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母校から現役生向け文集に社会人枠で寄稿して、と言われ嬉しくなって初稿をnoteに書いてみる


以下、このまま寄稿するわけではないのですが、勢いで初稿を書いてそのままnoteに載せてみます!  
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            中1~高3の自分へ

                     MyDearest株式会社 岸上健人

在校生の皆様はじめまして。MyDearest株式会社の岸上健人と申します。
まずはじめに、 「MyDearest株式会社ってどこやねん?」と思っている方。 ただしい疑問です!
実は僕が5年前に設立して代表取締役をやっている会社です。 VRでゲームを中心としたエンターテインメントを作って世界中に届けている会社なのです。
 「VR!?」と思われる方々がほとんどかと思うのですが、新しい技術の部類で世界的に非常に伸びている分野なので少しでも注目いただけると嬉しいです!

どちらかというとおとなしい人が多いと言われる徳島文理中高なので、僕のように「起業(自分で会社を立ち上げる)」する人は学園の歴史の中でも本当に珍しい、つまり変人なんじゃないかと思っています。 
そんな人間ですがこの度は大変光栄にもY教頭先生から、この文集である「メルクマール」に社会人枠つまり卒業生の大人としてアドバイスや仕事内容の文章を書いてほしい、と言われました!(Y先生は僕が高一時代の担任なのです)

ただ本当に変人なので皆様にアドバイスなんてするのおこがましく、別の方式を取らせてください! 17年前~12年前の過去の自分へ、つまりタイトルの「中1~高3の自分へ」向けたメッセージを書いてみます。(もう10数年も前なんですね。絶句します)
その中で現役で中1~高3の皆様に少しでも感じていただけるものがあればとてもとても嬉しいです。

 
 「中1~中2の自分へ」

まず初めに、29歳大人になった自分の人生は「すこぶる楽しい」です。
ただ、12歳~14歳の僕は自分の人生に悲観していましたね。
 より直接的に表現すると「辛い」と感じていると思います。

 中学生になったばかりで友人関係も全くうまくいってなかったし(ボッチ)、そして徳島文理は進学校なのにもかかわらず成績は200人中180番~150番くらいでした。
担任からも怒られてばかり、親にも心配かけてばかりでした。 しかも、バブルが弾けた平成3年生まれとしての当時は「悲観的」な空気が社会にあったように感じられましたね。失われた20年と言われ(30年になってしまいましたが)、未来に希望を持てるような世の中の空気ではなかったです。しかも徳島という田舎生まれ。
 そんな中「自分の人生は大したことのないものなんだ。大人になることは今よりもさらに辛いことなんだろう」と強く呪いのように考えてしまっていました。
 しかしそれは全部間違いでした。
 大人になった自分の人生はびっくりするほど刺激的なものになりましたし、人間関係も驚くほど楽しいものになりました。 子供の頃は制限が多く自分でできることは少ないと考えてしまっているため、もし人生が辛いと感じているのであればそのままそれが大人になっても続いてしまうと考えても無理はありません。 でも大人になるということは、責任が増える分「自由になれる」ということです。自分が責任をとる覚悟があれば会社を作ることだってできています。 しかも中1~中2の頃の僕は「将来会社を作ろう」なんて一ミリも考えていませんでした。現実逃避にゲームをすることか、学外で所属していた野球チームの練習などばかりでしたね。 でも、そのゲームが好き、ということは将来の大きな武器になります。 また、成績が悪い中で「社会(歴史とか公民とか)」の科目だけまだ好きだったと思います。そのただ一つだけの好きなものを得意科目にして中2で社会限定で学年でも上位を取ることができました。 思うに、何か強烈に好きなものがある、ということは才能の一つなのかもしれません。 僕が今、会社の代表であるとともに、ゲームプロデューサーをやっているんだから。

 「中3の自分へ」

 中3は間違いなく人生の転機でした。
 中3の僕自身が「何かが大きく変わり始めている」と感じているのではないでしょうか。
 そして徳島文理の中高一貫という仕組みは今になってものすごく良かったと感じています。中学3年生という期間を受験がなく過ごせたのは、それまで不安定だった友人関係を安定させたり、様々なことに打ち込むこと、何かを目指し始める時期、として最高でした。
 大人しい校風の進学校にもかかわらず、僕らの代だけは激しくヤンチャで、「あなたたちは我が校始まって以来のアホよ!」と学年集会で宣告されたことを大人になった今でもはっきり思い出します。怒られていたのにその場で「俺たちはクズだ!」となぜか盛り上がってしまいさらにしこたま怒られましたね。でも、中1~中2までは確かに荒れていたけど、中3になると皆元気さはそのままに友人関係が安定して、その時期に自分を含めて皆がとても仲良くなったと思います。その友情は大人になった今でも続いています。(思うに中1~中2というのは思春期で皆の精神状態が不安定で色々な軋轢が起きやすい時期なのかもしれません) また、学外で所属していた中学硬式野球チームが最後の年、というのもあり今までで一番練習に打ち込んでいると思います(毎日素振り500回でしたね) そして土日中ずっと練習をしては、壮絶すぎる練習のため月曜から学校の階段が登れないほど筋肉痛の日々かと思います。 それが原因で僕の人生の一番の転機となるある悟りを得たと思います。
 「野球は練習をしすぎて何度も『死ぬ』と思った。でも勉強はいくらしても死なないぞ」と。
 そこから得意科目だった社会を起点として、次に英語、国語、と他の科目も好きになっていきます。中1と中2で社会を好きで得意になってくれた自分に言いたい「ありがとう」と。
たった一つだけど、何か一つでもすごく得意なことを持つことはその後の道を切り開いてくれます。 野球は大好きだったのですが、いくら練習をして上手い選手には到底追いつけず後に甲子園に行ったチームメイトも見ていて自分の限界をハッキリと認識しました。
 そこから大好きではあったけど壮絶な野球練習がない、ある意味で憩いの時間である学校生活を好きになり始めました。信じられないことに授業も聴くようになって楽しんでいました。野球の練習以外すべてを憩いだと感じていたのでこれまでの僕では信じられないのですが休み時間に10分くらい教科書を読んで予習のようなことを無意識にやっていました(野球の練習をしすぎて頭のネジが外れていたのだと思います) しかも中2の頃にドラマをやっていた「ドラゴン桜」で「アホでも勉強したら東大に行ける」という考え方に衝撃を受けたのが、中3になって決定的になります。(まさか2021年になって再びドラゴン桜のドラマをやっているとは) これまで僕は学年で200人中180番~150番くらいでした。 進学校でクラス分けもあって、成績良いクラスとアホクラスがわかれており、僕は当然アホクラスに所属していました。
 それにもかかわらず中3になって突然「学年50番」と取りました。 
その瞬間僕は思いました「東大に行こう」と。我ながら短絡的すぎて本当にアホの極みなのですがドラゴン桜の価値観に影響を受けすぎていて本当に直感的に強くそう思ったのです。
 その考えを思いついた瞬間に担任だったN先生を探して走り、N先生を見つけた瞬間に「先生!僕東大に行きたいです!どうすればいいですか!」*と叫びました。N先生はO先生と一緒に談笑しており、O先生は我慢できず噴き出していましたが、N先生はいたって真面目な顔になり 「わかった!一緒にどうすれば良いか考えよう!」と言ってくれました。 間違いなくこの言葉も僕の人生を変えました。 アホだった生徒が一度だけ学年50番をとったらいきなり「東大に行きたい!」と言っても温かく受け入れてくれる、そういう校風に僕は救われました。(ちなみに本当に東大に行くには学年10番以内くらいが必要でした) 浮ついていたし、冷静になれば恥ずかしいことを言っていたけど、その言葉を宣言した「中3の自分よくやった!」 アホみたいに高い目標を宣言しても応援してくれる人がいる、僕の人生でこれまで感じたことのないような自己肯定感をくれる言葉は、僕が現在会社の代表となり、まだ新しい技術であるVRを使って世界に挑戦している勇気の土台となっています。

 「高1の自分へ」

 高1は中高一貫である徳島文理の生徒である僕にとって、最も自由でオアシスのようなに感じていることと思います。
 そして何よりも、この高1の期間が現在まで続く「リーダーとしての自分」を作ってくれるのです。
 実は2007年の高1の僕らの代が我が校の歴史で初めての「文化祭」を作りました。同級生のH君が中心となり高1で新しくなった校長先生に皆で直談判に行っていることかと思います。(文化祭がこれまでなかったなんて驚きですが、大人しい生徒が多くて厳しめの校風なので、そういうものだったのかもしれません。ただ、僕が所属していた2010年卒業の代はヤンチャだったので嬉々として前例を打破しました。その前例のないことをする2010年卒業代の空気は今の僕を作ってくれています。高2で生徒会長制度も初めて作りましたね)
 僕は中3の頃にアホクラスでしたが、高1に進級して「成績が良いクラス」に所属することとなります。 所属が決まった時、浮ついた気持ちとともにとんでもなく緊張していました。 その時の担任が何を隠そう、この文集の寄稿の依頼をくれたY先生です。 Y先生は僕がアホクラスから移ってきた人間だと当然知っていたのですが、「志望校は東大です!」と言うと「そうか頑張れ!できることは何でも応援する!」と言ってくれました。Y先生の優しさと面倒見の良さに高1の僕はどれほど救われたか、大人になった今になって沁みるほどに思うので、高1の僕はできるだけ感謝してほしい。
 そして我が校初めての文化祭は実験的に小規模で開催され、高1中心となり、高1の各クラスは「演劇」をすることになりました。 この「演劇」も今の僕を形作ってくれています。 当時、アホクラスから移ってきた僕は異端児的な立ち位置で、これまで同級生ながら羨望の眼差しで眺めたことしかなかった位の高い人(成績の良い)たちと同じクラスとなり、内心はものすごくビビっていたのですが、「挑戦しかない!」と手を挙げて演劇の内容を提案しました。そしてそれをクラスメイトの皆が面白がってくれ、なんと僕が脚本・監督、を務めることになります。
 「スクールカースト底辺の男の子が、スクールカースト頂点の男の子と身体が入れ替わって数々の事件が起きる学園コメディ」の脚本を書きました。
今にして思っても意外と面白そうな設定で、これが原体験となって、今でもゲームプロデューサーとして脚本作りに携わるようになったのだと思います。
 そして演劇での監督体験は衝撃的でした。 非常に優秀で優しいクラスメイトたちが自分が書いた脚本を元に、様々な協力をしてくれ、演技をしてくれ、時には雑用も率先してこなしてくれたのです。
 この高1での演劇での監督としてやり方が、今の29歳の僕の会社の代表取締役としての振る舞いに一番影響を与えています。
 今、会社の代表である僕自身は面白そうな未来の物語を語って方向性を指し示すだけです。 代表とはあくまで役割に過ぎず、実際にゲームを作ってくれるデザイナー、エンジニアなどの優秀なクリエイターの方々が主役となって、面白いゲームを作ってくれています。 あくまで代表は「面白そうな未来の方向を指し示すだけ」 リーダーのおかげで成功することは決してない。
ただリーダーがダメだと高い確率で失敗する。 主役は皆である。
 「成功はすべて皆のおかげ。失敗はすべてリーダーのせい」
それを体験を持って知れたのがこの時です。
 高1の自分は、無意識にそう感じているだけで全くもってこの言葉の重要を理解はしていなかったね。
だから高2で失敗します。

 「高2の自分へ」

 高2は僕の人生の中で、最も調子に乗っており失敗をした年です。
 高1の色々な成功体験を自分のおかげだと勘違いしてしまい、傲慢なリーダーとなりクラスメイトに嫌われてしまいます。当然です。
「成功はすべて皆のおかげ。失敗はすべてリーダーのせい」
この言葉がすべてなのですから。 僕は初めてクラス委員長となり、しかもこの時の担任のO先生が非常に寛容で、僕が帰りのホームルームを主導する、ということまで許してくれました。
 僕は当時5クラスあった内の「5年4組」に所属していました。「5年5組が一番成績の良いクラス」で、4組は成績が中の上くらいの人たちの集まりで、僕はその中だと最も成績が良く、しかもアホクラスからの成り上がり組であるために、皆本当は必死で勉強すれば成績はもっと上がるだろう!と短絡的に考えていました。 そして進学校であるため高2の時期は高3に向けて皆が一気に受験勉強ムードになる時です。 その中で「4組の成績を皆で伸ばそう!」目標だけは良い方針を打ち出しました。 しかし、各個人の事情を無視した振る舞いや、成績が伸びない人へのプレッシャーを与えるような悪いリーダーになってしまったのです。 成りあがった人ほど、自分がかつて所属していたコミュニティへ厳しく接するものなのだと大人になった今はわかります。当日、まさに僕はその典型例でした。自分が成績が伸びたのだから、伸びないのはその人の努力不足が原因である。そう思い込んでいました。本当は人による成長速度も違いますし、伸びるきっかけも方法論も違います、あくまで僕は皆を励ますくらいの役割に徹すれば良かっただけなのです。
 僕は傲慢がゆえにO先生の信頼を裏切ってしまいクラスメイトから嫌われてしまいますが、この時に僕にホームルームを主導させてくれた経験は僕のプレゼン能力を圧倒的に向上させてくれました。 僕が会社の代表として様々な人にプレゼンする力がついたのはこの高2の時の経験のおかげです。 

 「高3の自分へ」

 高3でも僕は「4組」に所属しました。6年4組です。
 実は自分は5年4組での失敗経験がトラウマで、4組を抜けて6年生(高3)では5組に入って静かに東大に向けて受験勉強しようと思い順位を上げていました。
 しかし高2の春休みに、僕は再び4組に所属することになる、という情報を入手しました。 僕はこれは自分への罰なのだ、成績も5組に入れるようなものでは本当はなかったのかもしれない、と落ち込んでいました。
 しかし真偽は定かではないのですが、3組の担任だった当時30前半の今の僕とほとんど年齢が変わらないT先生が教えてくれたことがありました。 「お前の成績は本当なら5組だけど、O先生が4組にはお前のリーダーシップが必要だと言って、4組に入れたんだよ」と。 これは僕が勇気がなく真偽を確かめられず、T先生が僕を励ますためだけに言った嘘かもしれないのですが、当時本当に励まされました。 O先生はもう忘れているかもしれないけど、本当にありがとうございます。
そして始まった6年4組での徳島文理での学校生活1年間ですが、本当に楽しかった、のでした。 大学受験一直線で、しかも東大を目指していたのでかなりハードでストレスもあったはずなのですが予想外の良いことも沢山ありました。 中3の頃から仲良しで「あなたたちは我が校始まって以来のアホよ!」と一緒に言われた仲間たちが成績をあげて沢山4組に入ってきたのです。 僕は5年4組では傲慢で孤独で失敗したリーダーでしたが、 6年4組では、もちろん5年4組での失敗を体験して僕のことを嫌っている人もいましたが、中3以来のアホ親友たちに囲まれて孤独ではなくなりました。 僕はただ「俺たちはアホだったけど成り上がれるんだ!」とただ楽しそうに宣言して、皆で一緒に勉強をするだけでした。
 5年4組時代のようにカッコつけて孤独になるのではなく、素のままの自分で、つまりアホのままで、ただひたすら目標を目指して皆で必死に勉強して学校生活を楽しみました。 僕たちは仲が良く自分たちのことを「俺たちはクズだ!」と言い合っていました。「でもクズでもやってやるんだじゃああ!!!!」と叫んでいました。 高3の時期をここまで楽しく、そして一生懸命におくれたことは僕の人生の宝です。

 「結論」

 ここまで読んで皆様はこう思うでしょう。
 この人はその後、東大に受かったんだろうな、と。
 でも実は僕は第一志望であった東大にはみごとに落ちました。
 そして後期試験で受かった大阪大学外国語学部スペイン語専攻に入るのです。 後期試験は、そもそも受けるつもりもなく、僕は東京にいきたくてしょうがなかったので、英語が得意というノリ程度に志望届けを出しているだけでした。 僕は実は当時「国連職員」を目指していました。 母親から「世のため人のためになる仕事をしなさい」とずっと言われて育ったので、世界のために何かしたいと考えて目標としていました。 そういう想いもあり後期試験で無意識で外国語学部を選択したのかもしれません。
しかし、どうしても東京に行きたい気持ちが捨てらず、僕はその大阪大学外国語学部スペイン語専攻を一年でやめて、慶應の経済学部に入り直すことになります。
大学を入り直す時には、両親からお金を一銭ももらわらないことが条件になったので、僕は沢山の人の助けを借りて、奨学金を借りて、築74年で三人部屋の家賃3千円の男子寮に住んで苦学生を東京でやることになります。 (大学に入り直す時に、僕が高3の時の学年主任だった重鎮U先生にとんでもないくらいお世話になりました。一生かけて御礼を言いたいです)
そして、実は人生で一番大変だった実は会社の代表をやっている今より、苦学生だった大学時代なのですが、その築74年のオンボロ男子寮で、人生を変える出会いをしたのです。
僕の三人部屋で同部屋だった人物が、中2からVRを研究している人間で、その人間によって「新しいテクノロジーで世の中を変える魅力」に目覚めされられてしまいました。
 高3の僕が目標としてした国連職員は、僕のような破天荒気質の人間ではなく、もっとスマートでエリート気質な人たちがいくところである、と知ったこともあり、自分はVRを使って新しい時代を作るんだ、と決意して今の僕があります。
その後、ソフトバンクという会社に入って、孫正義の後継者育成機関としてのソフトバンクアカデミアという経営塾に入り、すぐに起業してしまいます。
 そして今があります。
 実はY先生から「2000文字程度で」と言われていたのもかかわらず、まさかの7500文字も書いてしまい、大反省しています・・・!
 もっともっと書きたいこともあるのですが、VRの話や会社経営の話、それにゲームも話は、良かったら僕のtwitterをフォローしたり、検索して調べてみてください!
 とにかく破天荒に生きてきましたが、必死に生きてきました。
 今振り返ると信じられないのですが、沢山の徳島文理での経験の点が繋がって線になり今の自分となっています。
 大人になったらどうなるんだろうと思っている人が多いと思いますが29歳の僕は18歳の頃の僕と中身はほとんど変わっていません。
 18歳の頃とおんなじようなことも沢山考えます。
 ただ一つだけ言えるのは、 大人は楽しいぞ。未来はすこぶる楽しいぞ。 ということだけです。
 必死に生きていると沢山の可能性が生まれて、沢山の人に助けてもらい自分のやりたいことを実現することができるようになります。

お互いに世の中を変える挑戦をする中で、近い未来に徳島文理の在校生の皆様と出会えることを楽しみにしています。 

良かったら僕が代表を務めるMyDearest という会社のアルトデウスBC、東京クロノス、というVRゲームをチェックしてみてください! (VRのヘッドセットはOculusQuest2がオススメです)



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