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子猫ちゃん、どこイクの?[SF小説]#4

※はじめにお読みください

 実家から博多に戻ってきた日と同じように、カナエは夕刻の駅の地下街を歩いていた。あの日よりは天気が良かったので、地下街には昼間の明るい日の残りがちらついている。ただ、厚手のジャケットを着ていても今日はかなり肌寒い。去年の冬に実家のまわりに大雪が積もったときのことをぼんやりと思い出しながら、あの日と同じようにハカタCCCが設置した外部業務委託用の壁付パネルまで来ると、カナエはそれに向かって左拳を突き出して言った。
「あたしの能力でできる、いちばん対価が高い業務のテストを受けたい」
「いくつかの認知テストを受ける必要があります。指定のビルに行って専用端末でテストを受けてください」2秒後にパネル音声が言った。
 博多口側にある築6ビルよりもきれいに整備されている大型ビルに向かい、玄関に立つとスッとドアが開いて彼女を迎え入れた。天井から聞こえる音声案内に従い、誰もいないビル内を進んでテスト用の部屋に入って椅子に座り、置いてある専用端末、といっても最新型のモークス端末にしか見えないもの、を装着すると、そのままモークスインした。それほどモークス慣れしているわけでは無かったが、指示された操作をいくつかこなし、現れたセットごとに環境設定プログラムをざっと確認して問題があると指定された箇所のレポートを上げていった。セットを生成するユーザーが矛盾した設定などを行っているとセット世界構築に問題が生じるが、その問題を生成ユーザーが認知できない場合、それをどのように直すのかについて誰かが考える必要があるのだ。
 しばらくするとテストが終了しモークスアウトした。その場ですぐにカナエの合格が告げられた。築6の業務の1.8倍の時給の仕事だ。業務用のビルはここほどでは無いが築6よりも大きくて設備もいいビルだ。仕事場をのぞいてみると、築6ビルよりもはるかに雰囲気がいい感じの女性たちが熱心に働いていた。そのうちの1人は入り口にいるカナエを見るとすぐに席を立ちニコニコした顔で近づいてきた。無視もできずに彼女に挨拶し、もうすぐここで働くと伝えた。女性は嬉しそうに歓迎の言葉を口にして、さらにこのビルの業務内容や生活の雰囲気について手短かに説明してくれた。その口ぶりから彼女の知力やコミュニケーション能力が平均よりずっと上であることが察せられた。仕事はハードだが面白くみんないつも集中して取り組んでいる。隣のビルでは同じ業務を男性たちが行っていて、ジュカの許す範囲でたまに交流もしているという。彼女はこの話をする時にジュカについての不満をわずかににじませたが、それでもここで安全に暮らせているからありがたいという言葉をすぐにつけ加えた。同じように仕事をしていてもメンバーが違えば生活も違ってくるんだなとカナエは思った。そして、こんなに良さそうな場所でも自分は溶けこむことは無いだろうとも思ったが、それはどうでも良かった。
 ビルを出るとすぐにノマがいる地下街の奥の《ゴミ捨て場》へ向かった。こんどは運良くエキケイたちには出くわさなった。前と同じように、いや、前に来たときよりもさらにゴミ捨て場のあたりは真っ暗で、確かに人がいるはずだと思って見ても誰の姿も見えない。カナエは誰かを踏んだりしないようにとまた少し遠くからノマに向かって呼びかけた。聞き取れないくらいのざわめきが起こり、やがてノマがまたふらふらとした様子で暗がりから姿をあらわした。
「カナエちゃん…………」真っ暗で表情すら見えないが、近づいた人影がそう喋った。
 そのときノマの後ろの暗がりから老婆の1人が口をはさんだ。「その子、いつもフラフラしてる。妊娠中毒症かもしれない」その声は小さくかすれていたが、カナエの耳にはっきりと届いた。
「妊娠中毒だって?」暗がりに向かってカナエが聞き返した。「そんなのがあんの?」
「若い子は知らないのかね? 妊娠ってのは別の人間を体に入れておくから、体が胎児を異物だと判断して攻撃しちゃうだろ? だから間に胎盤をはさんでやっと成り立ってるんだ。でも胎盤の調子が悪いと胎児が母体に直接影響して、母体の具合が悪くなるんだよ」
「へえ、妊娠ってのはそんな難しいもんなんだ。そういう体になってるんだから普通にできるんだと思ってた」カナエが言った。
「……最近はみんなどんどん妊娠できなくなってるってね。それなのにこの子は妊娠して、こんな状態で……」さらに別の小さい声がそう言った。
 カナエは後ろをふりかえり、地下街につながるやや明るい通路を注視した。誰も来そうにないのを確認すると、ノマを手招きしてやや離れた場所まで移動した。
 ノマが壁沿いに座るのを手伝ってから自分もやや離れた場所に座ると、カナエは話を切りだした。
「その腹さ……、それって、5ヶ月くらいだよね?」
「はら?」ノマが聞き返したので、カナエはさらに「妊娠して5ヶ月くらいでしょ?」と言った。
「……わからない」困ったようにノマが答えた。カナエはため息をついた。
「アイがそう言ってるから、たぶんそうなんだよ。あの子はしっかりしてるから、ノマが代理母の話に乗って外出した時期なんかも覚えてたわけ。だから計算するとたぶんそれくらいだろうってさ」
「そうなんだ」ノマはぼぉっとした様子で言った。まるで自分のことではないようだ。ノマはカナエの方を向いてそっと手を差しだすと、肩にかかった髪の先をつまんで言った。「髪、伸びたね。髪、黒いね」
 ノマは築6で働いていたときよりもっとボーっととしているようだとカナエは思った。もしかしたら妊娠するとそうなるのかもしれない。あるいは、築6に居たときのほうが無理をしている状態だったのかもしれない。たった2年半のつきあいのノマの何をわかってると思ってたんだろう?
 カナエはノマの方に向き合った。しばらく黙ったまま彼女を見つめると、なるべく感情的にならないように話しだした。
「あのさ……あたし、築6をやめて別の仕事をするんだ。もっと払いがいい仕事。それで金を稼ぐから、その腹を元に戻そう」
「もとに?」ノマがまた聞き返した。カナエが言った。「……調べてみたらわりと近くに医者がいるみたいなんだ。やっぱ中絶って需要がそこそこあるから、評判もいいみたいで……」
「ちゅうぜつ?」またノマがくりかえした。その言葉はノマの脳にインプットされていたようで、彼女は遠いところから記憶をつなげると、カナエの顔をじっと見てこう聞いた。声がやや大きくなった。「……あかちゃんをころすの?」
 カナエがとっさに返事ができないでいると、また同じようにくりかえした。
「……赤ちゃんを殺すの?」それからノマが身動きした。カナエの顔から目を離し、彼女の視線がしばらくのあいだ宙をさまよった。それからまたカナエに目を戻して言った。「あたし、赤ちゃんは殺さない」
 カナエはまたため息をついた。「あのさ……赤んぼがお腹にいたらかわいいのはわかるよ。でも、生んだとしてどうやって育てるわけ? 実の親を見つける? あんたに代理母を仲介したやつも行方知れずだよね。その子はノマには何も関係ない……」
「あたし、赤ちゃんは殺さない!」ノマがさらに大きな声を出したので、カナエもムキになって言い返した。
「だ・か・ら、どうやって育てるんだ? 生んだらずっと育てることになるんだよっ。関係ない他人のガキをずっとだよ! ノマは自分の生活だってまともにやれてないってのに……」
「あたし、赤ちゃんは殺さない」ノマは目に涙をためて繰り返した。「あたしが育てるから。どうにかして生きていくから。……だから、この子は殺さないよ」
 カナエはパッと立ち上がってノマの前に立った。
「あぁっそうっ! じゃあ勝手にすれば? 自分ひとりの生活だってちゃんとできないくせにっ。築6の仕事だってロクにできないくせにっ。あんたみたいな頭の悪い、バカが……」そこまで言ってカナエは言葉を止めた。ノマの両目から涙がいくすじも流れていた。ノマは震えながら、よろよろと立ち上がった。彼女はしゃくりあげながらとぎれとぎれに言った。
「頭が悪くて……バカでごめんね……もうカナエちゃんには……迷惑かけないから……」
 ノマはそのまま泣きながら暗闇にゆっくりと消えていった。カナエはただそこに立っていた。ただ立って震える音の反響を聞きながらノマの後ろ姿を見送った。
 築6ビルのいつもの部屋に戻ると、もう夜の時間だというのにサトが1人でまだ仕事をしていた。サトは意外そうな顔でカナエを見たが、何も言わずに自分の仕事を続けた。カナエも自分の席に座るとそのまま何も言わずに仕事を始めた。30分ほど無言の時間が続いたあと、カナエが口を開いた。
「……そうだ。あたし、別のビルに移ることになったんだ。手続きしないと」
「なんだ、そうなの?」サトが顔を上げて言った。カナエは盛大に頭を反らせて椅子ごと身体を後ろに倒し、天井を見上げてつぶやいた。
「あぁ……やっぱ転職なんて止めときゃ良かった。わざわざ面倒な仕事に変わるなんて、バカなことしちまった」組んだ上の足をブラブラしながら、さらに「……こうなったら、稼いだカネでもっとどっか遠くに行くか……」と続けた。
「せっかく帰ってきたのに、すぐに別の場所に行っちゃうなんて、寂しいよ」カナエのひとり言のような言葉に対してサトは真面目に答えた。「それに、ノマのことを気にしてたじゃない? あの子のことはもういいの?」
「……もういい」天井を見ながらカナエは言った。「自分でなんとかするんだって」
「そぉ……」何とも例えようが無い口調でサトが言った。「……みんな、いろいろあるからね。……自分のことでせいいっぱい」そのまま彼女はモニターを見つめる仕事に戻ったようだった。カナエは放心したように椅子を傾けたまま天井を見上げていた。しばらくするとサトがまた口を開いた。
「……ミカのことも、もういいの? ジュカに頼まれたっていうやつは?」
「あぁ……そっちもあったな」カナエは机のへりで支えていた足を離してガチャッと音を立てて椅子を戻すと、今度は机にひじをついて左手で頭をかかえた。
 駅ビルの仕事をしている限り、ジュカににらまれたらやっかいなのに変わりないが……いったんは引き受けたものの、ジュカの一方的な思いこみの話やあやふやな感想や伝聞ばかりで、あまりにも漠然として興味もわかないミカの事件について、今まで結局ろくに考える気にもなれなかった。
『ミカが死んでも、気にしてるのはジュカだけだ』その思いがまた頭に浮かんだ。ジュカはもうこれからは生死を気にする相手もいないわけだ……あたしも同じだけど。ぼんやりと思考をめぐらせながらテーブルににじむ自分の影を眺めた。そのまましばらく彼女は無意識的な領域におちいった。景色も時間も溶けて無くなった……
「……映像だ。映像が無いっていうのはどういう意味だ?」カナエが急にそう言った。
「えっ?」サトはとまどった顔になったが、その後すぐに「……あぁ、ミカの話?」と理解した様子になって続けた。
「そうそう、そういえばあのとき、ジュカが築6と築5でみんなに聞いたら、そのときのミカの映像は無かったっていう話だったね。でも、このあたりはクシナダの治安維持区域だし、路上で何かがあってミカが急に倒れたんなら、その映像が回ってきてるはずだってジュカも言ってたけど……」
「映像は無かった」カナエがつぶやいた。いちばん最初にそのことを思いつくべきだったのに、自分はどれだけバカなんだと彼女は思った。結局、ミカのことなんか何も考えてなかったんだ。
「……ジュカって、グシカイともクシナダとも繋がってるんだよな」カナエがひとり言のようにつぶやいたので、サトは「えっ?」と聞き返したが、それからすぐに「あぁ、そうだね。あのコンニャクってスーツはクシナダの誰かにもらったらしいから。本当はエキケイはクシナダが管理するはずなんだけど、面倒だからジュカにエキケイの管理を押し付けてるんだよね。確かにジュカが上にいるとエキケイ同士の争いは減ってるけど……」
「……ちょっと今からモークスインする」カナエはそう言うとモニターの横の自分の端末を頭に付けた。それからジュカを呼び出すと、彼女はすでにインして別のセットにいたのだが、3分後に嫌そうな様子でカナエの前に現れた。
「急に呼び出すな!」現れたとたんにジュカはそう怒鳴ったが、カナエは気にせずに彼女に聞いた。
「ミカの件で、クシナダと話がしたいんだけど」
「クシナダ? ミカのことならもう聞いてるよ。調べたけど何もわからないって言われたぞ」
「だろうね。でも、ちょっと思いついてさ。だから直接クシナダと話したいんだ。……繋がってるやつがいるんでしょ? そいつに繋げてもらえる?」
「まあ、そうだけど……しょうがないな、ミカのことなら」ジュカはしぶしぶそう言った。「でも、今すぐ繋げられるかはわかんないぞ……」
「いつでもいいよ」カナエはそう言ったが、ジュカが試すとちょうど接触可能な状態だったようで、しばらくするとクシナダの構成員がそこに現れて「何?」と言った。アバターはもやのような黒い影で、声も聞いたことが無いような機械音声だ。性別も年代もわからない。「誰かっていうのは秘密だからな」とジュカが言った。それから出てきたアバターに向かって「こっちはカナエってやつで、築6で働いてて、ミカの件を調べさせてて」と言った。
「……それってもう終わった話じゃないの? あのさぁ、悪いけどもうエキケイとか駅まわりの管理の話だけにしてくんない? あたしらは純粋な仕事のつきあいをしてるだけで、別に友達じゃないんだからさぁ」影のアバターが言った。ジュカとカナエが言葉を返さなかったので、影は少しとりなすようにさらに言った。
「……まぁ、おかげで駅まわりの管理が楽だから助かってるけどさぁ。エキケイなんて勝手にそのへんの男らが組織化しちゃって排除するのも厄介だし、あんたが上に立っててくれてる方がやりやすいからコンニャクだってあげたわけだし……」
「あー、エキケイのことはちゃんとやってるよ」ジュカが言った。
「ダメな奴はどんどんボコって追い出してるし。グシカイとも連絡して駅まわりには手を出さないように頼んでるし。……ショバ代が面倒だけど」
 カナエが急に話に割りこんだ。「悪いけど、ミカの件でもう一度聞きたいことがあって」
「何? ……しゃあねぇなぁ。さっさと話してよ」嫌そうな声がそう言った。
「ミカが路上で倒れたときの映像は《要チェック》じゃ無かったけど、生データはまだどこかにある? つまり、パトロールドローンが撮影したままのデータってことだけど」カナエが聞いた。
「生データ? さあ、タグの付いてないデータなんて取ってないと思うけど……」相手が言った。
「調べてもらえるか?」ジュカが言うと「えぇっ? 面倒なんだけど……」いかにもやりたくないと言った調子だ。
「……あのさぁ……最近だんだんグシカイが大きくなってて、天神からこっちまでどんどんヤバい空気になってるじゃん。クシナダはアウトは関係無いって言っても、駅のまわりで仕事させてる奴らとかは守る必要があんだよな? それなのにあんたらはムチャクチャ手を抜いて、こっちに仕事を押し付けてるよね? グシカイとだって仕事がやりやすいからってあんたらが繋げたんだよなあ? そんなに自分らの仕事をサボってるんなら、ちょっとくらい調べてくれてもいいはずだよな!」ジュカがそう怒鳴ると、相手の黒い影がちょっと揺らめいて、言った。
「アァァ……わかったって。いつの、どこの映像データよ……」
「20##年##月##日午後##時##分頃、博多駅前東✕✕路地、✕✕ビル前」ジュカがすばやく言った。
「……検索したらいっぱい出てきた。複数のドローンの映像があるみたいね。でもタグ付けが無いから特定はすぐにできないなぁ。パッキングして置いとくからそっちで調べてくれない?」相手の声がそう言うと、映像データのイメージリストが2人の前に積み上げられ、最後にジュカに向かってキーの丸い光が投げられた。
「あたしもそれ欲しいんだけど」カナエが言うと同じ光が飛んできた。詳細表示を見ると特に制限の無いセット入室キーだった。2人が何も言わないうちにすぐにクシナダ隊員の影は消えた。
 それから2人はキーを使ってデータが置かれたセットに入った。セットの空間じゅうに映像リストの小さなイメージがチカチカと詰めこまれていて、灰色のもやに包まれているようだ。
「これ、あたしらだけで調べていくのか?」ジュカが絶望的な様子で言った。
「あたしがデータを絞りこむ検索プログラムを作るから。ただ、ミカが移動した場所と時間だけでもそれなりの量になるだろうから、あとは手作業で確認するしかないかな……」カナエがそう言いながら、プログラム作成メニューを起動した。「まあ、いつもの仕事とそう変わんないっしょ」

 オヲハが占拠している部屋のうちの1つで、ヒロを中心にリョウ以外のメンバーが集まっていた。いつもの1人がけソファに座るヒロの前にうなだれた様子のシンゴが立ち、ヒロの後ろではモンタが別の椅子に座って足を組んでシンゴをにらんでいて、ノブとヨーフィはシンゴの後ろの壁沿いににそれぞれ離れて立っていた。
「……で?」ヒロがシンゴに言った。
「……だから……いちおう話はしたけどさ……」シンゴがぼそぼそとそう言った。
 ヒロがモンタの方を見ると、モンタは眉をしかめ、ゆっくりと立ち上がって部屋の中央に立つシンゴに近づいた。右手にはモークスの端末を持ってシンゴに見せつけるようにブラブラと揺らしている。
「あのな……おまえが戻ってくるのと同じくらいに、俺のとこにジュカからメッセージが来てんだよ。……おまえがエキケイに話したこと、ソッコーで全部ジュカに漏れてんだよ。そんで、今度向こうから出てきてボコってやるって言ってんだよ」モンタが端末を操作するとジュカの声が聞こえてきた。はっきりした言葉はわからないが激しい罵声が部屋に響き、意味はだいたい推測できた。モンタはすぐにそのメッセージを止めた。
「……っとうにおまえは、使えねぇバカだ」ヒロが苦々しげに言った。
「でも……俺は、元から無理だって……」シンゴが弱々しく言った。
「なあ? おまえ、元から裏切るつもりだったんだよな? おまえはあっちに女がいるし、ガキまで作ってんだもんなぁ? 自分だけはいい思いしてんだもんなぁ?」ヒロが言った。部屋の中は全体的に暗く、彼の目の白い部分だけが目立って見えた。
「俺は……だから」シンゴはさらに言葉を継ごうとした。ただ、何を言うべきか思い浮かばなかったし、何を言っても無駄なのはわかっていた。
「……処刑だ処刑」ヒロが言うと、モンタがノブとヨーフィに合図した。2人がシンゴに近づき、両腕をがっちりと押さえると、引きずるように部屋から連れていった。シンゴは何も言わず、抵抗する様子もなく引きづられて行った。
 しばらくして、ホーランがやってきて半開きのドアから部屋をのぞきこんで言った。「シンゴさんとリョウさんを知りませんか? 2人とも今日はぜんぜん見ていなくて」
「どっちも知らねえ」モンタがすぐにそう言った。
「入れよ。こっち来いや」ヒロがホーランを手招きしながら言った。「グシカイの話をまだあまり聞いてない。もっと質問に答えろや」
「もうだいぶ話したと思うんですが……」ホーランは気乗りしない表情を見せたが、言われたとおり部屋に入ってきてヒロのそばまで行った。
 その頃、博多駅の線路の高架下駐車場の入口近くの壁沿いにリョウとアイが座っていた。そこは築6ビルからほど近いが、駅から少し離れた地上であるためにエキケイの見回りコースでは無く、彼らに出くわす危険が少ない穴場だった。クシナダの小型のパトロールドローンがたまに入ってきてブーンというかすかな飛翔音だけが聞こえるが、それもほとんど気にならない頻度だった。
 リョウはアイよりも明るい光が指す入口の近くに座って、たまに外の様子をうかがっていた。それからアイの方を向いて、「暗いの怖くないか?」「寒くないか?」などと聞いてきた。あまりいろいろ聞くのでアイは少し面倒な気持ちになったくらいだ。リョウがやっと落ち着いた様子になると、アイは持ってきた古そうな紙袋を「はい、これ」と言って渡した。紙袋に右手をつっこみ、中身を1つひとつ顔に近づけてからリョウが言った。
「これ、レベ2の配給品じゃん。美味いヤツばっか。もらっていいんか?」
「もちろん」彼女にぴったりとくっついて座ったリョウからほんの少し離れるように座り直しながら、アイが言った。すぐにリョウが自分の足と尻を動かしてまたアイにくっついたので、彼女はさっきの2倍の距離を取り直した。
「……なんで離れる?」リョウが不満そうに聞いた。
「なんでって……こないだ急にチュウしたじゃん。嫌だったのに……」アイが身をすくめながら言った。
「えっ?」リョウは本気でびっくりした顔になった。「嫌って、どういうことだ?」
「だって、急にしたじゃん! 急にそんなことされたくないよ」アイがあきれたように言った。
「あぁー……あれか? あれだな?」リョウは少し考えたあとで、納得した様子で言った。「雰囲気ってやつ? わりぃわりぃ。もっと雰囲気みないとなっ!」アイはため息をついたが、それ以上は何も言わなかった。少し機嫌を損ねたらしいアイに、リョウはまたそわそわした様子になった。
「なあ……俺のこと、好きだよなっ?」リョウがふいに聞いた。
「何? 急に……」アイは不審な顔をしてそう言ったきり、返事をしなかった。それからぼそっと言った。
「……もっと考えなきゃいけないことが有るんじゃないの?」
 彼女のこの反応にリョウの感情はかなり混乱していたが、取り乱せばよけいに状況は悪くなると思ったので、なんとか平静をよそおうとしていた。とにかく、どうにかして彼女の機嫌を直そうとリョウは思ったが、何をどうしたらいいのかがわからない。とりあえず話を変えることにした。
「……そうそう、これさ、築6の配給品って山分けだろ? ほかの奴ら怒んないか?」リョウはもらった配給品を手に持ちながら聞いた。
「……それ、サトさんが毎日規定数の2倍働いて手に入れた個人分だから、大丈夫だよ。あたしはただ持って行ってって頼まれただけ。この時間だってサトさんはまだ働いてるよ」
「なんだぁ、母ちゃんの分かぁ。そりゃありがてえ……」また紙袋をのぞきこみながらリョウが言った。
「……ミカの事で、ジュカがオヲハに目を付けてるみたいだよ。知ってる?」しばらくしてからアイが深刻な顔で言った。
「そうか? でも、誰もヤッてないと思うけどなあ」のんきそうな声でそう言いながらリョウはまだ紙袋の中身をガサゴソとあさっている。「ミカ殺したってジュカに襲われるだけなんだし、あいつらだってそこまでバカじゃねえし……」
 アイが紙袋につっこんだリョウの右手をふいにつかんで強い口調で言った。
「……なんでオヲハなんかに行っちゃったの? サトさんが悲しんでるよ?」
「なんでって……前にも話したじゃん。俺はちゃんとエキケイになろうとしたのに、ジュカが入れてくんなかったんだって。……アイ、もしかしてオヲハのことすげえ極悪組織みたいに思ってねぇか? 別にそんな悪いことは何もしてねえからな? 仕事だってちゃんとやってるし。廃品回収みたいな……」
「でも、グシカイに近づこうとしてるでしょ? ヒロはグシカイに入りたがってる」アイがさらに語気を強めて言った。
「ヒロはなあ……あいつはなんか、野望が強えって言うか……でもモンタがうまく操縦してる感じがする。それに、ヒロってわりと小心者だと思うんだよな。……たぶんグシカイに近づいても、うまくいかねえよ。だから……ずっと廃品回収してると思う」たどたどしく考え考えながらといった様子でリョウがそう言った。
「あたし、ヤクザは嫌い。大っ嫌い」アイがゆっくりと言った。その声が少し震えているように聞こえる。
「わかってるって」リョウはできるかぎりの優しい声でそう言った。アイの肩に手をまわそうとしてみたが、2人とも壁にぴったりと背中を付けて座っていたため、うまくできなかった。
「あたし、天神でグシカイが何をしてるか、ずっと見てたから……」
「そうだよなぁ……」そこまで言うと、2人は黙りこんだ。しばらくしてから、アイがぽつりと言った。
「あたし……暴力は大嫌い」
 リョウがアイを見て、紙袋を脇に置いた。そして彼女の方に身をかがめながら、言った。
「……俺は、ぜったいに暴力ふるったりしない」そっと、膝の上に乗ったアイの左手に自分の右手を重ねた。アイはその手をしばらく見ていたが、意を決した顔になると彼の手の上にさらに自分の右手を乗せて、ほんのすこしだけその手を握った。
「誰にも暴力をふるわないでね。暴力が近づいたら全力で逃げて」リョウの顔を見ながらアイが言った。
「暴力が自分から近づくのかよ?」リョウが面白そうにアイの言い回しにつっこんだ。
 アイはそれには何も答えずにリョウの手を離すと、力を入れて立ち上がった。「あたし、もう帰らないと」
「……帰らないと、ダメか?」残念そうにリョウが言う。
「ジュカに気をつけてね。オヲハのやることにも気をつけてて」アイはそう言うと、座ったままのリョウの元から離れて行った。しばらくその場にとどまっていたリョウも立ち上がり、暗い駐車場跡から明るい道路に出ると、アイが帰っていったであろう博多駅の方角に向かってやや足早に歩きだした。
 博多駅横の高架と大型ビルにはさまれた狭い道まで来たとき、奥の道の脇に中肉中背の男につかまれた腕を引き離そうともがいているアイを見つけた。リョウはほとんど無意識にその道を全力で走り抜け、そのままの勢いでアイと男の間に飛びかかって右手でアイの腕、左手で男の腕をつかんだ。男はびっくりしたのか、すぐにアイから手を離した。リョウはアイを前から抱えるようにしながらビルの壁の際の男から離れた場所まで押していった。それから改めて男を見た。男はリョウが間に入ってもなんでもないような雰囲気でその顔には困ったような笑顔が浮かんでいた。アイの方はと見ると、彼女は怒りを込めた顔で男を睨んでいたので、リョウは改めて身体に力を込めてアイの身体を隠すように男に向き合った。
「アイ……こいつは」リョウが小声で聞くと、アイが震える声で「親父の子分」と答えた。
 男はアイに向かって笑いかけた。「アイちゃん、こんなとこにいたんだな……親父さんが怒ってんぞ。早く帰んないと……」と言いながら男が2歩ほど近づいたので、リョウが両手を広げて防ぎ、アイは身を縮めた。「ちっ近づくな! 嫌がってるだろ!」リョウが声を振り絞って言った。
「このガキ何? アイちゃんのあれ?」男は笑い顔のままアイに向かって話しかけたが、アイは黙っていた。リョウが言った。「アイに手を出したら、おっ、俺が許さない」
「へー許さないんだぁ? どう許さないのかなぁ?」面白そうに男がそう聞き返したが、リョウは答えられなかった。頭の中ではぐるぐると『どうする? どうする?』と思考が回転しているが、何も出てこない。
 相手はヤクザだ。とりあえず殴ってみてもいいが、その後がどうなるかわからない。もしかしたら仲間が近くにいるかもしれないし……。しばらくただ男を睨んでいるだけで時間が過ぎた。何分経ったかもわからなかった。そうするうちに、リョウとビルの壁に挟まれた状態のアイがだんだんと冷静さを取り戻してきたようだった。アイは両手をリョウの肩にかけ、視線を男の顔に見据えると言った。
「……このままあたしが帰らないと、築6の防犯システムが作動する。クシナダが出てくるよ」
「……クシナダ? あいつらは俺らとグルになってるけど?」せせら笑うように男が言った。
「グルになってるのは一部でしょ? 防犯システムが作動したらどのクシナダが来るかわからない。勝手に面倒を起こすのはダメだよね? 幹部はうるさいから……」アイがそう言うと初めて男の顔から笑顔が消えた。近づこうとしていた足を2歩後ろに下げ、身体をゆすってあたりを見渡し、ひとり言のように言った。
「……別に、今すぐ連れて帰ろうって思ったわけじゃねぇ。見かけたから声かけただけだし……俺はもう帰る。親父には話しておくからな」そう捨て台詞を吐くと男は駅の反対方向へと歩いて行き、高架トンネルの向こうへ消えた。
 肩にかけたアイの手から力が抜けていくのをリョウは感じた。振り向くと、少し迷いながらアイの背中に手をまわした。アイはリョウの肩に頭をあずけると少し涙声になりながら言った。
「親父なんか死ねばいいのに。……あいつがお母さんを殺したようなもんなんだ。あそこには絶対に戻らない……」
 数十秒ほど2人はそうしていたが、急に何かを思いついたようにリョウが顔を上げると、アイを引き離した。
「アイ、ここから1人で帰れるか? 俺、ちょっと……」そう言いながらさきほどのヤクザが去った方へと歩きだした。
「どこ行くの? 何するつもり?」アイが慌てて声をかけると、リョウはふりかえり、後ろ歩きになりながら言った。
「あいつ、1人だったみたいだし、今のうちになんとかしねえと……戻ったらアイのことを親父にしゃべるだろ? だから消すしかねぇ……」
「やめてっ!」強い口調でアイが叫んだので、リョウはアイの顔を凝視して足を止めた。
「さっき言ったじゃん。暴力はしないって。なんでそんなすぐ……」アイが言いつのると、リョウがそれを遮った。
「だから、アイには暴力ふるわないって! でもアイを守るためにはしょうがねぇだろ!」そう言って体を反転させると走り出した。
「バカっ! ダメだってば! ……大っ嫌い!!」アイがリョウの後ろ姿に向かって叫んだ。声が狭いビルの間を空に抜けていった。リョウがピタッと足を止めた。アイとの間には5mほどの距離ができていた。
「ハァッ???」振り向いて心底けげんそうな顔をして言った。
「だいきらいって、どういうことだよ? 俺はアイのために命かけようとしてんのに……」
「そんなのいらないんだって! あんたみたいな子供が行って勝てるわけないでしょ? バカみたいなことをするのはやめてっ」
 ここまではっきりとアイに子供あつかいされたことはリョウのプライドをかなり傷つけた。2つ年上の彼女と対等の関係になろうと、いつも頑張っているつもりだった。エキケイが無理だからオヲハで仕事を始めたのもそうだし、今だってちゃんとアイをヤクザから守ったのに。なのに、なんでそんなふうに言われなきゃならないんだ……
「バカ、バカって……アイの方がバカだろ!」リョウは顔を真っ赤にして怒っていた。アイの方に向かってノシノシと引き返してくると、そのまま彼女を見もせずに追いこして駅に向かいながら言った。
「もういい! 知らねぇよ! 帰る!」
 アイがほっとした顔になったのを去っていくリョウが見ることは無かった。彼女はただ黙ってその後ろ姿を見送った。

[フィールドノート]
 今日はメンバーのほとんどに同行やインタビューを断られた。彼らの間で少しトラブルがあったようで、私がその現場に入ろうとするとメンバーから激しい拒絶を受けたので引きとらざるを得なかった。
 フィールドワークは研究対象からの信頼が何よりも重要であるが、その分対象が秘匿することについては配慮が必要で、詳細を知ることは難しくなる。この問題は時間をかけて解決するしかないのだろうが、私の生来の気質が対象の信頼を得るのに適していないのか、彼らが何か特別な状況にあるときに同伴することがなかなか難しく、ここに居て関わろうとするほど嫌われていくような気もする。もしかしたら私はフィールドワークに向いていないのかもしれない。
 データの整理をしていて、オヲハメンバーの中でも特に接触が難しかったモンタとの話し合いができた時のものがあったので、テキストとしてまとめておく。
 2日前のことだが、夜になって私が使用している寝場所に帰ろうとしていると、モンタに呼び止められた。彼はほとんど常にヒロのそばにいて、寝るときはいつもいる部屋の隣の部屋(マットなどが置きっぱなしになっていて、内側から鍵がかかる)に移るだけなので、彼がその場にいるのは意外なことだった。もしかしたら私を待ちかまえていたのかもしれない。
 彼は暗闇の中にたたずんで私をじっと睨みつけていた。無視するわけにもいかないので、何かご用でしょうかと聞くと、「こっちに来いや」と言われ、寝場所とは違う、オヲハの拠点からやや離れた場所まで歩かされた。寝場所にはシンゴとリョウもいるので、メンバーの誰にも私との話を聞かれたくないのだと解釈した。
 このとき私は少し身の危険を感じていたので、念のためクシナダに要請して治安維持用のドローンを派遣させようかとも考えたが、常に私の頭上を飛んでいる記録用の極小ドローン(研究の妨げにならないよう透過・遮音処理されていて存在は気づかれない)にも緊急用の対生物ガス噴射装置が付いていることを思い出したので、事前の要請はしなかった。
 モンタは私と2人きりになっても、しばらくは何も言わずに外の景色を見るふりをしていた。過去の研究事例からこれは対象が重要な話をする前触れであろうと思ったので、私は不安な中にも期待をしながら、彼が話す決心をつけるのを待っていた。やがて、モンタが別の方向を見ながら私に話しかけた。
「お前……こないだお前、俺のことを『頭がいい』って言ったよな」
「はい、言いました」私は簡潔にそう答えた。
「……俺みたいな頭のいいヤツが、なんでこんなチンピラのバカ集団とつるんでんのか、不思議なんだろ?」モンタがそう聞いてきたが、それについては私は特に疑問を感じているわけでは無かった。しかし私は「そうですね……」と答えた。
「だよなあ……俺も不思議なんだよ」モンタは相変わらず外を見ながらそう言った。その口調からなにか得意そうな感情がうかがわれた。
「まあ……お前がいつまでここに居んのか知らねえけど、俺はあいつらをうまく操縦してのし上がる予定だからよ。俺が成功したらお前を呼んでやるから、またインタビューしろよ」
「はい、ありがとうございます」私は何の感情も無くそう言った……が、これまでモンタからは何ひとつインタビューなどできていないという事実を指摘したいという衝動がわきあがった。
「……できれば、今までのモンタさんの生活についても知りたいですね。どこで生まれて、どこで育ったか。家族構成はどうだったかなど……」
「んなことはどうでもいんだよっ」急にぶっきらぼうな調子に戻ってモンタが言った。
「……どうせ、俺らアウターがみじめな暮らしをしてるって笑いたいんだろ? お前らチェイナーはよぉ」
「いえ、私は、研究ですから……」私はそう言ったが、モンタはいつもの彼に戻ってしまい、私をにらんでいた。対象の話を傾聴しながら欲しい情報を聞き出すのは実に難しい。私はせっかくのこの機会になんとかモンタの個人的な話を聞き出したいと焦りのようなものを覚え、必死に言葉を探した。
「……そういえば、シンゴさんは博多に奥さんとお子さんがいるそうですね。オヲハでは他に妻子がいる方はいらっしゃるのか……」話しだしたとたんに私はこの話題はまずかったと悟った。モンタの様子から明らかに激しく狂気じみた憎悪の感情があふれるのを感じたからだ。私はまた彼がすぐに怒鳴りだすと思って身構えたが、予想に反して彼は何も言わなかった。それから彼は怒りを抑えた様子でゆっくりと話しだした。
「シンゴはバカだ……あいつの女もバカだ……」そう言ってしばらく沈黙すると、またこう言った。
「まあ……女をはらませたのは良くやった……女はガキができると不幸になるからな……不幸な女をジャンジャン増やさねえとな……」
 私はその言葉にゾッとしてしばらくは何も言えなかった。彼の話の論理もさっぱりわからなかった。しかし、どうしても聞かずにはいられなかったので、こう聞いた。
「なぜ……子供ができると不幸なのですか?」
「そんなの、見てりゃそうだってわかんだろ」彼はバカにしたように答えた。
「くだらねえ人間を生みだしてるんだから不幸に決まってんじゃん」こう答えながら彼は少し笑っているようだった。
 なにか哲学的なモンタの思想がかいまみえた気がした。やはり彼は知識や教養はまったく無いが、ある点では深い思考ができる人間なのだと改めて私は思った。しかし不適切な生育環境が彼の考え方を歪めてしまい、女性に対する認知に問題ができてしまったのだと思われた。そういえば、シンゴが自分の妻の話をしたときにも似たような歪みを感じたことに私はそのとき気がついた。
 私が黙っていると、モンタがさらに話を続けた。
「まあ……それでも男よりはマシだ……男は女よりもっと不幸だ……」
「それは……なぜ?」私が聞くと、またしばらく考えてからモンタが答えた。
「女はガキができると必死に生きなきゃなんねえから不幸だろ? でも男はなんにも無えんだよ。必死になることが何も無え。だから男は女を不幸にするために頑張ってんだよ。他に何も無いからな。……なんでわざわざこんな世界に生まれてくんのか、お前わかるか?」
「……それは、わかりませんが……モンタさんの考えは少し理解できた気がします」私は何の作意も無くそう答えた。実際、この段階になると私は客観的な研究者の立場を忘れそうになるほど彼の話に深い感動を覚えていた。すぐにハカタCCCに戻ってこのオヲハでのフィールドワークを論文にまとめたいという気持ちにまでなったのだ。
 感動する私の様子を見て、モンタも何か満足したようだった。結局、もともと彼が何を話したかったのかはよくわからなかった。もしかしたら言いたいことなど特に無かったのかもしれない。しかし彼は機嫌を良くして、じゃあなと言って去って行った。
 オヲハというグループのキーマンであるモンタと良好な接触ができたことは私にとっても素晴らしいことだった。そのときは衝動的にハカタCCCに戻りたいと思ったが、やはりまだここでのフィールドワークを深めていき、よりいい研究にしたいと考えている。
 可能であれば、彼らの間で今日起こったトラブルの詳細についても後で確認したいと思う。
[日時:2075年04月12日24時57分、記述者:ホーラン・ジン]

「……まあ、そんな感じで、変なセットだったんだよね」バーバラがプッシーキャット・アンダーカットのセットで見聞きした話をひと通りし終わると、ニナヤが呆れたように口を開いた。
「よくもそんな得体の知れないセットで議論しようなんて思ったもんだわ。確かにモークスには人類絶滅予測の主流派じゃない説もいろいろあって面白いけど、だからこそ思想の根本を見抜く目が必要で、あなたみたいな子供にはまだまだ難しいんだって。私から見ると、そのセットは《ガラクタ》だ」
「そんなこと言って、あなただって2こ上なだけでしょぉ! その《見抜く目》だって、いろいろ見ていかなきゃ養われないわけじゃん? 現に、私は有意義な知見を得たんだから……」
 バーバラが言い返すのをはばむようにニナヤがさらに声をはりあげて話しはじめた。
「知ってる? まだオールド・ネットしか無かった時代、人類は《SNS》というもので自分たちの意見を言い合っていたんだって。その頃も今と同じようにネット接続環境だけは世界中に行き渡っていたから、ほとんどの人がSNSで自分の意見を言うことができたし、他の誰の意見でも知ることができた。そしたら何が起こったと思う? 極端で過激な意見ばかりのクラスターが局所的に活動して、そうじゃない人々は排除されていった。オールド・ネットはまるで戦場のようになっていったって。
 だから新しくCCCでモークスを作るときに、ユーザーが極力《話し合わない》ようにシステムを設計したんだって。知的レベルが高い人同士の話し合いは生産的だけど、そうでない人たちの話し合いは非生産的で集団は過激化し、社会の崩壊につながるから。そしてたいていのアウターにとっても《話し合わない》環境のほうが居心地がいいっていうデータもある。他者との意見のすり合わせは個人にとって心理的ストレスになるからね。それは前頭前野の高度なネットワークの使用が可能にすることだから」
「んー、……でも、ヒトの知的レベルも多様性が大事なんだってママが……」似たような話を聞いたなと思いながらバーバラがそう言いかけた。
「ママ・ママ・ママって、あなた何歳なの?」するとニナヤがさらにイライラして声をはりあげた。もともと少しつきあいにくいパーソナリティの持ち主だと感じていたが、今日のニナヤは特に機嫌が悪そうだ。話題を変えようとバーバラは思った。
「……じゃあ、そちらのテーマの方はどう? こないだ話してた、ミトコンドリアの戦争については?」
 話を振られて、ニナヤはやや落ち着きを取り戻したようだった。彼女は考えをめぐらせるように頭をかしげて一点を見つめ、しばらくしてから語り始めた。
「……ミトコンドリアについては、いったん置いておくことにした。こないだの議論の後すこし手詰まりになった感じがあってね……それで、真核生物の《多細胞化》についてもっと調べてみることにした。
 結局、配偶子が精子と卵子に分かれるようになったのには、真核生物の一部が多細胞化したことと関係しているようだしね。
 それで、真核生物の多細胞化は、動物と植物と菌類でそれぞれ独立に発生したみたいなんだけど、植物や菌類は基本的には両性具有で、単細胞の真核生物から進化した流れとして違和感が無い。いろいろ考えると私がいちばん知りたいのは《なぜオスという生物が存在するのか?》なんだよね。だから植物は大まかにいうとテーマとして外れるから、多細胞の動物についてだけ考えることにしたわけ。
 10億年前ごろには最初の多細胞生物が現れていたんだけど、最初は単細胞の集合体のようなものから始まったことは間違いない。その頃には多細胞といっても一つ一つの細胞は同じ形をしていて、生殖のための配偶子だけが別に作られていた。機能分化が無いカイメンみたいなものが主流だったわけ。
 ……それで、地球の歴史上《スノーボール・アース》と呼ばれる、氷河期の寒冷化が極度に進行して地球の全表面……陸も海も……が厚さ千メートルもの氷河に覆われて、その状態が数億年も続くようなことが3回起こったと言われてるんだけど……何よ、急に眠気が覚めた顔して。
 1回目は約22億年前、《ヒューロニアン氷期のスノーボール・アース》で、2回目が7億年前の《スターチアン氷期》、3回めが6億年前の《マリノアン氷期のスノーボール・アース》。
 1回目のスノーボール・アースの直後に《大酸化イベント》が起こり、シアノバクテリアによって地球大気の酸素濃度が急激に増加した。そのことが真核生物の誕生に影響したってのはこないだ話したよね。そして2回目と3回めのスノーボール・アースの後に《多細胞生物》が進化し、エディアカラ紀、そしてカンブリア紀の生物種爆発へと繋がっていった。 
 この話は前に習ったから知ってはいたんだけど、2回めと3回目のスノーボール・アースと多細胞生物の進化について、改めて調べてみたんだよね。
 7億年前には地球の大気の酸素濃度は現代に近いくらいになっていて、原核生物も真核生物も酸素が使える種類が圧倒的に増えていたわけよね。だけどスノーボール・アースの時代になると地球の表面温度は赤道でもマイナス40度、海は千メートルもの氷に覆われてそれまで繁栄していた藻類も光合成ができなくなり、氷の下の海中の酸素濃度も極度に低くなったと言われていて、当然、その状況下ではかなりの生物種が絶滅したと考えられている。
 研究によると、3回めのスノーボール・アースの後期にもわずかに光合成する藻類が存在したようなんだけど、その後の解凍期に、地球は一時的に気温が60度くらいまで上がったんだよね。そのときにまたかなりの数のバクテリアや真核生物が死に絶えてしまったらしい。
 それからだんだんと気温が下がっていく間に極小数になっていたバクテリアが爆発的に増殖した。そして気温が下がったあと、今度は真核生物が復活し、それから急激な多細胞生物の発展につながったみたい。
 スノーボール・アースの前にはカイメンみたいな多細胞生物がいたけど、スノーボール・アースの後で特に進化したのが左右対称の形態をした動物で、私たちの祖先もそこに含まれる。
 そして、何より重要なのが、《機能分化》した多細胞生物の誕生。私たちみたいな個々の細胞が機能分化して全体で一つの個体としてふるまうような生物の誕生って、かなりの進化的ジャンプなわけじゃない?
 たとえば粘菌は細胞集団が一個体としてふるまう高度なシステムを持っているけど、個々の細胞の形態はみんな同じで、《自己組織化》というシステムによってそれを実現している。私たちみたいな動物や植物とは別の方法論なんだよね。
 私たちのような機能分化した多細胞生物は、単細胞の配偶子から細胞分裂によって組織化され機能分化した多細胞の生命体を発生させることができる。これを実現するにはゲノム上の、おそらくエピゲノムの複数の進化が必要で、《なぜ、それがスノーボール・アースの大絶滅時代の後に起こったのか?》は解明されていない……」
 バーバラは食い入るようにニナヤの話を聞いていたが、そこまでくるとつい「うんうん、それでそれで?」と声を出した。
「それで……そこからが難しいんだよ。」ニナヤは首を振ってそう言った。
 それから、さらに真剣な顔つきでじっとバーバラの目を見つめ、言葉を続けた。
「……私、このレポートを書きながら、頭の中でずっとずっと、《なぜ男性が存在するのか》っていうフレーズが繰り返し浮かんでいたわけ。本当に、自分でも嫌になるくらいの妄執だと思ったわよ……そうしてたら、ふと思いついたの……そもそも、オスがいることで何が起こるかというと、《ゲノムが多様化する》ってことでしょ。多様化っていうのは《非コード領域》が増えるってことじゃない?
 ……進化はその非コード領域をエピジェネティックな調節の道具として利用するようになったけど、元はといえば、最初はそれはただの《ゴミ》だったわけじゃない?
 だって、考えてみてよ? 原核生物は本体ゲノムはそのままで、プラスミドの受け渡しだけを行っていた。そしてプラスミドはたいてい生物にとって有益なものだったから、バクテリアのゲノムにはほとんどタンパク質をコードする配列しか無いわけでしょ。
 真核生物だって単細胞のゲノムには非コード領域は少ない。なのに多細胞化した生物のゲノムにはどんどん非コード領域が増えていった。
 逆に言うと、非コード領域が増えるような《何か》が起こって、多細胞化やオス・メスの分化が起こった。
 もっと言うと、非コード領域をどんどん増やすように働くその《何か》が生物界全体でより増える手段として多細胞化して《男性》にたどり着いた。その《何か》にとっては《男性》をこの地球上に登場させることは必然的だったんじゃないかって……」
「何それ……すっごく面白い!」バーバラは両目を輝かせて言った。
「……面白いけど、その《何か》をもうちょっと具体的にしないと、レポートとして認めてくれないんじゃないかな?」
「……わかってるよ」苦い顔で肩をすくめてみせながらニナヤが言った。「こんなんじゃ、まだぜんぜん妄想の域だもんね。……でも、面白いって思ってくれて良かったわ。次はもうちょっと頑張って突き詰めてくるからね」
「うんうん、すっごく楽しみ」バーバラが明るい顔で言った。
「……なんか私もスイッチが入ったかも。もっといろいろ調べてみなきゃ!」
 その言葉に、少し呆れた様子でニナヤが言った。
「……今まで何をしてたのよ、あなたは」

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