログラムをインストールする必要があった。)それらの作業をするために機械がデータを処理している間、バーバラはドローンが今いる場所の立体映像を眺めていた。
 機械はバーバラたちが横やりを入れる前の指示作業を行っていた途中のようで、場所は博多駅の地下に楕円状に広がった旧店舗街や通路の端のほうらしい。ドローンは縦横3mほどの四角い薄茶色の壁が続く暗い地下道にいて、目の前に複数の人の姿があった。映像の中央にはアジア系の男性が床に尻もちをつくように足を投げだして座っていて、左手は体を支えるように床につき、右手はなにかを静止するように前に上げている。彼の前にはぴったりした灰色のスーツを身に着けたやや大柄な人物が仁王立ちで向き合っている。男性の後ろのやや離れたところには女性が2人いて、ほとんど動かずに彼らの様子を見ているようだ。バーバラからはスーツを来た人物は後ろむきなので顔などは見えないが、体つきからすると女性のようだ。
 そうするうちにドローンのデータ処理が完了し、風景が高速で移動し始めたが、現場を離れた瞬間に後ろから男性の「あーっ!!!」という叫び声が聞こえた。もう姿が見えないので想像するしかないが、もしかしたらこのハックしたドローンはなにかの重要な仕事の最中で、バーバラたちがハックしたせいでその仕事が中断してしまったのかもしれない。男性はその中断に直面し、悲しくなって声を上げたのだ。
 バーバラは急に心が傷んで「ごめんなさい!」とつぶやいた。それでも、ティエン・グァンの身が心配だったので、彼女はドローンを操って駅の地下街から抜け出し、プログラムが推測したティエンの現在地に向かって空中を走った。
 このドローンは母親が適当にハックしたのかもしれないが、きっとすぐに替わりのドローンがさっきの現場に向かうだろう。さらに調べれば並行してそちらの状況を確認することも可能だろうが、そのような専門の訓練を受けていないバーバラにはさすがに荷が重すぎるし、詳細がわかったところで彼女には今さら他の機体をハックする権限も無いのだ。気になりつつもバーバラはティエンのほうに意識を切り替えた。
 プログラムが指定したティエンの現在地の候補1位の場所は博多埠頭の倉庫群の端の空き地だった。小型ドローンはその場所にはほんの数分で到着したが、見るからに人が居住するような場所では無さそうだ。空き地の端には古い小屋のようなものが建っていたのでドローンの赤外線センサーで調べてみたが、人がいるような兆候は無かった。バーバラはすぐに次の候補地に向かうようにプログラムに指示した。するとドローンは埠頭からそのまま海上へと飛び出した。機体は徐々に高度を上げ、湾岸から離れていく。黒ずんだ埠頭のコンクリートのかたまりが遠ざかり、倉庫やビル、何かのゴミの山などが連なる博多沿岸部と激しく波打つ黒い海が広がっていく。海の向こう、立体映像の奥のほうには灰色の空の下に白くかすむ高層ビル群が写り、マップポイントタグが自動的に現れて《ハカタCCC》と表示した。
『しょぼっ! ……ハカタCCCってベイルートCCCよりずっとちっちゃいんだ』バーバラは白いビル群をちらっと見てそう思った。それよりも、ドローンが海上に出たことのほうが気になる。たしかにティエンの居場所候補には複数の海上のポイントがあったが、こうして実際に見ても海が広がっているだけで居住地があるようには見えなかった。
 機体は1分ほど海上で高度を上げながら旋回していたが、やがて向かう先が確定したようで、またさきほどの博多埠頭のほうへと向かった。しかし今度は埠頭の手前で速度を下げ、しばらくふらふらと海岸沿いを飛んでいたが、やがて1隻の小さな青色のボートが視界に入るとそちらへと降下して行った。
 海面から離れていたときに思ったよりもずっと波が高く、古びた小さなボートは2mほども上下する波に翻弄されていたので、ドローンはなかなか近寄れなかった。バーバラも手動で操作できないか試そうとしたが、とても自分の技術では無理そうだと諦めた。波のパターンを学習すると機械は徐々に船に近づき、やがて甲板に到着した。
 上からはかなり小さく見えていたが、到着してみると長さが10mほどはありそうなサイズの船で、人の移動用だろうか、甲板のほとんどが屋根と窓に覆われた船室になっており、窓越しに中を見ると前の方には並んだソファのようなものがあり、後ろはただの空間になっている。ソファには2人が座り、後ろの床にも5人ほどが寝そべっているのが見えるが、彼らのどれかがティエンなのかどうか、外から見ただけではわからないし、モークスのユーザー特定機能にもひっかからなかった。
 バーバラはドローンに船室に入るよう指示を出した。ドローンは船室に激突しないように注意しながら上下に揺れる船の甲板を一周すると、1か所だけ窓が10cmほど開いている場所が見つかった。
 操っているドローンのサイズがバーバラにはわからなかったが、プログラムが何度かそこから入ろうと試行したので、入れるサイズなのだろうと判断してそのまま見守った。何十分も経ったように思えたが、しばらくするとドローンからの立体映像が船内だけになり、海は窓の外に見える形になった。入るのに成功したようだ。
 小型ドローンは人が感知できないように姿も音も偽装しているようで、室内の人間は誰もこちらを見る動作をしなかった。寝そべっている5人はおろか、ソファに座っている2人も何をするでも無くがっくりと頭を落としているので、顔が確認できない。モークスユーザー探知機能はずっと作動しているが、順番に近づいてもティエンのフラグが立たないので、どれも違うようだ。ソファ部分と床部分の間に簡易柵で区切られた穴があり、穴は階段になって下へと続いていた。今いるのが船室の2階部分で、下に1階があるようだ。ドローンの視界が階段をフレーミングしてしばらくするとティエンのフラグが矢印と共に現れた。プログラムはティエンが1階にいると判断したようだ。操作メニューにそのフラグを当てて下へ降りるように指示した。
 階段から下へと進むにつれて見える映像がどんどん暗くなる。自動的にドローンが赤外線データを立体映像に重ねたようで、見え方が少し変わった。1階は2階よりはるかに狭く、高さもずっと低い。荷物置き場のような部屋なのか、よく見えないものがごちゃごちゃと置いてあって、人がくつろぐような場所では無いようだ。ドローンはプログラムが示すフラグを頼りにふらふらと室内をさまよった。
 積まれた荷物を避けながらたどりついた場所(そこが室内のどこに当たるのかもわからない)に1人の青年が座っていた。彼は暗い室内で後ろの荷物にもたれかかり、やや呆然とした顔で何かを考えているような様子だった。右手にモークス端末のようなものを持っているのが見えたが、それはだらんと床に置かれて、使っているわけでは無いようだ。プログラムのフラグが正しいなら、彼がティエンのはずだった。
 バーバラはドローンの操作メニューを急いで調べ、音声出力機能に自分の声を接続した。焦る気持ちをおさえて慎重に音量を調節してから、ティエンだと思われる青年からやや離れた位置でドローンをホバリングさせ、そっと声を出力してみた。「ティエン?」
 すぐに青年がハッとした顔で声がするほうを向いた。
「あー、びっくりさせてごめんなさい。私はバーバラです。あなたはティエン・グァン?」
「バーバラ?」青年はいぶかしげにドローンに目を向けて言った。それから少し笑ったような声になって「思春期にオナニーすると精神的危機が回避されるなんてレポートを書いてるバーバラ?」と聞いたので、彼女は急激に安心した気分になって答えた。
「そう! そのバーバラ。見えないと思うけどハカタCCCの小型ドローンをハックして探しに来たんだよ。ティエン、あなた、大丈夫?」
「俺が? うん、大丈夫だよ。さっきは急にモークスアウトしたから、びっくりしたよね。あれから何度もまたモークスインしようとしてみたけど、端末が完全に壊れちゃったみたいで、うまくできなくて……」
「それは、ニナヤが何かやったから壊れちゃったの?」バーバラが聞くと、ティエンが自分の端末を持ち上げてじっと見つめた。
「いや、違うと思う。もともとちょっとずつ壊れてきてたから。4日前には音声出力が完全にできなくなってたんだ。だから今日もうまく話に参加できなかった」
「だったら、先にそう連絡してくれれば良かったのに!」バーバラが言うと、ティエンは少し恥ずかしそうな顔で答えた。
「そうなんだけど……君はCCCに住んでるエリートの学生だから、こんな壊れかけた端末しか使えないって話を理解してもらえるかわからなかった。俺は……見てのとおりアウトにいて、住んでるのもこんな船で、国籍も不明な貧困層だから……それでもこんなボロ端末でも、モークスに入れば自由に世界中の学習プログラムに参加できて、いくらでも学問ができる。能力と環境に恵まれた人たちとも同等に議論ができる。これって本当にすごいことだよ。だから……それで……うまく説明できなかった」
 確かにバーバラには理解しにくいことだった。もし彼女の端末が壊れたとわかったら(彼女の最先端の端末が壊れるなんて考えられないことだが)自分の部屋で交換とつぶやくだけですぐに生活用ロボットが新しい端末を持ってくるだろう。それでも彼女はぼんやりとだがティエンの苦境を感じることはできた。きっと彼女が想像できないくらいの生活で苦労や努力をしながら、それでもティエンは学問することを求めてきたのだろう。
「そういえば……さっきのレポートの話なんだけど……君の」ティエンがやや明るい顔になって言ったが、バーバラは急に恥ずかしさがこみ上げてきた。モークス内ではぜんぜん気にならなかったが、彼のリアルに触れているときにその話を持ち出されるとなんだか気恥ずかしかった。それでも彼女は平静なふりをして答えた。「私のレポート?」
「そう。君は……その、ソレの位置と機能が思春期の精神的危機をやわらげるのに役に立ったから、進化的に温存されたんだって結論してたでしょ? でも、俺は今日の議論の前にそのことについて少し調べたんだよね。確かに過去の研究は少なかったけど、興味深い説があって……それは、社会性に関するもので」
「ああ、ヒト女性のオーガズムと社会性を関連づけるやつ。私もなんかの論文を読んだけど、興味深かったかなあ?」
「うん。ヒトの男女が性行為をするとき、男性が自分自身の快楽のための動きをするだけでは女性は十分な快楽を得られない。だから、もし彼が彼女に対して利他的にふるまうなら、繁殖のための行動だけじゃなく女性のオーガズムのために別の行為もする必要がある」
「あー、《前戯》ってやつね」バーバラはほとんど反射的にそう言ったが、そのあとでまた恥ずかしい気持ちが襲ってきた。これは学問の話なんだから問題無いはずだと彼女は自分に言い聞かせた。
「……だから、それをどのようにできるかで、女性は男性の《優しさ》を調べることができる。それはヒトの社会性、利他的な想像力による《性淘汰》となり得る……
 女性が男性を《優しさ》で選り好みすることで、ヒト全体の《優しさ》レベル、社会性のレベルが上がっていく」
「そうねえ……私はその仮説はあまりにもリベラルすぎる考え方だと思う。だって、現代だったら男性は女性の気持ちを考えないと性行動ができないけど、原始時代は違ったよね? ほんの1万年前にはヒトの社会には法律も警察も無かった。男性は女性の気持ちなんてそこまで気にする必要が無かったんじゃないのかな?」
「法律や警察に縛られなくても、女性の気持ちを気にする男性はいたと思うよ……原始時代から」ティエンは真面目な顔で言った。
「だって、ヒトはかなり前から基本的に一夫一妻制だったんでしょ? 一生一緒にいる相手に幸せでいてもらいたいと思うんじゃないのかな? ……自分自身のためにも」
「ティエン、あなたってロマンチストなんだね」そう言って、すぐにバーバラは考えなおしたように、こうつけ加えた。
「……いや、ある意味リアリストなのかも。自分のために相手を幸せにする、ねえ。なるほど……」
 感情を込めてそう言ったタイミングで、バーバラの母親がまたモークスインしてきて彼女の前に姿を現した。
「思ったより長びいちゃってごめんねー! ……どうなった?」母親はせかせかした調子で言った。
 バーバラはティエンにも母親の声が聞こえるようにドローンを調整しながら、はずんだ声で答えた。
「大丈夫だった! ママがハックしたドローンのおかげでティエンを見つけられたし、ニナヤは彼に何もしてなかったみたい。彼の端末がちょうど壊れちゃっただけだって!」
「あぁ、そう。良かった。これで安心ね」母親もほっとした顔になり、ティエンに軽く挨拶を済ませると、セットの床にまたどっとあぐらをかいて腰を据え、気楽な調子でバーバラとティエンの映像に向かってこう言った。
「そういえばさっきのニナヤの話、後で調べたんだけど、NSO、ノンセクシャル・オリエンテーションって運動のことだったのね?」
「そう、それ!」バーバラが答えると、母親は納得した様子でさらに言った。
「それでわかった。急にモークスアウトしたのは、ニナヤがそのNSOの話をしたからだ。ウェスタリーズはモークスで陰謀論が流行らないように、そういった話が出ると強制的にモークスアウトする仕様になってるのよねー。学生用の議論セットは少し規制をゆるくしてあるから、強制退去まで時間がかかったみたいだけど。たぶん彼女、今後のモークス内の言論活動はかなり制限されるでしょうね」
「なーんだ、そうだったんだ」バーバラがほっとした顔で答えた。「私が早とちりしちゃってたってことかあ……」
「まあ、ウェスタリーズもモークスの過激思想を管理するのは大変みたいだけどね。他にも《プッシーキャット・アンダーカット》っていう名前のセットがあって……」
 軽い調子で話しだした母親の言葉にバーバラは目を丸くした。軽く右手を上げて「私、そのセット知ってる……」と小声で言うと、母親は彼女をちょっと見つめ、特に表情も変えずに話を続けた。
「……そっちは、人類絶滅予測は若い女性のホルモン異常によって男性に恋をしなくなったことが原因だっていう、まあそれもトンデモな陰謀論なんだけど、そっちにはけっこうな割合でCCC所属員が参加してたらしくて、最近リアルで参加者が摘発されてるみたいね」それから母親はバーバラとティエンに向けて、少し真面目な口調になるとさらにこう言った。
「……私は社会学が専門だからその観点で言うと、最近の150年間ってだんだんと男女間抗争が大きくなっていった時代なんだよね。第二次世界大戦の終結までは家父長制に代表されるような男性主体の社会があって、20世紀の半ばからはフェミニズム運動として女性側の権利主張が行われるようになった。21世紀前後から今度は《インセル》と呼ばれる一部の男性がこのような流れに反発する運動が生まれてきて、さらにその一部は暴力と結びついた《フェミサイド》事件を起こすようになった。そんな女性嫌悪の動きに反発した一部の女性も過激化して、現在のNSOみたいな運動になってきたんだと思う。
 ……これらの背景には、ヒトが従事する主要な仕事が一次産業から三次産業に変わっていく流れの中で、仕事が機械化・コンピュータ化していくと共に、ヒトの仕事が《知的能力》の差によって評価されるようになっていったことが関係あると思う。《知的能力》とは何かについては明確な定義があるわけじゃ無いけどね。
 資本主義経済は本質的にグローバル化を指向し、戦争や暴力は資本主義経済のリスクなので排除する方に向かう。戦争や暴力を必要とする社会は男性中心的になるけど、そうで無ければ男女平等指向が有利となる。なぜなら《知的能力》をフル活用するにはその方が都合がいいから。
 だから、本質的には現代の社会的格差の問題は《ヒトの知的能力に差が有ること》なんだけど、知的能力が低いヒトは自分の能力の低さを認識しにくいので、この問題は顕在化されにくい。それで、はるかにわかりやすくて普遍的な《性差》に着目したヘイト感情にスライドするんだと思う。
 端的に言うと、機械化によって男女の能力差よりも知的能力差のほうに社会的価値が認められるようになる過程で、知的能力の高い女性が社会的評価を上げていく一方で知的能力の低い男性の社会的評価が下がっていき、それにまつわるトラブルが《男女間抗争》として表現される。
 でも実質はそれは《知的能力の抗争》であって、知的能力の低い女性の地位はずっと低いし、知的能力の高い男性の地位はずっと高いんだよね。
 ……とはいえ、今後もモークスで何かの陰謀論が発生したとしても、それほど流行することは無いと思うし、社会に大きな影響を与えることも無いんじゃないかな。
 結局のところ、アウトでは生きるのに忙しくてそれどころじゃなくなってるし、CCCでもちゃんと人類絶滅の研究をしていたら忙しくてそれどころじゃないもんねー」
「ふーん、そうなのかあ……」バーバラは納得したような納得してないような微妙な顔で言った。
「……私が思ったのは」彼女は考えながら、さらに言葉をついだ。決然として顔を上げた拍子にピンクの巨大なうさぎの耳の髪飾りが揺れた。
「私たちは……すべての生物は、みーんなお互いにエイリアンなんじゃない? 性別や能力も関係無くて……予測がつかない未知の存在、エイリアン」バーバラはティエンを見た。彼に彼女の姿が見えないのはわかっていたが、それでもティエンには自分の言いたいことは伝わっているという気がした。
「そんなエイリアン同士でコンタクトしようとするのが、すごいことなのかもね?」
 ティエンと別れてハックしたドローンを開放したあと、またせかせかと仕事に戻ろうとする母親に向かって、慌ててバーバラが聞いた。
「そうそう、パパの端末に連絡ができなかったんだけど、ママは原因を知ってる? 今までそんなこと無かったのに……」
 バーバラの母親は動きを止めて真顔でバーバラをじっと見つめた。それからゆっくりと言葉を選ぶように、こう言った。
「それは……どうせ言わなきゃいけないから、いま言うけど……ママとパパ、離婚するの」
「えっ!……」まったく予想もしていなかった言葉に、バーバラは絶句した。母親はとたんに心配そうな顔になったが、なるべく娘を落ちつかせようとする優しい口調で先を続けた。
「急な話で、ごめんね……パパ、隕石の調査に行った先のチームで、年下の研究員と恋愛関係になって、お相手が自然妊娠したそうで。すごい奇跡だから離婚して再婚したいって。
 ママが仕事に夢中になりすぎて、あなたの世話をまかせっきりにしてたこととか、いろいろストレスも有ったみたい……
 でも、あなたのことは大好きなはずだから、しばらくしたら連絡は取れるようになると思う……だからパパを悪くは思わないで」
 ……もちろん。きっと誰も悪くなんか無いのだろう。パパだって男性だ。男性はばらまく性なのだ。だからこういうことも起こるってことだ。頭では完全に理解できるし理解しているのだが、なぜか彼女の世界の何かが急に壊れたような気がした。はっきりと言葉にすることはできないが、突然、バーバラの無邪気な子供時代が完全に終わった。

 ……博多駅の地下道の奥の壁沿いに、リョウとアイが寄り添って座っていた。夜へと向かう寒く暗い地下道にはもう他に誰も通り過ぎることも無かった。
 アイは疲れたのか、リョウの肩に頭をもたせて眠るように目を閉じていた。リョウはただ対面の暗い壁を見つめていた。彼のまわりの人間関係、それから未来についてのぼんやりした希望と不安を感じていたが、それよりも隣から伝わるアイの体の暖かさと、わずかに、でも確かに重く触れたしっとりした肌の感覚のほうがずっとはっきりと彼の心にとりついていた。
 アイがすこし頭を動かして、深い息を吐いた。リョウの胸に彼女の温かい息が流れていった。
 そのとき彼の心に、稲妻のように、流星のように、激しいなにかが突き刺さった。それは彼の心も体も超えて、まるで空の上から急に降ってきたような衝撃だった。もし言葉にするなら、それはこう言っていた……

――オソエ! オカセ! ゼンブウバエ! ナニモカモ……

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