見出し画像

無気力こそがありのまま

終わらない。止まらない。Twitterを見始めると、何にもならない情報がずっと頭に流れ込んでくる。

分かっているのに、スクロールがやめられない。スクロールを辞めても、やることが無い。

睡眠薬が増えた。結果、昨日はよく眠れた。そうしたら途端に張り詰めた糸が切れたみたいに、動けなくなった。

私にとって体の調子が悪いことは日常で、良い時が非日常である。いや、実際は半々くらいであろうか。今は調子が悪いため、世界が全てマイナスに傾いて見える。

眠れば良いものの、抗おうとする。今日も、そうだ。いまだって、眠る準備をすればいいものの、抗ってnoteを書いている。

明日だって特に予定は無いものの、幸せである保証がなく、明日の気持ちなど今の私には分からず、現状のぬるま湯みたいな不愉快に、浸かっている。

私が眠っている間に、夏が終わったらしい。冬が始まり、外は寒く、より一層生気を失う。

冷たくなった頬をなでるより、汗ばんだ体の不愉快さで起床する方が生きている心地がする。

いずれ来る死のことをぼんやり考える。一生について、想像してみる。主治医の顔が浮かぶ。

現状に絶望しているかと言われると、分からないというのが今の状態での答えだ。

できることはやったし、病院には通い続けている。なにより、友人がいる。

人が、私をつなぎ止めている。大学生活4年間の間に自殺することは、ないようにすると誓った日がある。

友人が死ぬと、落ち込むからだ。死んだ人のことを考えながら、私になにか出来なかったかと非を探すことをさせたくない。

死んだ人に出来たことなんて、ない。全て総括で結果だから、仕方がない。だからこそ、もっと孤独になってからで良い。

自分のために測った自殺で人を傷つけることを、したくないと思う。この国ではそれは難しいか。

カウンセラーの先生に渡す、生活記録を書かなければならない。私はそれが億劫で動けない。この気持ちも、生きているから生まれると思えば、不思議である。

人間、強い希死念慮を乗り越えたとて、うつ状態が治る訳ではなく、現在も短スパンで鬱と平常を繰り返している。

わたしにとってどちらが平常かは分からない。うつ状態は乗っ取りに近く、自分でないと思っていた。現在も、過度な希死念慮がある状態はそうに違いないと思っている。

しかしながら、元気に活動ができる状態も自分であるかと言われると、そう出ないのかもしれないなと思い始めた。

頑張れない。出来ない。立ち向かえない。自分のベースはやはり、そんな無気力な状態のような気がしてならない。

感覚の問題は答えが出ることも無く、考えるだけ堂々巡りで、頭がおかしくなる。辞めることにする。

終わらない。止まらない。Twitterも思考も同じである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?